松の内


きょうは一月十五日。むかしはこの日までが松の内とされていた。
門松を取り払う松納(まつおさめ)を何日とするかについて肥前国平戸藩の藩主松浦静山甲子夜話』は「正月門松を設くること、諸家一様ならず、通例は年越より七草の日迄なるが、十五日迄置く家もあり」としているが、曲亭馬琴俳諧歳時記栞草』に「正月十五日迄を、松の内・注連の内と云。江戸にては七日に門戸の飾りを除く。近来の風俗也」とあるように松の内を七日までとするのは「近来の風俗」だった。
「万朝報」の記者から劇作家、演劇研究家となった若月紫蘭『東京年中行事』には、昔は正月十四日まで門松を残して置いたが、やがて七日の朝になって取り払うようになった、寛文以後は六日の夕刻にこれを取り払い、松の小枝をその跡へ差し込んで置くようになったとあり、寛文年間(一六六一年〜一六七二年)がターニングポイントだったことが知れる。
寛文期に変わったについてはどのような事情があったのか。これについては若月紫蘭に代わり喜多川守貞が「江戸も昔は、十六日に門松・注連縄等を除き納む。寛文二年より、七日にこれを除くべきの府命あり。今に至りて、七日これを除く。これ火災しばしばなる故なり。京阪は、今も十六日にこれを除く」と説明してくれている。(『守貞謾稿』』)
「山出しの町馴にけり門の松」(釣玄)
『古句を観る』に採られている上の句について著者の柴田宵曲は、山から出したままの材木でも、町へ持ってくるにはだいぶん手数をかけなければならぬが門松ならばその必要はなく、山から持って来てすぐに使える、その松の木が門に立ち町になじんだ様子を詠んだと説いている。
同書は「元禄期(元禄年間ではない)に成った俳書の中から、なるべく有名でない作家の、あまり有名でない句を取上げて見ようとした」もので、作者釣玄が江戸の人で元禄期(元禄年間は一六八八年から一七0四年)にこれを詠んだとすれば、句中の門松は六日もしくは七日まで町に馴れて飾られていたと解される。