オナラの映画

昨年二0二三年は小津安二郎監督の生誕百二十年、歿後六十年にあたっていて、そのためでしょうNHKBSで「東京物語」ほか数本の小津作品の放送がありました。なかに「お早よう」があり、久しぶりの出会いとなりました。

東京郊外の新興住宅地の一角を舞台に元気な子供たちにふりまわされる大人たちをコメディタッチで描いた一九五九年公開の作品です。

小津の映画はどれもこれも娘の見合いとか嫁入りの話なので区別がつかないという人でも「お早よう」は別格で、何よりもオナラの映画として記憶に残るに違いありません。子供たちのあいだで流行しているのがオナラごっこ、子供の一人が相手のおでこを押すと押されたほうがオナラを鳴り響かせる。なかには失敗してパンツをよごし、登校中なのに家に引き返す子供もいたりします。 

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サイレントの時代、小津は「淑女と髯」(1931年)を撮っていて封切り日に追われ五日間ほど徹夜が続いたことがあった。それだけ眠らないでいると食欲はなくなりオナラが出やすくなるそうで、撮影現場では誰かが他人のお腹を押しては自分でオナラをするといった遊びをしていて、小津はトーキーになればギャグとして使えると考えたそうです。

ハリウッドに目を遣るとパラマウントが監督、俳優、脚本部などをほとんど総動員して製作したオムニバス映画(史上初だそうです)「百万円貰ったら」の一編にエルンスト・ルビッチが演出したオナラのエピソードがあります。家族係累に遺産をもたらすのを拒否した大会社の社長が電話帳からランダムに選んだ八人にそれぞれ百万ドルを与えます。なかのひとりに薄給と酷遇にあえいでいる下級サラリーマンがいて、百万ドルを授かったチャールズ・ロートン演ずるサラリーマン氏は社長室に闖入し、口真似で一発オナラの音を高々と社長にかまして溜飲を下げたのでした。 

「百万円貰ったら」は一九三二年、「お早よう」は一九五九年、しかし小津がオナラのギャグを思いついたのは「淑女と髯」の撮影時の一九三一年でしたのでルビッチと、かれを尊敬し、多大な影響を受けた小津は期せずしてほぼおなじころオナラのギャグのある映画を考えていたのでした。

なお一九三三年の小津作品「東京の女」に江川宇礼雄田中絹代がデートでいっしょに映画を観ているシーンがあり、そこで上映されていたのがオナラの一編ではありませんが「百万円貰ったら」でした。

オナラの映画の話題は以上ですが、ここまで来ると次に進みたくなるのは人情でしょう。

昨年話題になり高い評価を受けた映画に阪本順治監督「せかいのおきく」がありました。江戸末期、ヒロインのおきく(黒木華)は、ある出来事に巻き込まれ声を失います。そのおきくが心を通わせているふたりの若者中次(寛一郎)と矢亮(池松壮亮)がいて糞尿の売り買いをなりわいとしています。「臭い」「汚い」と罵られながらも、毎朝、便所の肥やしを汲んで狭い路地を往き来するのです。これほど糞尿の量の多い映画はほかにないのではないでしょうか。

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一九三七年(昭和十二年)火野葦平が中短篇集『糞尿譚』で芥川賞を受賞し、二十年後の一九五七年伴淳三郎森繁久彌らで映画化(野村芳太郎監督)されました。わたしは公開時に見ていて伴淳が汲み取り用の柄杓で糞尿を振りまいていましたが糞尿のシーン、量ともに「せかいのおきく」が上回っていると思います。確認のためにももう一度見てみたいものです。

それはともかく糞尿あってのおきくと中次と矢亮の青春なのです。

映画のテーマについて企画・プロデューサーの原田満生氏は「江戸時代は資源が限られていたからこそ、使えるものは何でも使い切り、土に戻そうという文化が浸透していました。人間も死んだら土に戻って自然に帰り、自然の肥料になる。人生の物語もまた、肥料となる。自然も人も死んで活かされ、生きる。この映画に込めた想いが、観た人たちの肥料になることを願っています」と語っています。
おきくたちが生きた時代、糞尿は農耕に不可欠でしたから、中次と矢亮は屑屋さんなみになにがしかの代金を支払って引き取る、つまり排泄物なのではなくまさしく商品なのでした。

一九0八年(明治四十一年)生まれで東京都出身の作家日影丈吉が『ミステリー食事学』(ちくま文庫)に「大正の中頃までは近在の農家が肥料にするために、舟に肥桶を積んで汲取りに来た。オワイは農耕の必需物だったから、屑屋さん並みに些少の代金をおいて行ったものだ」と書いています。また水洗トイレが普及するまえは汲取りの便を考え便所を家の外側に置いた構造の家が多くありました。都内では関東大震災以降こうした光景はずいぶん少くなりました。

一九五0年、高知市生まれのわたしは農家が糞尿を引き取るのは見たことはないのですが田んぼの隅に肥溜めがあったのはおぼえています。なかは何にもないのもあれば、 自宅から調達したものでしょう 下肥用に溜めてあるのもありました。また祖母の実家の農家の便所は外付けでした。

「せかいのおきく」のおきくや中次、矢亮たちは糞尿を農業に活かし、作物を食卓に供する循環型社会を生きていました。いっぽうでそれは下水施設の不備と不衛生を意味します。 古来、人の世の難問のひとつで、 人類が宇宙に行くようになってもこの課題は着いて回ります。