遅船庵筆記

「戦前の昭和史 雑感」補遺

星新一『明治の人物誌』は中村正直から杉山茂丸まで十人の生涯、事績に人物論を加味したコンパクトな評伝だが、いずれも作者の父で星製薬の創業者、星薬科大学の設立者である星一(1873-1951)がなんらかのかたちで関わりをもった人たちで、マクロな目で見た…

戦前の昭和史 雑感

昨年(二0二三年)八月に草思社から上梓された平山周吉『昭和史百冊』(草思社)を読んだ。百は多数の意で、書評や言及、紹介されている本は有名無名、古典的なものから最新の研究成果を問わず四百冊を超えている。大まかに年代別、テーマ別に編集されてい…

「比翼床」

星新一に、明治の世相や風俗、ゴシップなどを新聞記事に探り、集め、時代の流れを追った『夜明けあと』(新潮文庫)という編年史の著作がある。 父星一の生涯を描いた『明治・父・アメリカ』『人民は弱し官吏は強し』また母方の祖父で解剖学者、人類学者とし…

川の流れ

昨年、「カサブランカ」のシナリオを読み、感じたり気になったりしたこことを四回にわたり本ブログに書きとめた。その二回目「「カサブランカ」のシナリオから(二)~《A lot of water under the bridge.》」(2023/6/5)では、ナチスの侵攻をまえにパリで…

英語のノートの余白に (12)cream puff

レイモンド・チャンドラーはストーリー・テリングに優れた作家とは思わないが、読者の情感にさざなみを寄せることには巧みで、その最たるものとして遺作『プレイバック』のあの人口に膾炙したやりとりがある。いまさら引用するのもはずかしくなるほどよく知…

英語のノートの余白に(11)look、watch、 see、 stare、 view、 glance

江川泰一郎『英文法解説』に、視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚の五感についての説明があった。人を主語として五感を二つに分類すると、意志を持つ場合と持たない場合とがあり、前者はlook(at),listen(to),feel,taste,smell,後者はsee,hear,feel,taste,smellと…

英語のノートの余白に(10)文末の前置詞

江川泰一郎『英文法解説』(金子書房)を読んでいると、不定詞に伴う場合の前置詞の位置についていくつか例文があり、なかにGive me something to remember you by.(あなたを思い出すよすがとなるものをください)という一文があって、思わずニヤリとした。…

英語のノートの余白に (9)governess

ヴィクトリア朝時代の小説を読んでいると、しばしばガヴァネス(governess)という言葉を見かける。裕福な家庭に雇われ、住込みで子供たちの教育と訓練を担当する女性のことで、子供たちの身の回りの世話をするのでなく、もっぱら教育に従事する。ふつう対象…

英語のノートの余白に(8)As time goes by

英語のノートの余白に(7)からだいぶん間があいたが、もう一度O・ヘンリー「最後の一葉」を取り上げてみたい。 肺炎に罹ったのを機に生きる意欲を失ったジョンズィ。往診に来た医師はスウディを廊下に呼び出して、彼女の生きる可能性は十にひとつくらい、そ…

英語のノートの余白に (7) The falling leaves

ワシントン・スクエアの西側の古びたアパートに貧しい芸術家たちが住んでいる。そのなかのひとりジョンズィが肺炎を患った。診察した医師はジョンズィの友人スウディに、病状よりも生きる気力が問題だと告げる。医師が懸念した通り、心身ともに疲れ、人生に…

英語のノートの余白に (6)bullbaiting

昔のイギリスでは、犬をけしかけ熊や牛を噛ませる、あるいは犬どうしを噛ませあって血だらけになるのを見て楽しんでいて、これを「ベア・ベイティング」(bearbaitingクマいじめ)や「ブル・ベイティング」(bullbaiting牛攻め)と呼んでいた。ベイティング…

英語のノートの余白に(5)men

英語の学び直しの一環で伊藤和夫『英文解釈教室』(新装版、研究社)を読んでいる。Amazonのコメント欄には、旧帝大クラスを志望する受験生のほかは必要度は高くないとあったから、止しておこうかなと思ったが、そこまで書かれると怖いもの見たさがよけい募…

英語のノートの余白に (4)“Prints it?”

コナン・ドイル『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』に収める「赤い輪」の冒頭、下宿屋の女主人ウォーレン夫人が、十日前から住んでいる下宿人の様子があまりに風変わりなのでホームズのところに相談にやってくる。 その下宿人は朝から晩まで部屋のなかを歩…

英語のノートの余白に(3) emotional coloring

江川泰一郎『英文法解説』(金子書房)を読んでいるとときに英文法って面白いなと思う。さすが柴田元幸、西村良樹、森田修『シャーロック・ホームズで学ぶ英文法』(アスク出版)に「これ1冊持っていれば十分かもしれません。読み物としても大変面白く」と紹…

英語のノートの余白に(2)coquettish

美食批評の名著として誉れ高い『美味礼讃』で、著者のブリア=サヴァランは、ロマネスクな恋愛、コケットリー、モードこそが現代社会を牽引する三つの大きな原動力であり、これらは生粋にフランスの発明であり、とくにコケットリーという概念に関しては、フラ…

英語のノートの余白に(1)application

英語の勉強で読んでいる江川泰一郎『英文法解説』(金子書房)の例文に、Next Tuesday is the deadline in your application.とあり、お恥ずかしい話だが一瞬戸惑ってしまった。applicationをアプリケーションソフトと解したために、どうして?!となったわ…

原発処理水の放出に思う

八月二十四日、東京電力福島第1原子力発電所の処理水の海洋放出がはじまった。 原発については不測の事態を考えるとないに越したことはない。現状では難しいだろうから、将来に向けての基本的な方向として原発をなくしてゆくほうがよい。そのためには代替エ…

小野小町のラブレター

和風書道の基礎を築いたと評され、藤原佐理、藤原行成とともに「三跡」と称される小野道風が書き写した『和漢朗詠集』を持っているという人がいたので、ある人が、藤原公任の編集した書物を、それより前の道風が書き写したというのは年代が違うでしょう、そ…

群盲と象

『北斎漫画』を眺めていると第八篇に「群盲象を評す」の絵(漫画)があった。昔から知られていることわざだから、あって不思議はないけれど、こうして眼にするとことわざを絵にする発想が面白く「おやっ、ほほう」と感心した。 「六度集経」という仏教説話集…

酒歴

晩年の開高健に『開高健の酒に訊け』という対談シリーズ(酒にはウイスキー とルビが振られている)があり、なかで作家の村松友視が「ぼくがトリスを飲み始めたころ、バーへ行くと小刻みに男のランキングがあって、カウンターの奥にサントリー白一五〇円 ト…

鞍を欲しがる牛

カエサルは『ガリア戦記』で橋や武器をつくったことをずいぶん得意げに書いていて、武勲の数々よりもこちらをアピールしているような筆遣いだと聞く。優れた武将であるのはいまさらいうまでもないから、立派な技術者としての資質と実績を知ってもらいたかっ…

寺門静軒 おぼえがき

寺門静軒『江戸繁盛記』は天保初年の江戸風俗、世態人情を漢文戯作の文体で活写した名著として知られる。「相撲」「戯場」(しばい)「千人会」(とみくじ)「楊花」(おんなだゆう)「混堂」(ゆや)などをユーモラスな漢文で綴ってベストセラーとなった。 …

「井戸の茶碗」と「寝床」によせて

ちょいとめでたいことがあったので、晩酌をしながらひさしぶりに古今亭志ん朝さんの「井戸の茶碗」を聴いた。ふと思いついて手許の電子辞書で「井戸の茶碗」を引いたところ、さほど期待してなかったのに「井戸茶碗」が「広辞苑」と「マイペディア」「日本史…

年賀状雑感

退職を機に特段の事情のある方は別にして、年始のご挨拶は葉書ではなくメールとした。簡単で合理的でまことによろしく、この雑文を書いたあとは来年のお年賀に取りかかる。そして新年ただちにメールを送るとともにこのブログにも載せることとしている。 年賀…

陸 沈

古代ローマの詩人オウィディウスは「よく隠れる者はよく生きる」といったそうだ。 アレキサンドラ・アンドリューズ『匿名作家は二人もいらない』(大谷瑠璃子訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)のなかで匿名のベストセラー作家、モード・ディクソンが、作家になる…

百年の不作

人間がまちがいをしたとき、どんな事態がもちあがるか。 弁護士がまちがいをすれば控訴を引き受けるまで、理髪師のばあいは髪の毛をもっと短く刈り込めばよい、医者だったらお葬いをすれば済む。ならばひとり者はどうか。 薄田泣菫の答はこうだ。 「独身者が…

ロシアを憎む

ロナルド・レーガン大統領がソ連を公然と「悪の帝国」と断じたのを思えば現職のアメリカ大統領はいささか迫力に欠ける。 失礼ながらバイデン大統領を優れた政治家とは評価しない。就任早々、アフガニスタンからの自国民の引き上げや現地協力者の脱出で大チョ…

フランス的ケチ 再論

フランスでは金利で生活する人をランチエ、退職年金で生活する人をルトレテと呼ぶ。つまり仕事をしないで老後の生活を送る人びとを、生活費の出どころによって分類している。老後の生活への細やかな視線とフランス人の隠居ごのみをうかがわせる言葉である。 …

ドナルド・キーンさんの長生きの秘訣

日本をこよなく愛した文学者ドナルド・キーンさんは東日本大震災を機に、それまでのニューヨークと東京に半年交替で住む生活から日本永住を決意し、日本国籍を取得した。心不全により亡くなったのは二0一九年二月二十四日、九十六歳だった。 キーンさんの眼…

フランス的ケチ

イギリス人がコンドームのことを俗語で「フランスの手紙」というのはよく知られている。英仏両国の不仲から生まれたことばで、反対にフランスでは「イギリスのレインコート」といっているそうだからこれでおあいこ。 フランス人は世界に冠たる倹約家、始末屋…