「本が売れない」考

公立図書館の貸し出しにより本が売れなくなっているとして、大手出版社や作家たちが、発売から一定期間、新刊本の貸し出しをやめるよう求める動きがある、との報道があった。
新刊書の貸し出しを一定期間禁止すれば売り上げが伸びる・・・・・・本当だろうか、それほど短絡的な話なのだろうか。
地方都市に在住した経験で言えば、財政が苦しく仕方のないことながら図書館の新刊書のラインナップはまことにチープだった。それに較べるといまわたしが利用している都内の図書館はずいぶんと充実していてありがたい。だったら財政の苦しい地方都市で書籍の売り上げがよいのかといえば、そんな話は聞かない。
これまで小遣いの多くを書籍費に投じてきた。しかし退職して年金収入しか頼るものがなくなると限定的にならざるを得ない。減収への対応としてはここで調節するほかない。図書館での新刊書の貸し出しが一定期間ダメとなっても事情は変わらず、そうなると古書均一本や青空文庫の比重が高くなるかもしれないが特段に困った事態ではない。
本の売れ具合は図書館の貸し出しといった小さな問題ではなく、日本経済の現状や読書文化といったマクロの問題との関係が大きいと考えられる。
林達夫が「読書人のための書物の歴史」で、人類史においてグーテンベルクによる印刷術の発明がどれほど革命的な意義をもつか、その射程と威力を当時の人が計測できたわけではなかったとしたうえで「それはちょうど現在のわれわれがラジオとテレヴィジョンとワイア・リコーダーが書物の世界をやがてどんなに喰ってゆくかが見極められないのと同然である。本を目で読むという風習が、人類史の一つのinterludeにすぎなかったと実証される時代がやがて来ないとは誰も保証することができない」と書いたのはインターネットが出現するはるか以前の昭和二十年代半ばだった。

林達夫はまた「書籍の周囲」で批評家について「彼等は愚著と言うべきところで名著という言葉を使い、剽窃と言うべきところで、独創という言葉を使い、閉口だと言うべきところで結構だという句を使っている」、そしてばかを見るのは多くの素朴で単純な読書子で、未練と彷徨、嗅ぎ出しと模索、期待と失望の運命に翻弄されながら「楽しく過ごされたわずかな時間と失われた膨大な浪費の時間とを持たねばならぬであろう」と述べている。
本が売れないのが、多くの人がかつてのわたしのように名著、独創、結構と聞けばすぐに飛びつくようなオッチョコチョイをしなくなった証左だとすれば、これは人知の発達と言えるのではないか。
くわえていま、インターネットを発表の場とする物書きがいて、それをスマートフォン電子書籍リーダーで読む読者がいて、しかもそこでは過去の名作が無料でダウンロードできるし無料コミックや無料マンガ雑誌にも事欠かない。本が売れないのは人類史の一つのinterlude(幕間)としての紙上に書いたものを金銭を投じた本で読むという風習が終わりのはじまりに差しかかっているあらわれなのかもしれないのである。
子供のころからスポーツ観戦より自分で身体を動かすのが好きだった。音楽は聴くいっぽうだったがカラオケが出回って機会があれば歌うようになった。退職を機に一冊の私家版を編むまでは身銭を切ってまで書いたものを発表する気はなかったが、インターネットという発表の場ができてつたないながらずいぶんと書くようになった。
「現在の『大衆社会』が、それまでのものと異なるのは、以前は『バカが大学へ入っている』程度で済んでいたものが、『バカが意見を言うようになった』点である」とは小谷野敦大衆社会を裏返す」にある見解で、わたしなどその典型であろうが、しかしバカもインテリもたまには意見を言わないと腹ふくるる気がするのに変わりはない。運動神経が鈍くても身体を動かしたいときもあれば、オンチもたまには歌をうたうのである。
なにごとも玄人と素人の差は歴然としていて昔は素人が玄人の領域に立ち入るのは困難だったが、カラオケやインターネットで素人は玄人の真似事ができるようになったし、真似事をするうちに玄人として認められる人も出るようになった。本については人のものを読むより、自分で書いてネットで発表したい人が増えたことも売上げに影響しているような気がする。
「私たちの若いころはねえ、素人さんの領分とこっちの領分がはっきりしていて、私たちは何となく素人には負けまいっていう突っ張りみたいなものを教え込まれたのよ。それがこのごろは違ってきた・・・・・・芸者に特別なものはなくなったでしょ」。
成瀬巳喜男監督「流れる」における芸者つた奴(山田五十鈴)の嘆きである。