STAP騒動について〜寺田寅彦を読みながら

過日、独立行政法人理化学研究所STAP細胞の有無を確かめるため進めてきた検証実験を打ち切ると発表し、STAP現象は再現できなかったと結論づけた。チームとは別に、小保方晴子研究員が行った実験でもSTAP細胞は作製できず、存在を確認できないままこの問題の検証作業は終了した。

寺田寅彦に「藤棚の陰から」という随筆があり、そこに、蜜蜂が蜜を集めている、一つ一つの蜜蜂にはそれぞれの哲学があるのかもしれないがそんなことはどうであってもかれらが蜜を集めているという事実に変わりはない、そうしてかれらにもわれわれにも役に立つものは個々の哲学ではなくて集めた蜜である、と書かれている。
これを読んでを思った。寅彦の比喩を借りると小保方研究員たちのグループは大量の蜜のありかを見つけたと言っていた。ところが蜜ははじめからなかったのである。しばらくのあいだ蜜の存在を主張していたがそれは夢まぼろしだった。
ならばかれらは科学の成果としての蜜ではなく、何を集めようとしていたのか。有利な官職と名声か。これも一種の蜜かもしれぬが寅彦の言う蜜ではない。豊富な研究予算が狙いだったとしても前提の蜜がなければ詐欺でしかない。寺田寅彦には想定外の蜜の幻影をちらつかせた研究者の輩出である。
それにしてもこれで騙し通せると思っていたのだろうか。いくらなんでもそこまで稚拙ではないだろうから逆説的に蜜はあるかもしれないとわたしは思ったりもした。
小保方研究員とそのグループをめぐる不可解は彼女が所属した理化学研究所のそれにつながる。とてつもない蜜の存在の公表は学問の成果であるとともに社会的注目を浴びる出来事だ。理化学研究所が組織としてなんらかの対応をしなければならないのはもちろんで、仮に学界での発表が研究者の良心に任されていたとしても報道機関への資料提供となると研究所のしかるべき管理職の決済が必要となろう。それもないまま行われていたとすればずいぶんおめでたい話と言わなければならない。理化学研究所のマネジメントの問題が見えないのは残念であり、もどかしい。学問が細分化していちいちチェックするのはむつかしくてできないというのであれば、こんな野放し状態をすこしでも改善するにはどうすればよいかの議論がなければならないし、それもしないならば再発防止の掛け声などおよそ意味がない。
昭和九年当時学位売買事件という問題が新聞の社会欄を賑わせていたそうで寺田寅彦が「学位について」という論説を書いている。
ここで寅彦は学位売買の前に学位論文の質を取り上げる。審査に合格した論文が多くの学者からみて無価値で誤謬に充ちたものだったら、それを審査し及第させた人たちは学者として信用を失墜する。
そのいっぽうで寅彦は問題視された論文であっても、人間が限りある時間に仕遂げた仕事であってみれば、あらゆる批評家を完全に満足させるのは殆ど不可能なことで、しかし一度問題となると「検事」ばかりが輩出し「弁護士」はいなくなってしまうと言う。人殺しの罪人でさえ官費で弁護士がつくのに論文提出者にそうした弁護は期待できない。
小保方研究員の博士論文を審査した早稲田大学やその他の論文を審査した方々の責任は重大だが、それらの問題も含め寅彦の提言はいまに活かされてよいのではないか。残念ながらSTAP細胞について弁護役の学者の登場はなかったようである。学問上、弁護にも値しないばあいどうすればよいか、寺田寅彦はそこまでは教えてくれていない。事件ならばほんものの弁護士に登場願わなければならない。