七十年目の敗戦の日に 7 朝鮮人従軍慰安婦問題

いま日韓のあいだの歴史と外交をめぐる問題のひとつに朝鮮人従軍慰安婦問題がある。政治的な文脈としては一九九三年八月四日に宮沢内閣の河野洋平内閣官房長官が発表した談話が基点となる。
一般に河野談話として知られるその内容は、慰安婦の存在を認め、慰安所の設置は日本軍が要請し、直接・間接に関与したこと、慰安婦の募集については軍の要請を受けた業者(日本人・朝鮮人)が主としてこれに当たったが、その場合も甘言、強圧によるなど本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に官憲等が直接これに加担したこともあったこと、慰安所の生活は強制的な状況の下で痛ましいものであったといったものだ。
この談話とは別に日本の軍人により慰安婦とするために強制連行されたとする証言や報道があり、いっぽうでこれらの信憑性を衝き、実証できる客観的証拠は存在せずすべては捏造だとの主張がある。

昨年朝日新聞は軍による強制連行についての報道を誤報と認めたが、軍人が公務として朝鮮人女性を慰安所へ直接連行していたなんてふつう考えられない。しかし業者に依頼されて私人として行為に及んだ事例はあったかもしれない。
強制連行という直接に手を下した行為は別にしても、広い意味で陰に陽に軍は慰安所に関与していたのは否定できない。慰安施設を設置するにも軍の許認可を必要としていたし、そのほか具体にどういうかたちで関与したのかについての客観的証拠や史料があればよいのだが、いまとなっては難しいだろう。ただし推し測るに価する材料はないわけではない。
昭和戦前の軍部と、外地における娼妓との関連について永井荷風断腸亭日乗』一九三八年(昭和十三年)八月八日に以下の記事がある。
「八月八日 立秋午後土州橋に行き、薬価を払ひ、水天宮裏の待合叶家を訪ふ。主婦語りて云ふ。今春軍部の人の勧めにより北京に料理屋兼旅館を開くつもりにて一個月あまり彼地に往き、帰り来りて売春婦三四十名募集せしが、妙齢の女来たらず。且又北京にて陸軍将校の遊び所をつくるには、女の前借金を算入せず、家屋其他の費用のみにて少くも二万円を要す。軍部にては一万円位は融通してやるから是非とも若き士官を相手にする女を募集せよといはれたれど、北支の気候余りに悪しき故辞退したり。北京にて旅館風の女郎屋を開くため、軍部の役人の周旋にて家屋を見に行きしところは、旧二十九軍将校の宿泊せし家なりし由。主婦は猶売春婦を送る事につき、軍部と内地警察署との聯絡その他の事をかたりぬ。世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言ひながら戦地には盛に娼婦を送り出さんとする軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし。」
この記事を読む限り、開戦前の昭和十三年の時点でも外地での娼妓の募集は相当に難渋していた。これが十二月八日のあとになるとさらにむつかしくなっただろうし、朝鮮人慰安婦を集めるにもだいぶん無理をしなければならなかったのではないかと考えられる。
上の記事は将校相手の高級慰安所の話だが、こうした施設を設けるにも軍は家屋や資金の提供をしていて、朝鮮人慰安婦の施設についても同様の事情があったかもしれない。
待合の女将はさらに「売春婦を送る事につき、軍部と内地警察署との聯絡その他の事」を語っていて、荷風が詳しい内容を書きとめていないのが惜しまれるが、それでも売春婦の外地送りについては軍部と警察がいっしょになって対応しているのがうかがわれる。
もとより上の記事は待合叶家の女将の話であって、公文書等の史料や報道記事に基づいたものではない。けれど、だから嘘だとか、ためにする話だとも言い切れない。慰安施設の設置について軍や警察の公的機関が支援したのは諸外国にも例があるとおもわれるが、まずはわが身の襟を正すのが先決である。