政治資金問題をめぐる不祥事で「離党勧告」の処分を受けた安倍派幹部の世耕弘成前参院幹事長が四月四日に離党届を提出し、その際、記者団の取材に応じ「明鏡止水の心境。一番重い処分を誠実に受けたい。冷静な気持ちで政治責任を取って事態を収束させたい」と語った。前にも書いたことだが、処分ばかりでなくその他都合の悪いとき政治家はよく「明鏡止水」を口にする。
そこで『新明解国語辞典』(三省堂)は、《[曇りの無い鏡と静かにたたえた水の意]心の平静を乱す何ものも無い、落ち着いた静かな心境》と語義を示したうえで《[不明朗のうわさがある高官などが、世間に対して弁明する時などによく使われる]》と補足を加えている。さすが「新解さん」、人間と社会の観察が鋭い。
一九八九年六月リクルート事件で竹下内閣が退陣し、宇野宗佑外相が後継首相となったが直後に神楽坂の芸者が宇野を告発してスキャンダルとなり、七月の参議院選挙で自民党は大敗北を喫し八月に宇野は退陣した。このときもニュースで宇野が「明鏡止水の心境」と口にしていて、中学生だった息子がその意味を訊くので、こういうときのためにあるのが辞書じゃないかと子供に引かせたところ、その辞書が「新解さん」でうえの驚きの記述があった!
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乞食と坊主は三日やったらやめられないというが、尾崎放哉、種田山頭火といった乞食坊主の生活はそれほど生やさしいものではなかった。対して派閥のパーティ券のキックバックで私腹を肥やす政治家、こちらは三日やればやめられないだろう。働かなくてよくて、いくら金がかかるか考える必要のないのは乞食、坊主、三流政治家のいずれだろうか?
弁護士、政治家また第三代検事総長だった花井卓蔵(1868-1931)が「古い本を調べますとね、乞食の犯罪、貧乏人の犯罪などはあまり罰せられていない。高位高官の者の汚職の罪。こういうのは死刑を課したものでした、西洋から来た今の法律は、行為を罰して動機を罰しないが、殺した方が善人で、殺された方が悪人だという殺人事件だってあるはずです」と述べていて、いまを照らしている。
ついでながら、明治憲法の最大の問題点は天皇を輔弼する内閣の責任で、「現在は、軍機軍令に関しては、陸海軍大臣のみ輔弼の責任を持っている。軍関係の制度、予算に関しては、内閣は口を出せない。これでは立憲政治とはいえない」。つまり軍はいくらでも政府に口出しできるが、政府は軍に口出しできない。わたしはこの花井の卓見を知ったとき感銘を受けた。
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ことし七月三日に新札が発行される。デザインの一新は二00四年以来二十年ぶりで、一万円札は渋沢栄一、五千円は津田梅子、千円は北里柴三郎の肖像となる。
そこで渋沢栄一の気になるエピソードを。
関東大震災のとき渋沢栄一が、震災は天の下した罰だという天譴論(東日本大震災のときは石原慎太郎都知事がこれをいった)を述べたところ、菊池寛が、だったら栄一がいちばん先に天罰を受けなければならないと反論した。渋沢栄一についてはよく知らないながらこのエピソードでわたしの渋沢評価はよろしくない。
ところが先日、佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文春文庫)を読んでいると渋沢栄一の臨終の模様があり、 天譴論のときとは異なり高い見識を示していた。その枕元には孫の渋沢敬三と第一銀行頭取佐々木勇之助がいて、佐々木が「敬三さんがいますから、銀行のことはご安心ください。必らず敬三さんを頭取にいたします」と話しかけると九十一歳の栄一は驚くような大声で応えた。「それはいけません。そんなことは余計なことです。本人にやれる力があれば別ですが、私の孫だからという理由だけで頭取にするのは間違っています」とはねつけるようにいった。このとき敬三は最後まで肉親のセンチメンタルな感情にとらわれず在野の実業家として死んでいこうとする祖父を頼もしく感じていた。
せっかくだから北里柴三郎のエピソードも書いておこう。明治二十 年の初夏、明治日本の軍医制度を確立した石黒忠悳(いしぐろただのり)はウィーンでの万国衛生会議に日本代表として出席した。石黒は留学中の軍医、森林太郎をともないベルリンに立ち寄り、おなじく留学中の北里柴三郎に、三年の留学期間のうち二年がたったので細菌学はそれぐらいにして、あとの一年は衛生学をやるよう命じたところ北里は「だめです。細菌学はこれから一段と重要になる分野。適当に片づけておけるものではありません。専攻している私の判断におまかせ下さい」と拒否した。石黒が「おい、上司の命にそむくつもりか」というと北里は辞職も辞せずの態度で、けっきょく森林太郎があいだに立ち、また石黒も細菌学の権威で、北里の上司だったコッホと会ったうえで北里の主張を認めた。
おなじ年、のちに内務大臣や東京市長となる後藤新平も渡欧してコッホに会い、細菌学についてご教授いただきたいと頼むと、北里の下に配属する、それを承知ならここで学んでもよいとの答えだった。後藤は、役所ではわたしのほうが先輩だが、学者としては北里のほうが上なので彼を師と仰ぎますと応じた。北里と後藤の気骨そして明治という時代の潑剌を感じる話である。
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うえの北里柴三郎の話は星新一『祖父・小金井良精の記』にみえている。同書に、 鴎外の妹で、星新一の祖母にあたる小金井喜美子が次女を出産して、鴎外に命名を頼んだところ、摩尼というえらくむつかしそうな名を示したので、喜美子はすっかり驚いて、夫小金井良精の一字を取り「せい(精)」という簡単な名にしてすませたという逸話があった。
鴎外は長男に於菟(おと)、長女・茉莉(まり)、次女・杏奴(あんぬ)、次男・不律(ふりつ)、三男・類(るい)といったずいぶんハイカラな名前をつけていて、親戚の子供にも名付を頼まれるとおなじような名前にしようとしていたのだった。
きっかけはドイツに留学していたとき、林太郎という発音が外国人には発音しにくいものだったため、子供の名前は世界に通用するもの、 世界に出たとき子供に名前で苦労させたくない 、とくにフランス語やドイツ語でもおかしくないようにと考えたことにあったそうだ。
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マンハッタン計画という原爆開発の過程と、原爆投下をめぐる政治過程を上手に組み合わせ、戦中と戦後を行き来させながら「原爆の父」オッペンハイマーの意識、考え方の変化を追ったクリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」は考え抜かれた作劇術をもとに真正面から原爆という問題に切り込んでいた。その思い、悩みは普遍的なものだが、わが国ではこれに被爆国としての国民感情が複雑さを増幅させる。
戦中は核開発、実験の成功に高揚しながらも投下に疑問を覚えていたオッペンハイマーが戦後すぐホワイトハウスに招かれたときは、業績を讃えるトルーマン大統領のまえで思わず涙を流した。その涙を見咎めたトルーマンは、あんな泣き虫野郎を二度とこの部屋に入れるなと怒る。オッピーの人生の象徴的な場面である。
そうして「原爆の父」は東西冷戦、赤狩りのなか水爆開発に反対したことから公職追放された。かれは原爆を超えた叡智に達したのか?トルーマンのいう弱気の泣き虫野郎に堕したのか?原爆投下は戦争終結を早めさせ、永井荷風流にいえば皇国の軍隊による日本占領を終わらせたのか?思いと感情の整理はつかない。
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高知県生まれのわたしは宮本常一『忘れられた日本人』にある「土佐源氏」を、坂本長利の一人芝居「土佐源氏」の舞台を、何度か読み、また観ている。そこから宮本常一の著作に手を伸ばせばよかったが『忘れられた日本人』で止まった。
先日、網野善彦『中世荘園の様相 』(岩波文庫 )を購入して、 ふとこの歴史家が高く評価した宮本常一について少しは知っておきたいと網野本はあとにして『ちくま日本文学 宮本常一』を読んでみた。なかの「高野豆腐小屋」に「あらゆる古いことが消えたように見えてもそれは表面だけのことであって、ちょうど地下水のように古くからの伝統は滾々として村人の生活の底を流れており、また前代を知る古い村の人たちには消えて行った行事もなつかしい思い出として胸の中に生きているのである」とあった。宮本ワールドの肝というべき記述であろう。宮本は古老の語りの多くを、方言のまま忠実にしるしているのもいまとなっては貴重である。
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『ちくま日本文学 宮本常一』を読了。そこで佐野眞一『旅する巨人 』(文春文庫)と『宮本常一が見た日本』(ちくま文庫)を通じて宮本の世界を一望してみた。
佐野は「宮本(常一)はよく旅の巨人といわれる。しかし、その大きさは、歩いた距離にあるわけではなかった。宮本の本当の大きさは、歴史というタテ軸と、移動というヨコ軸を交差させながら、この日本列島に生きた人々を深い愛情をもって丸ごととらえようとした、そのダイナミズムとスケールにあった」という。
宮本常一とかれを指導し、支援した渋沢敬三。ともにたいへんな人たちだったんだな。もしも若いとき『ちくま日本文学 宮本常一』や『旅する巨人 』を読んでいたらわたしの読書傾向はいささか変わっていたかもしれない。それのほど興味深い人生の軌跡であり、学問的な偉業である。
また『宮本常一が見た日本』の二0一0年四月一日の日付のあるあとがきで佐野眞一 が宮本の撮った写真に寄せて《日本人の「読む力」の著しい減退》を指摘していた。「読む力」は人間の身体能力すべてに関わっており、身体能力のすべてを稼働させないとほんとうに「読み」といたことにならないとも。
佐野眞一の指摘の当否はわからない。ただ最近、平山周吉『小津安二郎』、尾形敏朗『小津安二郎 晩秋の味』という二冊の小津関連の本を読み、二人の著者の小津安二郎を「読む力」に圧倒された。こちらが恥ずかしくなるほどの「読む力」だった。 故田中真澄氏による資料の編纂、掘り起こしとも相まって小津を「読む力」はこれからもさまざまに提示されるだろう。
いっぽうで、映画ってもっとお気楽に鑑賞してよいじゃないかと考えている。「たかが映画じゃないか」である。古今亭志ん朝さんが何かの噺のまくらで、近ごろのお客さまのなかには昔の速記本と比べながら聞いている方もいらっしゃったりして、ま、それほどのものじゃございませんから、と語っていた。映画、落語を学問の対象にするのはよいが、これらに向かう気分が堅苦しくなっては本末転倒である。
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ビリー・ホリデイのアルバム「奇妙な果実」を聴いた。お久しぶりでした。コモドアに吹き込んだ名曲揃いの名盤は彼女の最高作だ。ただお久しぶりになりやすいのは「奇妙な果実」が黒人の辛苦を歌っていて徒や疎かにできない、片手間には聴けないといった気持が先行するためだ。
「奇妙な果実」とは、リンチにあって虐殺され木に吊りさげられた黒人の死体のことで「南部の木には、変わった実がなる……」にはじまり、木に吊るされた黒人の死体が腐敗して崩れていく情景が描写される。だから聴く前にそれなりの姿勢、緊張を意識せざるをえない。こちらの姿勢が試されているような気がする。
一九三九年十月『ニューヨーク・ポスト』紙のサミュエル・グラフトン記者が「奇妙な果実」について《南部で虐げられる者の怒りが溢れかえるとき、そこで鳴る「ラ・マルセイエーズ」こそこの歌だ》と書いた。
小津作品でいえば「東京物語」はいざ鑑賞となると緊張感が増すのに対して「彼岸花」や「秋日和」「お早よう」などはなごやかな気持で観られるのがうれしい。「奇妙な果実」を聴こうとするときの気持は「東京物語」を前にしたときのそれと似ている。
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春日太一『やくざ映画入門』(小学館新書2021)を読んだ。任侠、実録の双方にわたり、東映を主にしながら日活、大映、東宝、松竹へもよく目配りしていて、便利な入門書となっている。東映でいえば任侠映画から実録にかけてのころは、高校生、大学生でカネがなくて見逃している作品が多いのでその意味でもありがたい。
さすがに『仁義なき戦い』は公開時に観ている。ところが困ったことに笠原和夫シナリオの四部作プラス高田宏治シナリオの完結篇があまりに魅力的で以後のやくざ映画にさほど食指が動かない事態となった。そのためだろう『仁義なき戦い』以降での春日氏の推しは「アウトレイジ」だが、わたしはむしろ「竜二」や「ヤクザと家族」など変化球的やくざ映画を評価したい。
いずれにせよせっかく『やくざ映画入門』を一読したから、これを参照していくつか当たってみよう。なにしろ「極道の妻」シリーズは三、四作しか観ていない貧弱さである。なおわたしはいま配信で「日本統一」を観ていてようやく二十作まで来た。ときに晩酌の友としていて、お酒でストーリーを忘れても、とちゅうで寝ても、次回はしっかりつながっている。
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春日太一『やくざ映画入門』に触発されて夏目雅子の「なめたらいかんぜよ」が流行語となった「鬼龍院花子の生涯」をみた。ふるさと土佐の高知の話やき、ここからは土佐弁で書くぜよ。
土佐の高知で生まれ育った者ですけんど郷土出身の作家宮尾登美子の本を読んだことも、原作の映画化作品もこれまでご縁がなかったが春日太一の本を読みゆううちに「鬼龍院花子の生涯」をみるならいまだと、ようやくみましたぞね。
「鬼龍院花子の生涯」。五社英雄監督一九八二年。やくざ映画は好きじゃあが、とくに土佐の侠客に関心はなかったきに四十年あまりみる気は起こらんかったけんど、春日太一氏のおかげでようやく鑑賞した。「なめたらいかんぜよ」は夏目雅子が亡夫の遺骨をめぐるやりとりのなかで義父の小沢栄太郎に放った言葉じゃったとはじめて知った。
夏目雅子の演じた松恵は県立第一高女を出て小学校の先生をやりよった。代用教員じゃないみたいじゃったきに師範学校へも行っちゅうかもしれん。じつは、あしのおかあも第一高女出て小学校の先生をやりよったぞね。師範学校へは行ってのうて、戦中か戦後の混乱のなか講習を受けて教員免許をもろうたゆうていいよった。姿形は月とスッポンというか、満月とホタルばあ違うちょったが松恵の後輩じゃった。