七十年目の敗戦の日に  1 戦争の呼称と満洲事変

きょう二0一五年八月十五日は敗戦の日から七十年の節目の日にあたる。よい機会だから先の大戦についての自分の考えを整理しておきたいとおもった。もとより近現代史の研究者でもなければ、専門的な著作や史資料に持続的に接してきた者でもない。だから以下の内容はひとりの市民が心に懐いてきた歴史像を整理したものにすぎない。
上に「先の大戦」と書いたが、これはどう呼べばよいか、自分のなかで定まらないためで、一九四一年(昭和十六年)十二月八日以降については「太平洋戦争」「大東亜戦争」「アジア・太平洋戦争」といった呼称があり、大戦の起点を一九三一年(昭和六年)九月十八日に関東軍が柳条湖で南満洲鉄道の線路を爆破した満洲事変とすると「十五年戦争」となる。
「太平洋戦争」では中国との戦いが抜け落ちているし「大東亜戦争」はイデオロギー性が強すぎる。とすれば「ア ジア・太平洋戦争」が妥当となるが、満州事変から敗戦までをトータルに把握しようとする「十五年戦争」にも執着したい気持がある。

満洲事変の直後十月一日の閣議の模様が原田熊雄述『西園寺公と政局』にある。あらかじめ言っておくと、わたしの歴史像は本書から多くの影響を受けている。西園寺の秘書であった原田熊雄が述べた一九二八年(昭和三年)から一九四0年(昭和十五年)にかけての政局の動きを語った大著で、校訂責任者の丸山眞男と林茂は第1巻あとがきに「我が政界裏面の複雑を極めた動き、特にそこで活躍するさまざまの人間の言動が、これほど微細に、ほとんど執拗なまでの感性的忠実さを以て記録されてゐる例をわれわれは多く知らない」と書いている。他方で「一種の伝聞記であるためすべてが真実とは言い難い」(藤田尚徳『侍従長の回想』)との評もあるが、伝聞の真偽の実証は専門家にお任せするほかない。
話を前述の閣議に戻すと、幣原喜重郎外務大臣が該地への兵の駐屯が及ぼす国際的な影響や国際連盟の理事会への配慮を説いたところ、南次郎陸軍大臣が「いま撤兵すれば非常に困難になる……一体、国際連盟から日本が脱退すればいいぢやないか」と応えた。
若槻礼次郎首相が話を引き取り、陸相に世界の大勢からはじめ、国際関係を考慮して日本が出処進退を誤れば世界で孤立状態に陥るかもしれず、はかりがたい国家の不幸を惹起するかもしれないことを説いたが、それにしても陸軍大臣のなんとも能天気な国連脱退論であることか。それにまるで陸相へレクチュアを行っているような閣議である。
同日の原田日記には平沼騏一郎枢密院副議長がしきりに日露断交論を主張しているとの記事が見えている。
まもなく日本は若槻総理大臣や幣原外務大臣の思惑と異なって国際連盟から脱退した。
牧野伸顕回顧録』は自分が直接見聞したことを語るのを基本とした記述であるが、明治維新からベルサイユ講和会議までの優れた通史としても読める。牧野が語るのを起稿した孫で作家の吉田健一は、製糸工業の発展も憲法発布も原敬の暗殺も牧野には個人的な事件だったと述べていて、それほど自身の生涯と明治維新以後の日本の発展の歴史は密接に関係していた。一体としてあったとして過言ではない。
吉田健一は牧野を支えていたのは「常識に徹するといふ平凡な覚悟」だったと論じたうえで、しかし「この牧野さんと、牧野さんが生きてゐる時代の食ひ違いは、満洲事変が始つた頃から急に目立つやうになつた」と述べている。(「蓬莱山荘」)
上の閣議と併せ「十五年戦争」は牧野が支えとした「常識」の喪失とともにはじまった。