蕎麦屋の二階〜 井上章一『愛の空間』

近代日本の男女、多くは婚姻外のかれらはどこでセックスをしていたか、そうしてその場所はいかなる意匠で彩られていたのか。井上章一『愛の空間』(角川選書)はこの問題についての実証的な研究で、いつもながら著者の問題意識の鋭さとユニークな議論には茫然、三嘆するほかない。刊行は一九九九年八月四日だから早いもので四半世紀のむかしになる。

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一九六O年代末、なにかの用事で横浜へ行って、夜の山下公園を通りかかるとけっこうな数のマイカーのなかで男女のいとなみがおこなわれていた。そのむかしは日比谷公園もなかなかのものだったそうだ。著者は主に文学作品を資料として、日本では敗戦直後までの性愛専用空間の主流は野外だったと説いている。わたしが実見した山下公園の光景はその名残だっただろう。農山村、漁村は少し足を運べば人家から離れるからいたるところ性愛専用空間であったし、都市でも夜の都市公園がそうした空間と化していた。もっともここでの男女はいわゆる素人どうしである。

それでは玄人の場合はどうか。ずいぶんふるいはなしで恐縮だが、「西鶴一代女」で夜鷹になった田中絹代は茣蓙を抱き、客をつかまえるとそれを敷いて商売をしていたから玄人の野外での交合もあるにはあったが、多くは屋内でのいとなみで遊廓はその代表であった。為政者としては公序良俗をおもんばかって玄人がらみの性愛空間を一定の場所に囲い込んでおきたかったのである。

しかし近代化とともに囲い込みの力は押され気味となる。性愛の力は売買春の場所を遊廓の外へ外へと押しやり、それとともに公娼から私娼へ、集娼から散娼への傾向が強くなった。この趨勢のなか廓は衰え、肉欲を色恋のオブラートで包んだ芸者遊びが栄える。ややこしい色恋は抜きにして、肉欲だけならお手軽な場所として安待合や蕎麦屋などがあった。その芸者に商売敵として現れたのがカフェーの女給やバーのホステスだった。けれどカフェーやバーは実事の空間にはなりにくく、男は女を店から連れ出す必要に迫られた。そこで戦前は市中の安旅館や郊外の料理屋、旅館、同伴ホテルなどがその種の空間として提供され、戦後は温泉マークの連れ込み旅館、ラブホテルさらには市中ホテルのラブホテル化といったふうに空間は広がっていった。

このなかで野外を利用していた素人の男女も屋内にはいってゆく。それとともに素人が気後れするのを心配して派手な意匠の外観や部屋、ベッドは改められ、堅気の日常的要素が活かされるようになる。

ここまでで『愛の空間』がわが明治以降の性愛史の盲点を衝いた快著であることは明らかだろう。それに人びとの記憶が薄れてゆくなか、いまでは思いも及ばぬ性愛空間があったことが示されている。そのひとつ、蕎麦屋の二階をわたしのノートも参照して取り上げてみよう。

「以前は、どこのソバ屋でも、二階があって、女連れの客なぞが利用した」と獅子文六が『食味歳時記』(中公文庫)にしるしている。ただし芸者を連れ出す場所としては待合にくらべて格は低いと意識されていた。玄人ばかりでなく素人のカップルもけっこう利用していた。食を看板にした場所で性をいとなむという手法の典型が蕎麦屋の二階だったわけで、地方によって事情は異なるだろうが、ほかにもうどん屋鮨屋、餅屋、牛肉屋なども利用されており、また永井荷風『おかめ笹』にはしるこ屋も挙げられている。

こうした料理屋の活用法がどこまでさかのぼることができるのかは不明ながら、二十世紀の二十年代までは相当に利用されており、まもなく食と淫が分離し、性愛を専らとする空間が本格的に発展をはじめた。

淡島寒月『梵雲庵雑話』(岩波文庫)に収める「行楽の江戸」には蕎麦どころとして今川橋の漆喰屋、回向院前の薮、深川の石置場の冬木、一ツ目の滝蕎麦がみえていて、さらに「この滝蕎麦はちょっとした料理も食わせるし柳橋の芸妓などもよくいったものだ」とある。

芸妓がよく出入りする蕎麦屋……これに触れて文庫の解説者、延広真治氏は成島柳北の日記にはこの滝蕎麦に立ち寄ったとの記事が数々あって、味に引かれてと思い込んでいたが「柳北にとっての滝蕎麦は柳橋花街の延長であって、味は二の次ではなかったのか」と推測している。『愛の空間』と考え合わせてみれば首肯しうるに説であろう。ただし蕎麦屋は性愛空間としてのステータスは低く、柳橋という一流地の芸者がここを利用するとなると安っぽい印象は避けられない。もっとも商売抜きで惚れた男と色恋にふけるのであれば、格へのこだわりは不要だから蕎麦屋はてごろなアバンチュールの場所となる。

いずれにしても蕎麦屋の二階が気にかかる。