史料の裏側

安政三年(一八五七年)備前岡山藩は倹約令の一環として被差別部落民にたいし、公式の場においては紋なし、渋柿による渋染の着衣を義務づけ、下駄履きは原則禁止すると御触書を発した。
着物にまで加えられた制約と差別に被差別部落民は非武装で強訴を行い、藩主に嘆願書を提出した。その結果首謀者には厳しい処分が下されたが要求は通って御触書は撤回された。
この出来事は幕末における部落史の重要な事件として渋染一揆と呼ばれており小学校の教科書には「江戸時代後半になると、財政難に苦しむ藩がふえました。岡山藩も財政が苦しくなり、藩内にきびしい倹約を命じました。そのとき、農民や町人からも差別された人々に対しては、服装は渋染(柿色)のような、もようのない木綿着にせよ、雨の日はげたをはいてもよいが、他村に行くときははだしにせよ、などと命じました。/服装などにまで加えられた制約に対して、これらの人々は、団結して立ち上がり、藩の命令を実行できなくさせました。これを、渋染一揆といいます」とある。(二000年度版大阪書籍『社会』、ふり仮名は省略)
定説もしくは最大公約数的な見解にもとづく教科書の記述のいっぽう歴史学の世界では異なる観点からの研究や議論があり、なかにこの御触書の背後に被差別部落民の経済力の向上をみる創見に富んだ論がある。被差別部落民がむかしながらの貧困状態にあればわざわざ倹約、質素を通達する必要はなく、すくなくともかれらの一部の服装が立派に、またときに派手なものとなっていたことを御触書の背後に読み取ろうとしたのである。
すべて当を得ているかどうかわたしには判断できないけれど、一理ある見方だと思うと同時に歴史学における史料の読みの深さと柔軟な思考の大切さをあらためて感じたしだいだった。

江戸時代後期に林述斎(一七六八〜一八四一)という儒者がいて、その婦女へのおしえが森銑三「林述斎の婦女訓」に紹介されている。
「朝寝せず、病なくして、昼寝ずに、外出して燈火つかぬ内に帰り、祝宴なども戌の刻には事を終ふべし」。「戌の刻」は宵の口である。
男女の別についてもきわめて厳格で「男女は物の受取りさへ憚りてせざりしほどのことなり」「親戚にても家にても、男子に近づくべからず。心易く物いふべからず」と教える。とりわけ中年以上になると羞恥心が薄れやすくなるので「尤もつつしむべし」なんて至れり尽くせりというか細かな神経で重箱の隅を楊枝でほじくっている。
つまらない婦女訓ではあるが、これを読んだとき渋染一揆の研究事例が思いあわされて、述斎先生がわざわざこのようなおしえをしたためたのは、それだけ先生が見るに見かねた実態があったのではないかと考えた。
女の酒は「若き時より禁ずべきぞかし」とあるが、それだけ酒の生産量も上がり女性が酒を口にする機会も多くなっていた、男女のまじわりだって先生の若いころよりもオープンになっていたからこんな教訓が書かれたのではなかったか。
寺田寅彦『柿の種』に「思ったことを如実に言い現わすためには、思ったとおりを言わないことが必要だという場合もあるかもしれない」とあるが、林述斎は思ったことを述べてはからずも周囲の現実をさらけ出してくれたのかもしれない。