朝永振一郎の「基本、休講です」

一九六五年にノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎は東京教育大(現筑波大)の教授で、一時期は学長を務めていたが授業はほとんどせず、年度はじめに事務方が、朝永先生の授業は基本、休講です、開講するときは張り紙を出しますからよく掲示板を見ていてくださいと言っていたとか。
池田清彦同調圧力にだまされない変わり者が社会を変える。』にあるエピソードで、著者はこの実見体験談を紹介したうえで「昔の大学は、勉強しないやつもいたけれど、勉強する者は勝手に勉強していた」と書いている。
池田清彦とおなじ世代のわたしがいた大学もそうしたところだった。ときどきテレビで見かけたことのあるハーバード大学教授でアメリカ外交史を専攻する入江昭という先生がいて、この方の父君、入江啓四郎先生には国際法の単位を頂戴したが、通年で教室へ足を運ばなかったから顔は存じ上げないままだった。ほかにもいくつか「基本、欠席です」で一気通貫した講義がある。振り返るとずいぶんおおらかなところだった。

林達夫「十字路に立つ大学」に「大学の教師でいちばん滑稽なことの一つは、性懲りもなく四月の学期始めになると学生のことごとくが本格的な知識的熱意に燃え学問の蘊奥を極わめようとして教室に集ってくるという錯覚に陥ることである」とある。初出は「日本評論」一九四九年十一月号だから、ここからうかがうに昭和二十年代の大学の先生方はすくなくとも新学期に「錯覚」できるだけしあわせだったが、いつしかそんな先生はいなくなり、「基本、休講です」は許されなくなった。
このかん勝手に勉強し、勝手にさぼり、勝手に休講したりする現状は放置できないと考える大学人、また大学に限らず小中高校の教員などは始終鞭を当てなくてはろくなことにならないと考える政治家、お役人の意向に沿った「正常化」と「改革」が行われ、いまでは休講すれば別の日に穴埋めしなければならない大学があり、さらには「『いいかげん』と『おおらか』は違う。そんなことは分かっている。しかし、なんでもかんでもきちんとやろうとすると、おおらかさは失われていく」といった嘆きも聞かれるようになった。東大で哲学を教える野矢茂樹先生の『哲学な日々 考えさせない時代に抗して』の一節である。
管理が強化されると授業はしなければならない、講義は出席しなければならないという義務的なスタンスが強くなる。おおらかさとか学問は自分でやるものという気風は稀薄になる。「正常化」と「改革」の結果、全体として大学教育はよくなったのだろうか。念のため付けくわえておくと、小中高校にくらべると大学は自由度が高いので、大学が窮屈になると小中高での度合はその比ではない。大学のありようを見れば初等中等教育の現状もよくわかるし、初等中等教育の現状は大学の明日の姿である。
「大学の教師と学生に自由時間を与えることによって、ルーティンに追われているときには成し得ないこと(新しいアイデアの提供やイノベーションの創出)をしてもらう」ところに大学の使命があると考える池田清彦は大学教育の現状に否定的で「自由時間を無為に遊んで過ごす人もいるわけだが、中には心血を注いで新しい知を生産しようとする人もいる。今の大学には、この手の人が存在する余地がなくなった」と述べている。
日本の大学では研究が進まないからと海外に拠点を移す学者もいるが、先般ノーベル賞を受賞した梶田隆章大村智両先生はそれぞれ東大、北里大に在籍していて、このお二人のような人材の輩出と池田氏のみる大学の現状とはどう関係するのかはよくわからない。
ところで朝永振一郎に、昭和二十年代、林達夫が喝破した「錯覚」の体験はあったのだろうか。仮にあったとすれば、「基本、休講です」には自身の「錯覚」に対する後悔と悲哀が含まれていたと考えられるし、そうでなければ、氏はあの西洋精神史の碩学なみの鋭い洞察力の持主だったとしなければならない。