久松留守のほうがよい

日本ではじめてインフルエンザが流行したのは一八九0年、明治二十三年の冬で、翌年春になるとますますひどくなり広く病名が知られたと岡本綺堂の随筆に書かれていた。
石井研堂『明治事物起源』にもインフルエンザの流行は「明治二十三年二月、内務省衛生局にて、臨時報告を発せしほどにて、古来漢方医は傷寒または感冒と称へしものあるべきも、インフルエンザと称せるは今年よりのことなり」とあり、こちらにはロシアからアメリカ経由で神戸横浜に上陸という感染経路も紹介されている。
綺堂随筆に戻ると、明治二十三年のインフルエンザを当時の江戸っ子は感染する病気なので「お染」と呼んだ。インフルエンザにはいささか可愛すぎる命名ではあったが、それはともかく「お染」とくれば「久松」で、和泉国の侍相良丈太夫の遺児で野崎村の百姓久作に養育された久松が奉公先の大坂の質店油屋の娘お染との許されぬ恋のために心中するに至る物語は歌舞伎、浄瑠璃の有名な演目ではあっても、インフルエンザの「お染」が「久松」を慕って来られてはたいへんと軒に「久松留守」という貼札を貼るのが流行したのだった。
というわけで今年もおたがい「久松留守」とまいりたいものです。

昨年義母が九十一歳で他界しましたのでお年賀の儀は遠慮させていただきました。