人を育てる

古今亭志ん朝が朝太の名で前座デビューした頃というから一九五七年(昭和三十二年)の話だろう。当時新国劇の脚本を書いていた池波正太郎は朝太を劇団に入れて、ゆくゆくは後継者にしたいと内幕で相談したことがあったという。
実現を見なかったのは落語ファンにはさいわいした。
後継案が没となった事情について池波は志ん朝との対談のなかで「うまくいかなかったのはね、辰巳、島田両人ともまだ盛んなときだったからね、なかなかうんと言ってくれなかったんだ」「もうちょっと気長にやれば、案外、あんたは新国劇の大看板になってたかもしれないな」と語っている。(古今亭志ん朝『世の中ついでに生きてたい』河出文庫
なにほどかのリップサービスは含まれているだろう。しかしのちの緒形拳の退団を思いあわせるとここに新国劇の命運の尽きた事情が見てとれる。沢田正二郎の跡を継いだ辰巳柳太郎島田正吾は名優に違いないが、御両所とも齢六十、七十を過ぎても主役の座を張りつづけ、劇団経営に責任を有する立場として将来にむけての劇団の存続発展の努力を怠った。

谷沢永一が『紙つぶて 自作自注最終版』(文藝春秋)に、役者の出処進退のむつかしさとしてこの新国劇辰巳柳太郎島田正吾とともに新派の水谷八重子(初代)、新劇の杉村春子を挙げている。いずれも主役の座を占め続けたために後進の道を閉ざしてしまった事例であり、水谷八重子の舞台はいつまでも色気で酔わせ、まさに老いることない開花の季節であったために後を継ぐべき女優が芽を出せず、有力な弟子はみんな諦めて結婚し、杉村春子は「女の一生」を手放さず、周囲が試みに後輩の女優を当てようとしても、私を何歳と思っているの、今度の上演が私にとって最後になるんだからと、いつも最後、最後と言い続けていたという。

もちろんこれら名優が早く後進に道を開いたとしても上手く行ったとは限らず、古今亭朝太が、緒形拳新国劇で花開いたかどうかはまた別の話になる。一面では延々と主役の座を占める実力者がいたからこそのちの古今亭志ん朝緒形拳がいたとも言えそうだ。
採用から昇任、昇進の道をたどり、やがて定年退職を迎えるサラリーマンの世界では、あるポストに就くとさっそく跡継ぎを育てるようにと訓示されることはしばしばで、そうしても後進の育成にはなかなか手が廻らない。ましてやそれとはまったく異なる実力と人気の世界での後進育成と劇団のマネジメントとなると役者稼業には酷な気もする。
あんな人でもそれなりに政治家が務まっているのだから自分がやればさぞかしと長年にわたる新聞社の政治部記者から議員に転身した人がいたが、いざやってみるとそうでもなかった。記者育ちが政界ですぐにウデが発揮できるのなら、雑巾がけからスタートし辛苦して陣笠からはい上がった議員諸公が気の毒だ。もっとも記者上がりの先生に育ててくれる政治家の先達がいたらよりよい結果となったかどうかはわからない。