七十年目の敗戦の日に 2 愚行

とりあえず「先の大戦」と書いたあの戦争を、わたしは無知、無能な軍部政権による愚行だったと考えている。時代の空気として国際協調精神の蒸発と、牧野伸顕が支えとした「常識」の喪失があり、満洲事変はそれらを顕現させた。
「鬼畜米英」「必勝の信念」「八紘一宇」といったスローガンに踊り、酩酊したはてに待ち受けていたのは人命と財産のはかり知れない犠牲だった。
作戦面においては特攻や人間魚雷を企画立案し、命じた軍の幹部について憎んでなお余りあるものがある。玉音放送があったにもかかわらず、部下を道づれに特攻を敢行した宇垣纏という中将がいたが、他人の命をなんとも思わぬ人非人と書いてなお上品な表現と感じる。特攻を命じた責任を痛感していたならば一人で突っ込むべきだろう。想像するに部下に特攻や人間魚雷を命じながら戦後はのうのうと生きた人たちもいただろう。死ぬ者貧乏、とはよく言ったものだ。
戦争は結果として夥しい死者を出しはするけれど、その根本は生きるためにするものであり、すくなくとも特攻や人間魚雷といった狂気の沙汰を演出するためのものではない。
これらの集積は「愚行」と呼ぶほかない。
一九四一年(昭和十六年)七月三日南部仏印進駐を準備せよとの奉勅命令が下った。同月二十八日日本軍は南部仏印ナトランに上陸開始した。このころ幣原喜重郎近衛文麿首相に「私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」と言うと「しばらく駐兵するというだけで、戦争ではない」と近衛は目を白黒させおどろいた様子だった。
後付けの知識となるが、近衛の読みは甘く、幣原が指摘したように仏印進駐は日米開戦を招く大きな要因となった。
そのころ天皇永野修身海軍軍令部総長に「戦争となりたる場合……日本海海戦の如き大勝は困難なるべし」と訊くと永野は「日本海海戦の如き大勝は勿論、勝ち得るや否やも覚つきません」と答えざるをえなかった。こうして甘い読みは「捨てばちの戦」(『木戸幸一日記』)へと転じた。
「捨てばちの戦」に至るまでには人心の変化がある。
天皇機関説事件や津田左右吉の古代史研究に対する弾圧に表れているように皇室への「不敬」という言葉が喧しく言われ、政治問題となる。吉田健一は「蓬莱山荘」で、こうした常軌を逸した動きに対し牧野伸顕は一線を画したが「当時さういふ常識的な建前を少しも変へずにゐるといふことが如何に困難だつたか」と述べている。
戦争への道は「常識的な建前」が「常軌を逸した動き」に敗北してゆく過程だった。

そして十二月八日は国際協調の精神を捨てて戦争に突き進もうとする日本と、その日本を「捨てばちの戦」にまで追い込もうとした米国の外交政策の帰結である。
開戦の責めについては日米のどちらかが一方的に負わなければならないものではない。ハル・ノートの要求の厳しさは、米国が早くから対日戦争について腹を括っていたようでもある。日本としては親米英派の力及ばず、開戦に至らないよう外交政策を修正する機会を逸していた。
永野海軍軍令部総長天皇に「勝ち得るや否やも覚つきません」と奉答した戦争を近衛内閣の陸軍大臣東条英機は「日本がジリ貧になるより、思い切って戦争をやれば、勝利の公算は二分の一であるが、このままで滅亡するよりはよいと思う」「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と考えていた。(勝田龍夫重臣たちの昭和史』)
そして東条首相のもとで十二月八日を迎えた。
そのころ巷で流行っていた林伊佐緒、近衛八郎、樋口静雄が歌った「男なら」の一番の歌詞には「男なら男なら渡る世間は出たとこ勝負もとをただせば裸じゃないか運否天賦は風まかせ男ならやってきな」とある。戦争を前に「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と言う東条陸相の流行歌ヴァージョンで、国民生活の安定と平穏な運行を担う立場の人間がこれほど定見なく戦争に奔るようでは政治の敗北である。国民生活は運否天賦の賭けの対象ではない。
「もともと日本の軍部は、第一次世界大戦に参戦したものの遠く東アジアの局外にいて、国家総力戦が国民生活の多くの局面を動員する総合システムである実情に疎く、軍ファシズム体制にも拘らず、総力戦のための総合計画的な戦争指導の着想と運用が十分でなかった。また、各省庁がそれぞれにいわば主観的である省庁タテワリ制度と国家機関ないし政府、諸官庁に進行していた官僚制硬化症とは、開戦を機動的に回避する政治指導も、開戦後の効率的な戦争も困難とした」のである。(京極純一『日本の政治』)
大岡昇平『レイテ戦記』に、フィールズという米国の歴史家が、日本の陸海軍人の多くは勇敢であったしその勇敢と巧智を結合させた優れた作戦もあった、にもかかわらず「全体として、現代戦を戦うために必要な『高度の平凡さ』がなかった」「巨大化され、組織化された作戦を遂行するには、各自が日常的な思考の延長範囲で行動出来るのが、錯覚の生じる余地を少なくする」と述べたことが紹介されている。
『レイテ戦記』によると太平洋戦争開戦時の軍事力は、陸軍は第一次大戦を経験しなかったハンディ・キャップのために三等国並みとなっていたが、海軍の立ち遅れはそれほどひどいものではなかった。ただし海軍の戦力の質は西太平洋の地理的条件により防衛的海軍とならざるをえなかった。その防衛的戦力が二カ年の貯油量のままで真珠湾の冒険的攻撃作戦に打って出た。しかも戦力の不足からそれに徹することもできなかった。 
こうした記述からすればこの戦争は「日常的思考の延長範囲」で行動出来るものではなかった、というかそこからずいぶんとかけ離れたものだった。東条が言ったとおりイチかバチかの賭けであり、それは基本のところで「高度の平凡さ」を欠いていた。
牧野伸顕を支えていた「常識に徹するといふ平凡な覚悟」が困難となった事情がここにも見られる。