去年今年

去年今年貫く棒の如きもの(虚子)
「去年今年」という季語は川端康成鎌倉駅構内に掲げられていた高浜虚子の句を目にし、感嘆して随筆に書き一躍有名になったという。よく知られるようになったいきさつから明治以後の季題のような気がしていたが馬琴の編んだ歳時記にも採られている。
除夜の鐘を聞きながら「行く年来る年」を思うのもよいけれど字余りになりますね。
歳時記には日本人の自然と生活が詰まっている。新年でいえば、季語のあれこれに過ぎ去った年と新たな年への感慨を重ねるのは歳時記がもたらす嬉しくありがたいひとときだ。
「墨も濃くまづ元日の日記かな」。
断腸亭日乗』への思いを新たにした荷風散人のこの句も去年今年への思いが隠し味になっているようだ。
ところで上に触れた曲亭馬琴編『俳諧歳時記栞草』には松永貞徳の所説が紹介されていて、去年今年は春の季語、去年だけでも春、今年だけだと句による、連歌では去年は春、今年は雑に分類されるとある。「古年旧冬旧臘などの詞は、新年にこたへる詞なれば春也、今年の詞は、句によりて了簡あるべし」(『滑稽雑談』)
かつては去年を春、今年をいずれの季節にも含まれない雑とする向きもあったようだが虚子が棒で貫いて去年今年はいまやしっかり新年の季語である。何となく分かったようになっているものの、もう一つはっきりしない季語であったこの古典的季題に虚子の一句が命を吹き込み、イメージをはっきりさせ、この季題の価値を定めたと山本健吉は説いている。(『基本季語五00選』)
ネット上に「読みさしの寂聴源氏去年今年」(荻野美佐子)という句があった。棒に代わって読みかけの瀬戸内寂聴現代語訳『源氏物語』が二つの年を貫いている。
晦日イヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』(吉田健一訳)を読み終えて、まもなく原作を忠実にドラマ化したといわれるイギリス、グラナダテレビの全十一回シリーズにとりかかることとしている。『ブライヅヘッドふたたび』に貫かれたぼくの去年今年である。