勇気のあり方

毎年八月十五日の前後には戦争関連の番組が放送される。敗戦から七十年のことしは例年よりも多くの放送があったはずだが、わたしは唯一NHK 「知られざる終戦工作」を視聴した。
採りあげられたのは終戦時、鈴木貫太郎総理大臣秘書官兼陸軍省軍務局御用掛を務めていた松谷誠(1903-1998)である。
一九四三年三月陸軍参謀本部戦争指導課課長に着任した松谷は主戦論が主流のなか早期講和を模索していた。そして一九四五年四月本土決戦が声高に叫ばれる陸軍にあって「終戦処理案」をまとめ、ソ連の仲介による早期講和を主張した。もとよりただならぬ緊張のなかで勇気を要した訴えだった。
竹槍で米軍を迎え撃つなど現実無視もはなはだしいが、そうした蛮勇が称揚されやすい事情について京極純一『日本の政治』はこんなふうにモデル化している。
「いま、(個人ないし集団としての)勝気人間甲が『そんな弱気でどうする』と攻撃性の強い積極策を提案して(個人ないし集団としての)勝気人間乙を凌ぐと、曲面の主導権は勝気人間甲に移る。勝気人間乙は『負けて悔しい』から、甲の提案よりさらに攻撃性の強い積極策を提案して、甲を凌ぎかえそうとする。こうして、勝気の競争は凌ぎの競争となり、弱気、臆病といわれて凌ぎかえされることのないように、『清水の舞台から飛びおりる』ような蛮勇が提案され、実施に移されることになる」。
近衛内閣の外務大臣のとき語ったという東条英機の「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」(勝田龍夫重臣たちの昭和史』)という言葉はその典型的な事例だった。
積極策を繰り出す凌ぎの競争は責任感とか合理的手順とかを蒸発させやすく、直近の事例としては新国立競技場の建設やロゴの選定で失態があらわになった2020年東京オリンピックパラリンピックの招致をめぐる問題がある。アクセルを踏むばかりで、ブレーキというか、ときに止まって熟慮する契機を持たないまま事態が推移するなかでは一度問題が起こるとつぎからつぎと弥縫策が続く。
「知られざる終戦工作」を見た限りでは松谷は本土決戦論者とは質的に異なる勇気の持主だった。もうひとつの勇気と言えばよいだろうか、のちにかれは「私は周囲強気の渦中にあって弱気を吐くことのいかに大勇気を要するものであるかを真に体験した」と語っている。

不平等条約の改正に力を尽くし日清戦争後の一八九七年に亡くなった陸奥宗光(写真)は死に臨んで歴史家また政治家だった竹越与三郎に「今後(日本)外交の危険は列国の兵力にあらず、日清戦争の武功に眩目して容易く事を起さんとする外交家にあり、今後要する所の外交家は、国民より無気力無能力と嘲られて平然として心を動さざるの勇気あるものならざるべからず」と語った。(立命館大学編『西園寺公望傳』)
陸奥宗光の死に臨んでの言葉は「そんな弱気でどうする」と勝気の競争にはやりながら敗戦という結果をもたらしたその後の日本の政治と外交を透視していて、これだけを見ても陸奥がただならぬ政治家だったことが窺われる。
ついでながらパリで陸奥の訃報に接した西園寺公望は「藩閥のやつらはたたいても死にさうにもないやつばかりだが、藩閥外のものはどうしてこんなによわいのかなあ」と嘆かなければならなかった。
松谷の早期講和論はソ連の出方を読み違えており、その点では誤った意見だったが「周囲強気の渦中にあって弱気を吐く」云々は陸奥の「国民より無気力無能力と嘲られて平然として心を動さざるの勇気」に通じていたと思う。