追悼京極純一先生

二月十二日京極純一先生の訃報に接した。同月一日老衰のため東京都内の病院で亡くなられ、葬儀はご家族だけで執り行われた。享年九十二歳。
先生が一九八六年に東京大学出版会から上梓した『日本人と政治』には一九八一年夏の高知市での二つの講演が収められている。ひとつは「政治と人間」(八月十三日第三十一回高知市夏期大学講座)、もうひとつは「日本の近代化の特徴」(八月十四日、「現代を考える会」での講演、原題「原点と原点移動」)で、前者は数百名を、後者は二十名ほどを前にしての講演だった。双方の注記によりわたしがはじめて先生のお話をお聞きしたのが八月十三日、はじめて言葉を交わしたのが翌日だったと知れる。
「現代を考える会」というのは高知の県立高校と県立短大の教員を主とする十数名が参加する懇談の場だった。発案者は美馬敏男先生で、一年間おなじ高校で勤務した関係でわたしも末席にくわえていただいた。優れた社会科の教員、そして教員生活の後半生は同和教育の推進に尽力され、一九八一年高知県教育センター研修主事を最後に退職された先生には迷惑かもしれないけれど率直な気持を言えばわたしは先生に師事していた。
美馬先生と京極先生は旧制高知高校の同級生であり、無二の親友だった。ともに極度の下戸だったのが親しくなるきっかけだったと聞いている。奥様どうしも仲良しで、いつだったか京極先生のお嬢さんがデザインしたチャイナドレスの展示会ではともにチャイナドレスを着けて会場の世話をしておられた。
京極先生の『現代民主制と政治学』(一九六九年岩波書店)には「美馬敏男兄に 三十年の友情を感謝して」との献辞がある。「現代を考える会」での講演はお二人の友情がもたらしたものであった。

それから十年あまり経った一九九二年四月の人事異動でわたしは高知県教育委員会事務局で同和教育を担当することとなり、仕事の関係で美馬先生にはときに相談に乗ってもらい、またお力添えをいただいた。
その年度末、教職員の研修を所管する上司から、次年度からはじまる採用十年次の教員研修の講師について相談を受けた。すぐに浮かんだのが京極先生で、この稀代の政治学者は教育にも関心が深く『和風と様式』(一九八七年東京大学出版会)の一章は「学校について」に充てられている。
もちろん美馬先生から京極先生に話をしていただくのが前提である。上司から京極先生を講師としてお招きできるかどうか可能性を探ってほしいと依頼を受けてわたしは美馬先生にお願いに上がった。気さくに応じてくれた先生から数日後電話で「京極が来ちゃうと言いゆうぞ」(土佐弁のまま)とお返事をいただき「テーマや研修の趣旨などについては直接京極と話をするように」と指示を受けた。
先述したようにわたしは当の研修会の担当ではなかったが行きがかり上、京極先生への連絡はわたしがするほかなく、率直なところ東京大学教授、千葉大学教授、東京女子大学学長などを歴任(のちに学士院会員、文化功労者)された先生との話は考えるだけで緊張した。
じじつ講演のテーマについて「近年の日本社会の動向と教育のあり方について、先生の関心のあることがらをテーマに選んでお話ししていただけたらと考えています」と要望を述べたのに対し「野町くん、近年というのはどれくらいを想定している、十年、二十年、それよりも短期間?」と問われたときは立ち往生という以上に心が張り裂けるようであった。
じつはこのとき美馬先生は闘病中だった。病臥する状態にはなかったが、わたしは先生と親交のある方から肺がんと聞かされていた。京極先生が講師としていらしていただくと病中の美馬先生には歓談の機会となる、そんなふうに余得を考えた気もするけれど、どうもはっきりしない。というのも八月の講演を前にした六月二十六日美馬先生は七十二歳の生涯を閉じたのである。
八月十日、高知空港に京極先生をお迎えした。前日九日には細川護熙氏を首班とする非自民連立内閣が成立し、京極先生はその夜NHKの政治討論番組に出演されていて、ある上司はほんとうに来ていただけるのだろうかとすこし心配したと語っていた。政治情勢が先生のスケジュールをいっそう忙しくしていた。
先生はその日の午後に講演、夕刻には美馬先生を慕う方々が先生の来高に合わせて企画した「美馬先生を偲ぶ会」に出席、翌日は美馬宅を訪ねて奥様としばしお話しされ、そのあとホテルで県教育次長とわたしと三人で昼食、引き続きおなじ場所で当初予定にはなく急遽申し入れがあった地元紙の政治部記者から政局についてインタビューを受けられ、高知空港から帰京した。このあいだわたしは運転手を兼ねての随行役であった。
先生と二人になる車中での話は成り行きまかせ、しかし、気詰まりにならないようこちらから話題を持ち出さなくてはならないかもしれないと思うと頭痛の種となった。
さいわい在学した政治学科に京極先生の指導教官だった堀豊彦先生が客員教授としていらしたので、おのずと話題は堀先生からはじまり南原繁丸山眞男福田歓一佐々木毅といった政治学者に及んだ。「○○先生には習ったの」「はい」「どうでした」と訊ねられたときは慌てまくったが、振り返ると先生とこうして話ができたのはまたとない貴重な体験だった。
なかで「△△先生は熱血漢だからねえ」と語った口調が飄々としたなかに皮肉が効いた感じで印象深く、それに『文明の作法』(一九七0年中公新書)の「あとがきのあとに」にある奥様のご亭主評(「著者は、たいそう真面目人間で、また、石橋を叩いてなお渡らぬという、腰の重さも抜群です」)が頭にあって、先生からすると世間の多くは熱血漢に見えるのではと思ったが、さすがに言い出しかねた。
その年の暮れ、自分の勉強を兼ねてはじめた講演のテープ起こしを済ませてお送りしたところ、お礼の言葉と、一読してみたらとユング心理学関連の数冊の書名がしるされた年賀状をいただいた。
『日本の政治』(一九八三年東京大学出版会)には「〈情〉はユングのいわゆる太母(グレイト・マザー)の技であり、またいわゆる温情主義の基礎をなす。〈情〉にたよる政治家の典型像は、日本国民に人気のある西郷隆盛である。一般には『親心の政治家』である」といった記述がある。
京極先生ははじめ世論調査や得票成績の数値を精緻に分析して日本人の政治意識を探った。いわばコンピュータによる分析は六十年代に終えていたのである!そのうえで投票行動の基礎にある人生観や秩序像を追求した。これがわたしの京極政治学のイメージで、その醍醐味となると大著『日本の政治』を挙げなければならないが、まずはエッセンスを知ろうとする向きには『文明の作法』を勧めたい。ここには人間と政治の諸相を見つめた結果報告が高度に濃縮され、精粋として提出されている。
「生活のかかった政治家たちが、あちらの票も幸せに、こちらの票も楽しく、ともちかければ、結果は総花主義である。そして、あちらを立てればこちらが立たぬ世の中を、総花主義でとりつくろえば、あちらもこちらもムシャクシャする。これがつまり議会政治である。/『後は後、今は今』。やがて、子供は大人になって思い知り、有権者は後年になって思い当る。そして、時々は、まいた種を刈らねばならないのが人生である」といったふうに。