四十年にわたる大河スパイ小説〜『CIA ザ・カンパニー』

ロバート・リテルは気になるスパイ小説の書き手だが、読んだのは『ルウィンターの亡命』だけで、しかも長いあいだご無沙汰だったところ、自粛生活の余得で『CIAザ・カンパニー』(渋谷比佐子監・訳、2009年柏艪社)を読む機会を得た。上下二段組、六百頁になんなんとする上巻、そして下巻もおなじくらいの大部の小説を読了できるか不安はあったが、エスピオナージュのファンとして気合を入れて読みはじめた。

一九五0年代にCIAにスカウトされた若者たちのその後のあゆみをとおして描いた大河スパイ小説で、時代は、冷戦、ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争そして九0年代半ばプーチンの台頭あたりまでおよぶ。

入局した新人たちに上司は「諸君の中にも、スパイ小説の愛読者は少なくないと思う。CIAに対する諸君の印象がそういう小説から来ているとすれば、誤解も甚だしいと言わねばならない。現実の諜報界は、諸君が小説から感じとるほど冒険に満ちた華やかなものではなく、危険度はさらに高いのだ」。

こんなふうにスタートは地味目でぼちぼち読んでいたところハンガリー動乱のころからグイグイと進んだ。

一九五六年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配にたいする民衆による全国規模の蜂起、本書ではこのハンガリー動乱にCIAのエージェント、エビーが反乱に起ち上がった人々とともに闘う。かれは重大時には米国が介入すると信じ、そのことを反体制派に説き、勇気づける。実際には介入はなかったけれど蜂起側にそうした期待を抱かせるような雰囲気をアメリカは匂わせていたのだろう。

史実はともかく、この小説に即していえば、ハンガリー動乱ソ連に圧殺されたあとエビーが「共産主義を撲滅する、なんて調子のいい言葉に引っかかったお人好しのハンガリー人」に乾杯といえば上司のアングルトンが「敵意のある物言いだなー」と応じていて、CIA内部にハンガリーへの介入派と反対派があったとされる。

ハンガリーで多くの犠牲者をみたエビーはベトナムの状況をまえに「CIAは相も変わらず友好的な国民を戦場に送り込み、何人生き残るかと、アメリカという要塞から高みの見物を決め込んでいる」と思っていたところアメリカはベトナムに介入した。

もしかしてベトナム戦争への介入はハンガリー動乱をやり過ごしたことのつぐないという一面があったのだろうか。だとしてもアメリカの国際情勢の分析はお粗末で、総じてこの国が介入して首脳に担ぎ上げた連中にはろくなのがいない。あるエージェントはいう「問題は構造的だー上に伝えられる情報は、彼らの誤った認識を修正するものではなく、むしろそれを補強するものでしかない」と。

南ベトナムの大統領に担いだゴ・ディン・ジエムについてベトナムを視察したジョンソン副大統領は「国民から乖離しており、しかもジエム大統領本人以上に好ましくない人物に取り巻かれている」とケネディ大統領に報告したが遅きに失したのは否めず、逆側からいえばアメリカという虎の威を借りてのし上がろうとする連中はそれだけで問題を抱えているということになる。

やがてベルリンの壁は崩れ、ソ連は崩壊する。そのときCIAのエージェントだった男は、ソ連は「構想の隠喩(メタファー)さ。ボードに描いているうちは良さそうに見えても、実際は欠陥だらけだった。その欠陥だらけの隠喩は、欠陥だらけの国家以上に消滅させるのが難しかった。でもわれわれがついにそれを打ちのめしたんだ」と語っていたが、そういえるほどアメリカがボードに描いた自由、平等、民主主義は立派だったのだろうか。

ついでながら本書に詩人ジョン・ミルトンの「ただ立って待つだけの人間も奉仕しているのだ」という言葉が引用されていた。いまは「ただ家にいるだけの人間も感染拡大防止に奉仕している」。そのおかげもあって『CIA ザ・カンパニー』を読み終えた。

発熱!

十年ぶりくらいかな、DVDで「フットライト・パレード」(一九三三年)をみた。監督は名作「四十二番街」とおなじロイド・ベーコン

ギャング映画のスターだったジェームズ・キャグニーがボードビル時代に培ったダンスを提げて主演したミュージカルというのが貴重であり、主題歌の「上海リル」はわが国では古くはディック・ミネ、川畑文子、新しくは吉田日出子が(といっても四十年ほどまえ)歌ってヒットした。

ミュージカル・コメディーの演出家キャグニーは 映画がトーキーの時代となったのをみて映画とレビューを併せて上映、上演する方式を思いつき、レビューの作・構成・演出に邁進する。そこまでがバックステージの描写で、このあとフィナーレ、圧巻の舞台が待つ。フィナーレでの注目は水中ショーで、バズビー・バークレーお得意の万華鏡シーンがたっぷりと味わえる。「ザッツ・エンターティメント」でもおなじみのエスター・ウィリアム主演の水中レビュー映画の原点はここにあったのだった。

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人生最後のたのしみは口腹つまり飲み食いにあると思っていて年齢を重ねるとともにそちらの方面がますます気になっている。先日も NHKBSで放送のあった「おしゃれ泥棒」(一九六六年)をみていると、パリのホテルでピーター・オトゥールオードリー・ヘプバーンがスコッチを注文して、ボーイが持って来る、みるとスコッチのはいったグラスが受け皿にのっている。紅茶、コーヒーとともにパリの高級ホテルではウイスキーを受け皿にのせて出していたのだろうか。

もうひとつ『断腸亭日乗』昭和十七年(一九四二年)二月十日の記事に「物買ひにと夜浅草に行く。瓶詰牛肉大和煮と称して鯨肉を売る店多し」とあった。百足光生『荷風と戦争』によるとこの年、味噌、醤油など多くの物資の配給制度が実施されていて、それだけ店頭は逼迫し、品切が多くなり牛肉が鯨肉に化けたりするようになっていた。

荷風日記からおよそ八十年、いまは牛肉よりも鯨肉を口にするのがはるかにむつかしい。昭和二十五年(一九五0年)生まれのわたしは子供のころよく母が「きょうはおかねがないからクジラ」といっていたのをおぼえていて、またクジラかなんて心のなかで文句を垂れていたが、振り返ると畏れ多いことではあった。

「あはれ不思議なる世とはなれり」。

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永井荷風「雪の日」に男女のカップルへの視線でたどる世相の変化を述べた箇所がある。「わたくし達二人、二十一二の男に十六七の娘が更け渡る夜の寒さと寂しさに、おのづから身を摺り寄せながら行くにも係らず、ただの一度も巡査に見咎められたことはなかつた。今日、その事を思返すだけでも、明治時代と大正以後の世の中との相違が知られる。その頃の世の中には猜疑と羨怨の目が今日ほど鋭くひかり輝いていなかつたのである」。

世間のカップルにたいする視線を史料で論じるのはむつかしく、ここは明治のほうがゆるやかで、大正以後は厳しかったという作者の実感を尊重しておかなければならない。

「雪の日」が書かれたのは昭和十八年十二月三日、翌年二月の俳句雑誌「不易」に発表された。戦時中、作品の発表が困難だった荷風の公表された数少ない作品のひとつで、二十代はじめのころを回想しながら「猜疑と羨怨の目」にスパイスを利かせている。

令和のいまSNSでの誹謗中傷が社会問題となっている。 SNSで多くの人が気持を、意見を自由に語れるようになったのは素晴らしいことだが、反面で匿名による誹謗中傷が激しくなっていて、 荷風のいう大正以後の若い男女にたいする巡査のまなざしにあった疑いやねたみはいま SNS 上で大きく成長を遂げて鋭く、陰険となり、寛容の心は蒸発気味にある。難癖に熱中する酔狂の大量輩出である。

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話題の水泳選手はわが子の送り迎えには国産車を、不倫というお楽しみには外車を使っていたそうだ。セコイ男、家族が泣くぞ。それともすでに、泣こうとて泪も出ない秋の暮れ、か?

かつて勤務していた高校の同僚に、被差別部落での集会や家庭訪問には国産の軽自動車に、その他では外車に乗っていた男性教師がいてこいつもセコイ奴だったな。

あるときこの教師が、わたしの担任する学級の生徒の何人かに誰がみてもおかしな評価をつけてきた。百点満点の試験の点数からみて5段階評価の3か4は明らかなのに1の赤点が付いていた生徒が何人かいた。授業態度やレポートなど提出物の面でもなんの問題もない。説明を求めるのももどかしく、そ奴のいる部屋へ怒鳴り込んだところ言を左右にして明確な理由を示さず、なんだかんだと突っ張っていたが最後は成績を改めさせた。

「あんまり理屈にもならぬ理屈を言っていると、同和地区へ行くときは外車から国産軽に代えているのを部落解放の方面に提起してやろうか、こらあ」なんて若かったわたしは感情を抑えきれず声を荒げたのだったが、爾来目的別に車を使い分ける奴は問題のある人物というのがわが独断である。

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十月十六日金曜日の夕刻、散歩しているととつぜん悪寒を覚え、その日は体温計の電池が切れていたので翌日電池を代えて計ると38度4分あった。この六七年のあいだ発熱はなく、前期高齢者となってはじめてのことである。東京では連日百人、二百人といった数の方が新型コロナウィルスに感染していて、さらにインフルエンザの流行も心配されているこの時期の発熱はショックが大きい。

月曜日を待って内科、外科、皮膚科等を設置している中規模の病院へ行った。一般の待合室には入れず、病院の入口前で発熱外来の旨を電話で伝えると、その場で検温を指示され、そうして電話で女性看護師さんの問診を受けた。

「金曜日に熱があり、土曜日に熱を計ると38度4分あり、今朝は37度7分になっていました」というと看護師さんが「金曜日は何度だったんですか」と訊ねるので「その日は電池が切れていて計れませんでした。はじめて計ったのは土曜日でした」と答えたところ「金曜日に熱があるってどうしてわかったんですか」と質問された。「金曜日は具体にはわかりません。体温計で発熱を確認したのは土曜日でした」と答えてようやく発熱問答を終え、あとは病歴や咳、鼻水、味覚の有無などの質問があった。

それにしても発熱をめぐるツッコミは厳しかった。でもわたしは相手のひとことをゆるがせにせず秋霜烈日の態度でしっかりした対応をする、看護師さんに限らずこうしたタイプの女性には好感を持っている。ただし、男性看護師におなじ質問をされると「体温計はなくても肉体感覚で発熱の有無はわかりますよ」と瞬時に思っただろう。女性看護師だったからそんなことよりも魅力が先に立った。ジェンダー思想としては問題だろうな、たぶん。

問診が終わると発熱外来室へ入るよう指示され、少しして入室した医師に診察していただいた。ふつうの風邪だとしても高齢者だから念のためPCR検査をしておきましょうとかいわれるかもしれないと思っていたのが話題にもならず、支払いを済ませ、処方箋をいただき薬局で購入して帰宅した。

十七日、ジャズ・トランペッター近藤等則氏が亡くなった。享年七十一。命日となった日にも自身のYouTube公式チャンネルに動画を投稿していたそうだから、まさしく急逝だった。フリージャズ系の方なので聴く機会は少なかったが、おなじ世代のミュージシャンとして気になる存在ではあった。ご冥福お祈りします。同世代の方の訃報は震度が大きい。

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 過日映画館の入場口で瞬間検温すると職員が首を傾げるので質問すると、お客さまの体温が検温範囲の下限より下にあるらしくて計れませんといわれてこちらも首を傾げた。

基礎体温の低さもあずかっているのか37度を超えることはあまりなく、三十代から四十代のあいだのいずれかの十年間発熱はなかったと記憶している。あったかもしれないが自覚はなかった。

ありがたいことだがマイナス面はあり、熱が出るとすこぶる弱くて37度5分くらいで生きるの死ぬのと喚いている。発熱のダメージはおそらく平均よりもきついだろう。そんなわたしが退職して二年目と三年目で都合四、五回発熱して微熱が三週間ほど続いたり、喘息が疑われたこともあった。検査の結果はジョギングのオーバーワークで、退職して時間が余っているものだから調子に乗って走っているうちにとんでもない事態となっていた。けっきょくしっかりした計画を立て、これを機に発熱騒動は止んだ。それ以来の今回の発熱である。

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食っちゃ寝て、食っちゃ寝ては不健康の極みと思っているが、久しぶりに発熱を経験して、食うと寝ることこそ静養のキホンのキと知った。食って寝て体力を回復して病気を克服しなければならない。

そしてこういうときこそツンドクのままにしてあった短篇小説集を読もう。そこでエラリー・クイーン『クイーン検察局』を読みはじめた。次にはJ・ラヒリ『停電の夜に』が控えている。

熱は高いときで8度と少し、低いときで7度と少し、どちらにしても悪寒で身体が震える。

病床 YouTube で若き日の大津美子のうたう「東京アンナ」を見て、聴いた。歌唱力、表現力、パンチ力それに女性の魅力いずれも素晴らしく、見るたびに一度や二度では終わらない。今回も静養するなか大いに慰められた。「東京アンナ」は子供のころ、こんなに洗練された歌謡曲があるんだと思ったナンバーのひとつだった。

そうして久しぶりにクリフォード・ブラウンマックス・ローチのグループを聴いてモダンジャズはここで完成したのではないかと唸った。(熱で唸ったんじゃないからね、念のため)。モダンジャズの極北ここにありは言い過ぎだとしてもそこに位置するジャズプレイヤーたちで、 ここまで来ればあれこれ改良進歩を狙っても超えられない完成度である。明治になって長唄や清元と西洋音楽を組み合わせる試みが行われたそうだが総じてうまくいかなかったそうで、極北とはそういうものである。

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十月二十四日、病癒えて、八日ぶりに晩酌した。新型コロナウィルス禍のこの時期、高齢者の発熱は心理的負担が大きい。食事していて、次に料理を口に運んだとき味覚がなくなっていればどうしよう、とか。その反動なのか、味覚にかえって敏感になっていて舌が塩分に微妙に反応したりする。一種の防衛機制なのかもしれない。

晩酌は元に戻したから次はジョギングだ。ストレッチ~筋トレ~走り、の手順のうち病後は軽いストレッチのあとウォーキングがよいか、いや、少しは筋トレも入れておかなくてはならない、好きじゃないけどなんて思いは千々に乱れている。ま、こちらはだんだんと元に戻していかなくてはいけない。

発熱は稀だがそのぶん熱に弱くダメージもきつい。若いときであれば病後のジョギングの回復手順を云々するなんて年寄りくさく、格好悪くて公言しなかっただろう。いまは年寄りくさいどころかほんとの年寄りである。未経験ゾーンなので手探りしながら進めてゆこう。

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快気祝いに「秋日和 デジタル修復版」(NHKBS)をみた。物語は「晩春」の焼き直しのようなものではあるが、美しいカラー映像、巧みなユーモアや艶笑譚などリラックスしてたのしみながら小津の名人芸が堪能できる。デジタル処理されて画像が格段に美しくなっているのがうれしい。

本作の原節子本郷三丁目の薬屋の娘だったという設定で、そこに帝大生だったとおぼしい若き日の佐分利信中村伸郎が彼女に会いたくてアンチピリンとかアンチヘブリンガンとかを買い求めに来ていた。場所は青木堂の近くと説明されている。

森鷗外と妻志げの長女だった森茉莉は、子供のころ千駄木の観潮楼に青木堂からケーキを届けてもらっていたと回想している。青木堂はおそらくいまスターバックス本郷三丁目店の立地するところにあったようだ。

どうでもよいことながら、原節子司葉子の母子がアパートに住んでいて、彼女たちは鍵をかけないのが、みるたびに気になる。母の原節子が先に帰宅して、娘の司葉子が帰ったときに施錠はしてなく、さらに娘の婚礼の夜、友人の岡田茉莉子原節子を訪ねて来たときも鍵はかかっていないのだった。

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プロ野球ことしのペナントレースパリーグソフトバンクセリーグジャイアンツの優勝で終わった。ジャイアンツの優勝で思い出したのだが、昨年読んだ堀田善衛の自伝小説『若き日の詩人たちの肖像』に堀田の従兄がいて、昭和十年代に京大で左翼活動をして逮捕され、一族郎党のコネで警視庁に就職!、のち退職してプロ野球、当時の職業野球の事務方に転職する。

数奇というかへんな人生だなあと思いながら読み進むうちに、あっ、そういうことかとわかった。つまり堀田の従兄は読売新聞社の社主にしてジャイアンツの創立者、初代オーナー正力松太郎(1885−1969)を利用しながら難を避けていたんですね。

少し先に作者が「この職業野球の社長は、Y新聞の社長でもあり、この社長は巡査出身であった。そうして社長は、従兄の亡父が内務省警保局長であったときの部下であったから、ある意味では安全を保障されているに近かったかもしれなかった」云々と書いていて、警視庁とプロ野球の事務方を渡り歩いた男の事情が具体に理解できた。

そこで日本のプロ野球と警視庁は関係が深く、両者を束ねていたのが正力だったと推測した。この人がいたから堀田善衛の従兄は巧みに難を逃れながら奇妙な人生のシノギができたのだった。

 

 

 

国勢調査異聞

日本ではじめて国勢調査が実施されたのは一九二0年(大正九年)十月一日だからこのほど行われた令和二年国勢調査は、第二十一回目、ちょうど百周年の調査となった。今回はとくに新型コロナウイルスの感染拡大を防止する観点から、ポスト投函やオンライン回答が推奨されていて、わたしもスマートフォンでなんとか回答できた。

さかのぼって昭和戦前の国勢調査はいまのそれよりもずいぶんややこしいものだったらしい。永井荷風は『断腸亭日乗』昭和十五年七月四日の記事に「当月一日より戸口調査あり。町会より配布し来りし紙片に男女供身分その他の事を明記して返送するなり。これを怠るものには食料品配給の切符を下附せずと云ふ。日蔭の世渡りするものには不便この上なき世となりしなり」としるしている。

これによると国勢調査(戸口調査)への回答を怠れば食料品の配給切符が回って来ないというペナルティがあった。その際「日蔭の世渡りするもの」つまりいまでいう性風俗業従事者には職業欄にどう書けばよいかというやっかいな問題があった。

じつはこれについて荷風は以前になじみだった女性、それも二人から電話で相談を受けていた。いまアパートに住み 「相変らずの世わたり」すなわち春をひさいでいるけれど戸口調査にどう書けばよいか困っていて、表面だけでよいから先生のお妾にしていただければありがたいとの依頼だった。

荷風としては書類上のこととしてもお妾を二人も三人も抱えるとなると税務署に目をつけられる恐れがあり、彼女たちには「それよりは目下就職口をさがしてゐるやうに言ひこしらへて置くがよし」とした。

新型コロナウイルス対策の一環としての持続化給付金の支給対象に性風俗店で働く人々を含めるかどうかについての混乱があったのは記憶に新しいが、かつての国勢調査をめぐる荷風の日記にはその第一幕の様子が述べられているようである。

うえの日記が書かれた翌年昭和十六年の開戦の日、十二月八日に荷風は発表するあてのないままに小説『浮沈』を起稿した。じじつ戦時中は発表の機会はなく戦後昭和二十二年にようやく上梓された作品で、ここでも荷風は戸口調査を扱っている。おそらく前年の日記を下敷きにして作品に取り入れたのだろう。

『浮沈』の主人公さだ子に君子という友達がいて、津村という有名な画家をパトロンに喫茶店をやらせてもらっている。ところが昭和十五年の国勢調査を機に画伯と君子の愛人関係は解消となる。そのいきさつについて彼女はさだ子に「先月戸口調査や何かがあつたでせう。わたしが先生の二号になつてゐることが、警察や何かに知れると都合が悪いツて云ふやうな訳なのよ。虚言だかほんとだか知らないけれど、先生は政府の御用をするやうになつたんで、喫茶店のマスターなんかしてゐることが知れては困るツて云ふやうになつて来たの」と語る。

荷風の日記の二人の女性は、職業欄に妾としておきたいと荷風に頼んでいたが、『浮沈』では妾とするとパトロンに迷惑がかかるからと愛人関係は解消となる。ついでながら君子は別れる代償に喫茶店をもらい受け、純喫茶はやりにくいと「特種のはうへ届替え」する、つまり 「特種」という性風俗業界への逆戻りである。

こうして荷風は日記で、また小説で国勢調査が社会の底辺に生きる「日蔭の世わたりするもの」を追いつめ、じりじりと炙りだしていく様子をしっかり書きとめたのである。

荷風が小説に書いた女性たちの多くは公娼、私娼、芸妓、カフェの女給、小さな劇場の踊子たち、いわば社会のいちばん低いところで生きる人たちで、(しかし勇敢に生活と奮闘する女性たちである)彼女たちを描いたことでエッチな話ばかり書いている作家というイメージが生じた。たしかに稀代の好色家ではあったが「日蔭の世わたりするもの」への視線がどのような質のものであったかは彼女たちと国勢調査とのかかわりひとつとっても明らかであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019チュニジアの旅(其ノ三)

地中海に面した遺跡の町ケルクアンへ来た。カルタゴが海の彼方のローマと戦ったポエニ戦争は紀元前264年のローマ軍によるシチリア島上陸から、紀元前146年のカルタゴ滅亡まで三度繰り広げられ、ケルクアンは第一次ポエニ戦争カルタゴが手放さざるをえなかったところだった。

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ポエニ戦争に勝利したローマはケルクアンを徹底的に破壊したが、建物の基礎をなす石群までは手が及ばず、そのため、ここは現存する唯一のフェニキア人(カルタゴ人)の町の遺跡、古代カルタゴの最良の遺跡となり、1985年ユネスコ世界遺産に登録した。といったしだいで、なんだか世界史の授業みたいになりました。

ルクアンからバスで130㎞、チュニスに戻り、明日からは首都近郊を廻る。かつてのフランスの植民地、そうして比較的穏健なソフトイスラムの国らしくチュニスにはノートルダム寺院を模したキリスト教会が建っている。

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チュニジア北西の内陸部にあるドゥッガ遺跡は北アフリカ最大級のローマ遺跡、65ヘクタールの広さをもち、その中心にはジュピターを祀る神殿が建っている。

ローマ人は進出した先で神殿と劇場と闘技場を造った。ドゥッガに即していえば、紀元前二世紀にこの街を占領し、神殿、円形劇場、浴場等を建て、街をつくった。のちに東ローマ帝国の所領となったが、その頃には神殿が教会にとって代わっていた。

ドゥッガの遺跡、とりわけジュピター神殿が建つキャピトル神殿を見ながら、神殿から教会へというローマ史の重要な一面を思った。

 

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遺跡のあとはバルドー国立博物館へ。

外観はふつうの博物館と見えるが、ここは十三世紀のハフス朝の宮殿として建てられていて、なかの雰囲気はけっこう豪華だ。

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収蔵品は古代ローマのモザイクを主に古代ギリシアイスラム時代の遺物が展示されていて、モザイク博物館、モザイク画の聖地の異名をもっている。

モザイク画は紀元前4000年頃、メソポタミア文明の時代に始まったとされる。石や貝殻などを小さく割ってピースを作り、それを接着剤でくっつけていく。こうして組み合わせ、描かれたモザイク画の色彩は褪せることはなく、劣化には強い。

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なお、2015年3月18日、男二人がこの博物館を襲撃し、観光客を人質にとって立てこもり、その後、治安部隊が二人を殺害しおよそ四時間後に博物館を制圧した。この事件で二十二人の観光客が死亡し、うち三人は日本人だった。

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2月11日。朝、チュニスの中心部を散策した。ホテルの立地がよく、パリを思わせる地でのさわやかな散歩だった。いっぽうに砂漠とラクダのイメージのあるチュニジアだが、それとは対照的な光景だ。

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旅は六日目。きょうの夕方チュニスを発ち、ドーハ経由で成田に向かうから実質的には最終日となる。

まず訪れたのが地中海に臨むカルタゴ遺跡。三度にわたるローマとの戦争、ポエニ戦争によりフェニキア人の古代カルタゴは破壊された。紀元前146年にカルタゴが陥落した際、ローマはその復活を恐れ、草一本生えることのないよう塩を撒いたと伝えられる。

その後、紀元前1世紀ころにローマの所領となったかつてのカルタゴの跡に新しいローマの植民市が建設された。いま眼にしているのはローマ植民市の遺跡で、ローマ都市らしい円形劇場や浴場の跡が見られる。このカルタゴ遺跡ローマ帝国時代に復興された都市の跡だ。

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上はアントニヌスの大浴場。総面積は35,000平方メートル、長辺の長さが200mにもなる巨大な公衆浴場で、当時ローマ帝国で三番目の大きさ、二階建てで百もの部屋があり、温水風呂や冷水風呂、さらにはサウナまであったと伝えられている。

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今回の旅の最後の観光名所はカルタゴチュニス湾を見下ろす高台にあるシディ・ブ・サイド。白と青の二色で彩られている街で、地名は聖人アブー・サイドにちなんでいる。この地の住宅は、アラブ建築、アンダルシア建築の組み合わされたもので、鮮やかな白い壁に青い扉が特徴である。二十世紀、この地に魅せられた芸術家、文人としてWikipediaにはシャトーブリアンフロベール、ラマルティーヌ、ジイド、コレットボーボワールの名前が見えている。

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このあとチュニスの空港から帰国の途に就いた。下はチュニスの真ん中にある、チュニジア独立を記念した建てられた塔。この国のシンボルだ。

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2019チュニジアの旅(其ノ二)

エル・ジェムは巨大な円形競技場がそびえる街だ。三世紀に建てられたこの遺跡は、現存するもののうち、ローマ、ヴェローナに次ぐ三番目に大きな競技場で、保存状態もたいへんよくて、地下にはグラディエーター(剣闘士)の控え室や入場の道(「死の廊下」と呼ばれた)がそのまま遺されている。

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「トランペットが高らかに吹奏された。剣闘士たちは相対峙して並び、楯を前へ伸ばした」「最初の一組は剣を何度も打ち合い、その鋭い音が円形闘技場の全体にこだまとなって響いた」。辻邦生『背教者ユリアヌス』より。

映画とともに歴史小説もイメージをかきたててくれる。

また同書に「警備の兵士たち、行商人、旅まわりの芸人、旅人たちが町々、村々を訪れて、いつか人々は広場をローマ風の彫像や噴水で飾り、円形劇場をつくり、神殿をたて、衣服、髪形などもローマの風俗がそのまま取りいれられるようになっていた」とあるようにローマ帝国のなかのアジア、アフリカにある都市はこうしてかたちづくられた地域でチュニジアもそのひとつだった。

なお下の写真の中央が「死の廊下」、向かって右が剣奴の控室、左側が猛獣の檻。f:id:nmh470530:20200128090528j:plain

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エル・ジェムの巨大な円形競技場をあとにしてケロアンへ行き、メディナ(旧市街)の西にあるシディ・サバブ霊廟を訪れた。

ムハンマドの同志で専属の床屋でもあったアブ=ザマ=エル=ベラウィを祀っている。七世紀に建てられ、十七世紀にモスク、神学校などが増築され、現在の姿になったこの廟には美しさはチュニジア随一と評価されるアラベスク文様のタイルが施されている。円形競技場のローマ世界からアラベスク文様のイスラム世界へといった旅程はこの地域の旅の魅力となっている。

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ケロアンで一夜明けて行ったのが九世紀前半に建てられた北アフリカ最古のモスク、グランド・モスク、高さ35mのミナレットは現存するなか世界で最も古いものだ。

ここは北アフリカイスラム教徒にとってアラビア半島にあるメッカ、メディナエルサレムに次ぐ聖地だ。ここに七回詣でるとメッカの一回に相当するという話があるそうだが、帰国していろいろとチュニジア旅行記を見ていると、現地のガイド氏が、完全なる俗説でメッカは別格だと述べたという記事もあり、ほんとのところはよくわからない。

いずれにせよ外観、内部ともに聖地の風格がただよっている。

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下はおなじくケロアンにあるアグラブの貯水池。九世紀、アグラブ朝時代に造られたもので、いま四つの池が残り貯水場として使われている。昔の日本には「湯水のように使う」という表現があったが、砂漠の国では、意味は日本と反対になり、大事に、大事に使うという意味になる。

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「薬の神じゃない」

難病映画は苦手です。死を意識した悲しい物語は避けておくのが無難です。それなのに白血病を扱った「薬の神じゃない」に足を運んだのは傑作「ダラス・バイヤーズクラブ」の中国版と評価する向きがあると小耳に挟んだからにほかなりません。

なお「ダラス・バイヤーズクラブ」については本ブログhttps://nmh470530.hatenablog.com/entry/20140303/1393830137を参照いただければさいわいです。

白血病罹患者の治癒率、生存率の向上については内外のアスリートたちの競技生活に復帰したエピソードなどとともに多少の知識は持っているつもりなのですが、自分の無知や幼いころからの刷り込みなどにより病名を聞くと「不治の病」というイメージと恐ろしさが先に立ってしまいます。

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上海でインド製強壮薬を扱う小さな薬屋を営むチョン・ヨン(シュー・ジェン)のところにインドつながりで同国産白血病治療のジェネリック薬を密輸し、販売してほしいとの話が持ち込まれます。持ってきたのは慢性骨髄性白血病患者のリュ・ショウイー(ワン・チュエンジュン)という男で、国内で認可されている治療薬は非常に高価で、多くの患者が苦しんでいる、安くて成分がおなじジェネリック薬がインドで生産販売されているというのです。

薬を飲み続けるために家、財産をすべて手放すなど苦しむ人たちを救ってやってほしい、それがおまえさんには金もうけになるんだからと説得され、はじめは断ったチョンでしたが金の誘惑に勝てずジェネリック薬の密輸と販売に手を染めるようになります。そこにリュのように自身の、あるいは家族の病状をなんとかしたい思いを強く持つ人たちによる協力サークルが形成されます。

実話ベースの話は二00四年当時の物語です。

認可された「正統」の既得権益をもつドイツ系製薬会社はジェネリックという「異端」の存在を許しません。かれらにとって「異端」はにせ薬そのもので、「正統」の薬を買えない、つまりもうけにならない患者はどうなってもよいのです。みているうちになんだかナチスの翳を感じました。

こうして高価な薬と、医療をめぐる政治と、保険の不備という三角地帯で患者の苦しみは増すばかりです。高価な薬は手に入らず、ジェネリックも許されず、あとは死を待つか、自殺するかしかないのです。

作品のたたずまいは、はじめチョンが悪漢となって金もうけに奔るコメディタッチでした。それがだんだんとシリアスへと転調します。破綻ではなくあくまで転調です。わたしは、スタッフ、役者陣いずれも物語の進行とともにコメディタッチのままではいられないとシリアスに向かっていったと想像しました。そう思わせる力がこの作品にはみなぎっています。

チョンにシンパシーを抱くようになるツァオ(ジョウ・イーウェイ)という刑事がいるのですが、こちらは取締りからシンパシーへと転調してゆきます。机上で取締りの計画を立て巡査に逮捕させるのではなく、みずからがチョンに向き合います。立ち位置は反対側でありながら、チョンとツァオは接点の多い関係となり、それとともに刑事の心情は変化してゆきます。

「薬の神じゃない」は恐ろしい血液の病気をめぐる話でありながら、なによりも血の通いあう人々の物語なのでした。

(十月二十七日新宿武蔵野館

2019チュニジアの旅(其ノ一)

2月6日、成田空港を発ちドーハ経由でチュニジアの首都チュニスに向かった。

まえまえから旅してみたい国だったが、2015年3月18日バルドー博物館でテロ事件が起きて渡航警戒のレベルが引き上げられた結果パックツアーの多くが取りやめとなった。昨年の夏、たまたま見た旅行社のパンフレットでチュニジアへのツアーが再開されているのを知り、ようやく今回の旅行となった。

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チュニスチュニジアの首都そして経済、産業の中心地、その真ん中にあるのが旧市街メディナだ。周囲を東西800m、南北1600mの城壁に囲まれ、中心にはミナレットとグランド・モスクが建っている。これを迷路のような通りが取り囲んでいて、土産物や衣料品、食品などの市場(スーク)がかたちづくられている。

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七世紀、東ローマ帝国領だったチュニジアにアラブ人が侵入し、この地をイスラム世界に組み入れた。いまチュニジアイスラム世界にあって比較的穏健なソフトイスラムに属していて、繁華街のカフェバーでは昼間にビールを飲んでいる姿が見られた。

2010年から2012年にかけて発生したアラブ世界における民主化運動「アラブの春」のきっかけとなったのは2010年12月のチュニジアの「ジャスミン革命」だったから民主化志向は強いと思われる。

イスラム世界の風情がただよう旧市街メディナと新市街の境にあるのがフランス門だ。

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そしてこの門から新市街に出るとフランス植民地時代に形作られた、一見パリを思わせる街が現れる。

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1878年ベルリン会議で列国はチュニジアの宗主権をフランスに認め、これをうけてフランスはチュニジアに侵攻、1881年にはフランス領チュニジアとなり、この体制が独立を果たした1956年まで続いた。

ヨーロッパふうの街並は植民地時代の名残だが、観光という見地からするとイスラムの旧市街とヨーロッパ風の新市街がセットになった街はなかなか魅力的である。

はじめてチュニスという街を意識したのは1967年緑川アコが歌った「カスバの女」で(作詞:大高ひさを、作曲:久我山明、オリジナルは1955年エト邦枝の歌唱)、わたしは高校生だった。故国のフランスからアルジェのカスバにたどり着いた女が「明日はチュニスか、モロッコか」と行く末を歌う、いわばフランス人の女の「裏町人生」であり、フランスから流れてゆく先にある、かすかなパリの匂いや異国情緒に魅力を覚えたものだった。

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チュニスの南およそ140kmに位置するスースは人口約43万人、年間に訪れる観光客は120万人だそうだから、観光が一大産業の街で、地中海に面したリゾート地としても知られる。

七世紀にアラブ人のイスラム教軍が現在のチュニジアを征服し、その後、ノルマン人、スペイン、ヴェネツィア、フランスに征服されたが、アラブ風の街並は残され大きな観光資源となった。

旧市街(メディナ)には八世紀に建造された当地の最古の建物リバトとその隣のグランド・モスクを中心にスークと呼ばれる市場が広がる。

ここで自分用にTシャツを買った。この国では値札をつけないのがふつうで、店と客との交渉で値段を決める。チュニジアの通貨はディナールで、一ディナールはおよそ四十円。そこで店主に値段をたずねると四十ディナールと吹っ掛けてくる。日本ではそんなTシャツは超高級品だぜ、と値切りにかかり、ようやく二十四ディナールで手を打った。

近年公営の土産物店では値札をつけるようにしていて、ここで見たTシャツが二十四ディナールだった。気に入ったのがなくてスークのお店に出かけて、二十四ディナールで手を打ったのはこのいきさつがあったからだ。

ちなみに公営の土産物店のように値札をつけるのが合理的だと民間の商店でも値札をつける店がだんだんとではあるが出てきていると聞いた。

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