七十年目の敗戦の日に 3 二つの国

一九三九年(昭和十四年)八月三十日陸軍大将阿部信行を首班とする内閣が成立したが、政権運営のむつかしさからはやくも翌年一月十六日に総辞職し、短命の内閣となった。
首相を辞した阿部は原田熊雄に「今日のやうに、まるで二つの国ー陸軍といふ国ーと、それ以外の国とがあるやうなことでは、到底政治はうまく行くわけがない」「前々からこの陸軍部内の異常な状態を多少でも直したいと思つてはゐたけれども、これほど深いものとは感じてをらなかった。まことに自分の認識不足を恥ぢざるを得ない」と語っている。(『西園寺公と政局』)
当時の政治がどのようなものであったかをよく示した発言で、陸軍の暴走はもう止められないところまで来ていた。西園寺公望は原田熊雄に、唐の大宗が立派な政治をやって世の中を良くしたところ則天武后が乱暴なことをしてすっかりぶち毀してしまったと語った。西園寺にとって「陸軍といふ国」は則天武后のようなものだった。

これを政治機構の問題として見ると、軍令については統帥大権による帷幄上奏の制度、軍政については陸海軍大臣を現役の大・中将に限った現役武官制といった「軍部の側からは政治に介入できながら、政治の側からは軍部に介入できない制度」(京極純一『日本の政治』)があった。
帷幄上奏の制度は参謀本部や軍令部は天皇に直接裁可を仰げば、上司の陸海軍大臣には事後報告で可、総理大臣にはそのあとでよいとするものであり、軍部の思い通りにことを運ぶ便利な手段となる。また陸海軍大臣の現役武官制では内閣に対しいつでも陸海軍大臣を辞任させることができたし、組閣の際に選出を拒めば内閣は総辞職あるいは組閣の大命を返上するしかなくなるから軍部が内閣をコントロールしやすくなる。
軍部が強いぶん政党政治のもとの内閣はたいへんに脆弱で、極端を言えばいつも右顧左眄をせざるをえない。一元化した権力にはほど遠く、悪い意味で支配層が多極化―宮中、宮家、軍部、枢密院、貴族院重臣等々―していたために政策遂行力が弱い。
一九三二年(昭和七年)元旦、若槻礼次郎首相が重臣たちを訪問するのを見て西園寺公望はまずいと考えた。順調な政権運営を願っての行動だったが西園寺には逆効果と見えた。ああいうことをすると動きたくてむずむずしている老人たちが出しゃばって来て自分たちで御奉公しようとする、くわえてそれを利用しようとする連中が輩出する、と。
若槻首相が挨拶に伺う重臣たちを西園寺は「御本人達を見渡して、失礼ながら誰一人として時勢を諒解し、本人たち今日の事情を理解してゐる者があらうとも思えない」と言う。若槻が訪れた相手の記載はないが、清浦奎吾、山本権兵衛、金子堅太郎、伊東巳代治、東郷平八郎田中光顕といった人たちだったとおもわれる。
『西園寺公と政局』に「実は急に一昨日陸軍大臣が飛行機で北支に行つたが、行く目的を少しも自分達に打明けない。しかもこのことを知つてゐるのは、自分と海軍大臣外務大臣だけで、他の閣僚には誰にも秘密にしてある」云々という近衛首相の愚痴がある。(一九三八年四月五日)。
近衛の愚痴にも戦時体制に向かう当時の政治状況と構造つまり「陸軍といふ国」と「それ以外の国」とのありようが示されている。挙国一致の掛け声とは反対に内閣のなかはすこぶる風通しの悪い状態に陥っていた。陸軍大臣の動向が伝えられないほど内閣総理大臣は軍部にないがしろにされていたのである。
こうしたなか近衛は天皇のまえで「どうもまるで自分のやうな者はほとんどマネキンガールみたやうなもので、何にも知らされないで引張つて行かれるんでございますから、どうも困つたもんで」などと口にしていた。首相たる者これほど指導力がなくてどうするとこちらが愚痴を言いたくなるのだが、軍部偏重の政治情勢はここまで来ていた。
その「陸軍といふ国」の見識をうかがわせるエピソードがある。
ひとつは二二六事件のあった年の夏の原田熊雄と寺内寿一陸軍大臣との会話。
「公債は必要の程度に増発してもいいかもしれないけれども、それにも限度があつて、下手をすれば物価騰貴を招くことになる。物価騰貴になれば、陸軍のいふ国民生活の安定は望めない」と原田が言うと寺内は「それは自分もよほど考へてをる。しかし一体先にやるべきことを、『これだけはどうしてもやらなきやあならん』と決めておいて、後から財政の方法を考へればいいのに、歳入がこれだけだから……と歳入の目安をつけてからどうこう言ふことは、結局なんにもしないことになつてしまふ」と応じた。
陸軍の目的を遂行したうえで財政はあとから考えよという陸相の財政論には恐れ入るばかりだ。ついでながら永井荷風は『断腸亭日乗』に「中学校にてたびたび喧嘩したる寺内寿一は、軍人反乱後、陸軍大臣となり自由主義を制圧せんとす」としるしている。
もうひとつは満洲事変のときの陸軍大臣南次郎が、戦後巣鴨拘置所重光葵に「外交とは軍の尻拭いをすることであると思つてゐた」と語った挿話で、いずれも陸軍以外の国は「陸軍といふ国」の「尻拭い」でしかなかったことを示している。
寺内陸相が軽薄な財政論を口にしていたころ星野直樹満洲国総務長官が原田熊雄に、右翼や陸軍の青年士官はもとより軍部の多くが天皇重臣に惑わされて、自分たちが真に国家を憂へていることを御存じないようだ、と不満を抱いていると語っていた。「陸軍といふ国」にとりやっかいだったのは重臣とこれに「惑わされている」天皇だったと知れる。その重臣西園寺公望が死去したのは一九四0年(昭和十五年)十一月二十四日だった。
そして戦争になると陸軍も海軍もない。