遅船庵筆記

久松留守のほうがよい

日本ではじめてインフルエンザが流行したのは一八九0年、明治二十三年の冬で、翌年春になるとますますひどくなり広く病名が知られたと岡本綺堂の随筆に書かれていた。 石井研堂『明治事物起源』にもインフルエンザの流行は「明治二十三年二月、内務省衛生局…

史料の裏側

安政三年(一八五七年)備前岡山藩は倹約令の一環として被差別部落民にたいし、公式の場においては紋なし、渋柿による渋染の着衣を義務づけ、下駄履きは原則禁止すると御触書を発した。 着物にまで加えられた制約と差別に被差別部落民は非武装で強訴を行い、…

朝永振一郎の「基本、休講です」

一九六五年にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎は東京教育大(現筑波大)の教授で、一時期は学長を務めていたが授業はほとんどせず、年度はじめに事務方が、朝永先生の授業は基本、休講です、開講するときは張り紙を出しますからよく掲示板を見ていてく…

「レディ・ジョーカー」と「ファミリーヒストリー」

Amazonビデオのコンテンツに「レディ・ジョーカー」があった。二0一三年にWOWOWが製作した本作をこれまで寡聞にして知らなかったが、かねてより同和問題が重要な要素として織り込まれた作品なので映像化は難しいだろうと考えていて予想が覆ったのはうれしい…

都知事選挙をめぐる雑談

東京都知事選挙関連のニュースで増田寛也という方が区長会や市町村長会の有志から出馬要請があったと段取りをしたうえで、自民党、公明党などの推薦を得て立候補表明するのを見て、通常だったらなんとも思わなかっただろうが今回は違った。 というのもいっぽ…

ロマノフ家の秘宝

この五月にサンクトペテルブルクとモスクワで見たロマノフ王朝の金銀財宝や美術品はとてつもなく豪華なものだった。 五時間かけて見学したエルミタージュ美術館はエカチェリーナ二世(1729-1796)の専用美術品展示室に発していて、後代のロマノフ家やロシア…

神経蕪雑

ある歌手が、CDで聞いてもらう前提で音作りをしているので、mp3に圧縮してしまうと自分の聞いてもらいたい音じゃなくなってしまうと言っていて、それを読んでからというものiPodで音楽を聴くとき、大好きなこの曲も本当はもっといい音なんじゃないかと思うよ…

兼好と志ん朝

小野道風が書き写した『和漢朗詠集』を持っていると言う人がいたので、ある人が、藤原公任の編集した書物をそれより前の道風が書き写したというのは年代が違うでしょう、そんなことはありえないと指摘したところ、だからこそ世にも稀な、めずらしいものと応…

追悼京極純一先生

二月十二日京極純一先生の訃報に接した。同月一日老衰のため東京都内の病院で亡くなられ、葬儀はご家族だけで執り行われた。享年九十二歳。 先生が一九八六年に東京大学出版会から上梓した『日本人と政治』には一九八一年夏の高知市での二つの講演が収められ…

「本が売れない」考

公立図書館の貸し出しにより本が売れなくなっているとして、大手出版社や作家たちが、発売から一定期間、新刊本の貸し出しをやめるよう求める動きがある、との報道があった。 新刊書の貸し出しを一定期間禁止すれば売り上げが伸びる・・・・・・本当だろうか…

すべからく

矢野誠一編『志ん生讃江』は古今亭志ん生の芸と人について書きしるされたエッセイや対談で編まれた見事なアンソロジーで、久しぶりに人物論の醍醐味をあじわった。二00七年に河出書房から刊行されている本なのにこれまで知らず、ずいぶんと遅ればせの読書…

勇気のあり方

毎年八月十五日の前後には戦争関連の番組が放送される。敗戦から七十年のことしは例年よりも多くの放送があったはずだが、わたしは唯一NHK 「知られざる終戦工作」を視聴した。 採りあげられたのは終戦時、鈴木貫太郎総理大臣秘書官兼陸軍省軍務局御用掛を務…

七十年目の敗戦の日に 10 終章〜和解と平和

歴史修正主義という言葉がある。歴史は新しい史料が発見され、あるいは新たな視角から従来の史料の解釈に変更がくわえられるなどすると書き換えられるのが常だから、その意味で絶えず修正を迫られている。だから何をいまさら歴史の修正をこと挙げするのだろ…

七十年目の敗戦の日に 9「日本のいちばん長い日」

昭和史のコンパクトな史料集として重宝している半藤一利編『昭和史探索』の第一巻に一九二八年(昭和三年)六月四日の張作霖爆殺事件の処理の過程で西園寺公望と牧野伸顕とが天皇と皇室のありかたについて見解の相違を生じさせた興味深い議論がある。 はじめ…

七十年目の敗戦の日に 8 個人的な体験

七十年目の敗戦の日の時点でわたしが懐いている先の大戦についての歴史像を述べて来た。ひょっとすると、人によってはこれも、自虐史観、東京裁判史観、戦後の誤った歴史教育に基づく歴史像となるのかもしれない。 できるだけ歴史のイメージの基となった事実…

七十年目の敗戦の日に 7 朝鮮人従軍慰安婦問題

いま日韓のあいだの歴史と外交をめぐる問題のひとつに朝鮮人従軍慰安婦問題がある。政治的な文脈としては一九九三年八月四日に宮沢内閣の河野洋平内閣官房長官が発表した談話が基点となる。 一般に河野談話として知られるその内容は、慰安婦の存在を認め、慰…

七十年目の敗戦の日に 6 二二六事件

笠井潔、白井聡『日本劣化論』は、NHKが二二六事件を扱った歴史番組に出演した御厨貴、加藤陽子、筒井清忠の三人が、蹶起将校に対する正面切った批判をしなかったことを紹介したうえで、近年の議論の傾向として将校たちの心情はともかく、結果として軍部独裁…

七十年目の敗戦の日に 5 愚行の象徴

西園寺公望はおなじ公家の出自という親近感もあり近衛文麿に期待していたが、その近衛は軍の政治介入や国家総動員体制が進むなか、元老西園寺は議会主義の牙城であり「国是の発展の上からいうとやっぱり邪魔になるように思う」と語っている。くわえて英米と…

七十年目の敗戦の日に 4 テロリズム

大久保利通、大隈重信、原敬、浜口雄幸、犬養毅……テロにより死去もしくは被害に遭った政治家である。政治目的を達するための殺人や暴力があってならないのは当然で、上の人たちはテロの犠牲者として位置づけられなければならない。現代の無差別テロといっし…

七十年目の敗戦の日に 3 二つの国

一九三九年(昭和十四年)八月三十日陸軍大将阿部信行を首班とする内閣が成立したが、政権運営のむつかしさからはやくも翌年一月十六日に総辞職し、短命の内閣となった。 首相を辞した阿部は原田熊雄に「今日のやうに、まるで二つの国ー陸軍といふ国ーと、そ…

七十年目の敗戦の日に 2 愚行

とりあえず「先の大戦」と書いたあの戦争を、わたしは無知、無能な軍部政権による愚行だったと考えている。時代の空気として国際協調精神の蒸発と、牧野伸顕が支えとした「常識」の喪失があり、満洲事変はそれらを顕現させた。 「鬼畜米英」「必勝の信念」「…

七十年目の敗戦の日に  1 戦争の呼称と満洲事変

きょう二0一五年八月十五日は敗戦の日から七十年の節目の日にあたる。よい機会だから先の大戦についての自分の考えを整理しておきたいとおもった。もとより近現代史の研究者でもなければ、専門的な著作や史資料に持続的に接してきた者でもない。だから以下…

ときには説を曲げて・・・

ちかごろいちばん愉快だったニュースは六月四日の衆議院憲法審査会で参考人として出席した長谷部恭男早稲田大学教授と、小林節慶應義塾大学名誉教授が安倍政権の成立をめざす安全保障関連法案を違憲としたことで、とくに長谷部教授は自民党が推薦した方だっ…

曲学阿世の徒

曲学阿世の徒は真理に背いて時代の好みにおもねり、世間の人に気に入られるような説を唱える者を指す。 出典は司馬遷『史記 』「儒林伝」。 わたしがこの言葉をいつ知ったのかは定かではないけれど、吉田茂の発言を通じてだったのはたしかである。 ジョン・…

人を育てる

古今亭志ん朝が朝太の名で前座デビューした頃というから一九五七年(昭和三十二年)の話だろう。当時新国劇の脚本を書いていた池波正太郎は朝太を劇団に入れて、ゆくゆくは後継者にしたいと内幕で相談したことがあったという。 実現を見なかったのは落語ファ…

STAP騒動について〜寺田寅彦を読みながら

過日、独立行政法人理化学研究所はSTAP細胞の有無を確かめるため進めてきた検証実験を打ち切ると発表し、STAP現象は再現できなかったと結論づけた。チームとは別に、小保方晴子研究員が行った実験でもSTAP細胞は作製できず、存在を確認できないままこの問題…

松の内

きょうは一月十五日。むかしはこの日までが松の内とされていた。 門松を取り払う松納(まつおさめ)を何日とするかについて肥前国平戸藩の藩主松浦静山『甲子夜話』は「正月門松を設くること、諸家一様ならず、通例は年越より七草の日迄なるが、十五日迄置く…

去年今年

去年今年貫く棒の如きもの(虚子) 「去年今年」という季語は川端康成が鎌倉駅構内に掲げられていた高浜虚子の句を目にし、感嘆して随筆に書き一躍有名になったという。よく知られるようになったいきさつから明治以後の季題のような気がしていたが馬琴の編ん…

一定不変

男は娼婦を買うのと買わないのに分類されるという説がある。ほんとかどうかは知らない。仮にこれを認めるとして、二つの割合はどうなっているのか、時代によってこの割合は変化するのか、しないのか、という問題にぶつかる。 永井荷風の作品の多くは芸者や娼…

金目の話〜チョー極私的ミクロ経済篇

内閣府が11月17日に発表した7〜9月期の国内総生産(GDP)速報値は実質で前期比0・4%の減となり、民間調査機関の予想をだいぶん下回るものとなった。 わたしは東日本大震災のあった年の三月末で定年退職し、翌月から年金生活となった。もちろん年収は大きく…