七十年目の敗戦の日に 6 二二六事件

笠井潔白井聡『日本劣化論』は、NHKが二二六事件を扱った歴史番組に出演した御厨貴加藤陽子筒井清忠の三人が、蹶起将校に対する正面切った批判をしなかったことを紹介したうえで、近年の議論の傾向として将校たちの心情はともかく、結果として軍部独裁を招いたというこれまでよく述べられていた事件を否定する言説が後退してきていると指摘している。
青年将校への批判に代わって抬頭したのは、農村の貧困や荒廃をもたらした政治のあり方に対する批判で、これについて同書は二二六を挫折した革命と見て「あり得たもう一つの戦前」を夢想したくなる欲求であり戦後民主主義の可能性や潜在的な力の枯渇と裏腹の関係にあると論じている。

二二六事件をどう見るかはむづかしい。軍部内の権力抗争、やむにやまれぬ愛国的行動、クーデター、ファシズム革命、テロなどの要素のうちいずれを本質とするかはなかなか判断しがたい。『日本劣化論』が近年重く見られているという、青年将校たちを蹶起に駆り立てたものにとらわれ過ぎると事件の容認やテロの擁護につながる気がして、やはり二二六事件はテロ行為だとするのが妥当と考える。殺された高橋是清は軍事予算の縮小を図ったため軍部の恨みを買っていた。この点だけを見ても、叛乱軍の将校たちの、東北の貧家の娘が女郎屋に売られてかわいそうといった情緒的な感情が引き起こした事件ではなかった。そして事件以後軍事費の制限は一層困難となった。
たしかに一部青年将校たちの心情には社会の矛盾をなんとかしたいという正義感はあっただろう。しかしそうした心情は手段を正当化するものではない。青年将校たちの思いに寄り添うあまりテロという認識が曇ってはならない。
原田熊雄述『西園寺公と政局』を読む限り、二二六事件を一貫してテロと認識していたのは天皇だった。「速やかに暴徒を鎮圧せよ」と言う天皇に本庄繁侍従武官長は、暴徒というと軍隊が天皇に悪感情を持つといけない、その言葉は差し控えるようにと申し上げた。それに対し天皇は「朕の命令に出でざるに、勝手に朕の軍隊を動かしたといふことは、その名目がどうであらうとも、朕の軍隊ではない」と反論した。
こういうわたしにもじつは讃えたいテロがある。一般論としてテロを否定するのはやさしいし、無差別テロの酷さは言うまでもないが、たとえば第二次大戦中、プラハで暗殺された「金髪の野獣」「虐殺者」「プラハの死刑執行人」と呼ばれたラインハルト・ハイドリヒへのテロには心より拍手を贈りたい。
ハイドリヒは、ナチス親衛隊(SS)の指導者でありゲシュタポ強制収容所を指揮下においていたヒムラーに次ぐSSの実力者であり、ユダヤ人問題の最終的解決計画つまりユダヤ人殲滅の企画者にして推進者、そして戦時中には保護領とされたチェコの統治にあたる最高権力者だった。
そのハイドリヒは一九四二年五月七日チェコの在英亡命政府が送りこんだチェコ人のヤン・クビシュとスロバキア人のヨゼフ・ガプチークという二人のパラシュート部隊の青年により狙撃され、六月七日に死亡した。
映画「ワルキューレ」で描かれたナチスの将校シュタウフェンベルクトム・クルーズが扮した)を実行者とするそのグループによるヒトラー暗殺未遂事件も同情を禁じえないテロだ。かれらにとってドイツを完全な破壊から救うには独裁者を倒すしかなかった。映画でシュタウフェンベルクヒトラーのいる会議室に爆弾入りの鞄を置き、自身は巧みに室外へ逃れ、爆破を見届けて現場を去ったが、ヒトラーの死亡は確認しておらず、すべては希望的観測だった。結果論ではあるが、暗殺技術としてはまずい。相手と刺し違える気迫を欠いてはテロの目的は達成できないと残念な気持が残った。
これらの事例についてもテロはいけないとして断罪できるかといえばわたしにはできない。テロの分別などしているとテロの容認につながる気がして、この問題をどう考えるとよいのかまとまりがつかないけれど、すくなくとも明治維新から敗戦までの近代日本におけるテロについて、二二六事件を含めわたしが同情を禁じえない事例はない。