七十年目の敗戦の日に 8 個人的な体験

七十年目の敗戦の日の時点でわたしが懐いている先の大戦についての歴史像を述べて来た。ひょっとすると、人によってはこれも、自虐史観東京裁判史観、戦後の誤った歴史教育に基づく歴史像となるのかもしれない。
できるだけ歴史のイメージの基となった事実を傍証として付け加えたつもりだが、これとても乏しい読書体験のなかから拾い上げてきたものであり、より多くの史資料に接する必要があるのは自身がいちばん承知している。
ただ歴史像は一朝一夕で変わる性質の問題ではなく、評価はこれまでの内容を読まれた方の批評にまつほかない。
わたしは一九五0年(昭和二十五年)の生まれだから戦争を知らない世代に属するが、小学校に入学する前後あたりまでは敗戦の影響は生活のなかにあった。

父は砲兵でビルマ帰りだった。命令通り最後まで大砲を引っ張っていたのと泳げない者は生きて帰れなかったと語っていたから、さっさと大砲を擲って、イラワジ川を泳いで逃げのびて帰国したわけだ。
小学生のころカーキ色のズボンを穿いていたのをおぼえている。もとは軍服で、母が仕立て直していた。それが父のものであったか進駐軍にもらったものかははっきりしないが、昭和三十年代のはじめ、わが家で軍服は再利用されていた。
ついでながら父はパンツ(トランクス状の)を穿きなれないからとずいぶん後まで越中ふんどしを着けていたから、下着の面ですぐには戦後になじめなかったようだ。母はふんどしを縫うのにわたしのぶんまで縫ってくれたからこちらも中学のはじめくらいまではパンツと越中ふんどしを併用していた。
自宅からさほど遠くないところにたしか「城西公設市場」という看板を懸けた市場があった。近くには「新地」つまり遊廓街もあった。市場はトタン屋根に覆われたアーケードのもと昼なお暗く、狭い一本道の両側に小売店が並んでいた。その場所を正式名称で呼ぶ者はなく、みんな「闇市」と呼んでいて、そこから通学する小学校の同級生がいた。映画「仁義なき戦い」や「浮雲」にある闇市と比較するとずいぶん小ぶりな市場だったが、昭和の五十年代になってもおなじたたずまいを保っていた。
小学校へ上がる前だった。父が危篤状態に陥った。医師が、今夜あたりはもたないかもしれないので親戚や親しい友人の方々には声をかけておくようにと言うほどに重篤だった。肺に抱えていた大砲弾の破片が動き出したとかで、さいわい持ち直したものの片肺を切除したから、以後いっしょに風呂にはいるたびに見た背中の左肩甲骨に沿った手術の跡が痛々しかった。
父はまたマラリアを持ち帰っていて、わたしが小学校の低学年だったころ再発して、真夏なのに躰がひどく震えて、母はわたしに布団の上から父にまたがって押さえつけてすこしでも震えを押えるようきつい口調で命じた。
といったところがわたしの体験した敗戦の影響のいくつかで、これらはわが歴史像にそれなりの影響を及ぼしている。すくなくとも戦争は勇ましいよりもいやなものだという感情を強めたのは確かである。