すべからく

矢野誠一編『志ん生讃江』は古今亭志ん生の芸と人について書きしるされたエッセイや対談で編まれた見事なアンソロジーで、久しぶりに人物論の醍醐味をあじわった。二00七年に河出書房から刊行されている本なのにこれまで知らず、ずいぶんと遅ればせの読書となった。
せっかくの機会だから編者の落語についての単著を既読のものを含め何冊か読み、おもしろく、そして多くのことがらを教わった。ただこの達意の文章の書き手にして「すべからく」をすべてという意味に解していて、これが散見され気になってしかたがなかった。
「すべからく落語はある意味で現代落語であった」(『落語のこと少し』)
谷崎潤一郎の先見の明に、いまさらながら頭のさがる思いがするのだが、このひとの醒めた目は、いずれ世のなかすべからく一色になっていくといった傾向まで、ちゃんと見通していたのかもしれない」(『文人たちの寄席』)
付箋を付け忘れたので示せなかったけれどほかにも数か所あった。
誤記、誤用があれば正せばよい。けして揚げ足を取っているつもりはないのだが、所収のエッセイのほとんどは新聞雑誌に掲載され、それらをまとめて単行本としていて、初出の、あるいは単行本とする段階でいずれかの編集者がご注進に及ばなかったのか不審に思った。

「すべからく」は漢文由来の用法で「〜べし」「〜しなければならない」で受けなければいけない。学生はすべからく勉強すべきだ、というふうに。そんなあたりまえの用法を担当の編集者のひとりも指摘しなかったのはえらい先生に物申すのがはばかられているのだろうかと想像したくなる。だとすればずいぶんと風通しの悪い関係で、そうでなかったとしたら相当に言葉に甘い編集者が寄り集まっていたとしか思えない。
すべからく=すべてはいまに始まったことではない。高島俊男『お言葉ですが・・・2「週刊文春」の怪』にある「『すべからく』の運命」は「週刊文春」一九九七年二月六日号が初出で、そこには「『すべからく』が近ごろどうもおかしい。(中略)正用はめったになく、たいていは『すべて』と同義のつもりで用いているようである。なるほどどちらも上二字が『すべ』ではあるが、『すべからく』と『すべて』とはまるっきり無関係である。『すべってころんだ』の『すべ』が無関係とおなじだ」とある。
いまや「すべからく」はすべからくすべてという意味である、と書いておかしくない時代になっているのだろうか。