指ヶ谷町で

荷風全集』を読みながら荷風ゆかりの地や小説の舞台となったところを散歩している。この試みは今回が二度目で、さいしょは一九九七年から九八年にかけてだった。それまでわたしはほとんどカメラに縁がなく、使い捨てカメラを買っては目的地へと向かっていた。

先日はむかしの指ヶ谷(さしがや)町、いまの白山一丁目界隈を廻った。町の一角がかつての花街で、わたしの好みの小説『おかめ笹』(一九一八年、大正七年)の舞台のひとつとなっている。ドタバタ喜劇の趣を具えた作品で、作者は「滑稽小説」としている。荷風の小説は偶然の出会いに頼りすぎるところなしとしないけれど、滑稽小説、ドタバタ喜劇であれば偶然にリアリティがあろうがなかろうがおかまいなしである。

そのはじめのところで、高名な日本画家内山巣石のグータラ息子翰と、内山の弟子で画家として一人立ちできず内山家で執事役を務める鵜崎巨石が、翰のなじみの芸者君勇と待合の美登利で酒杯を傾ける場面がある。

「小石川指ヶ谷町の停留所で電車を降りる。紙屑問屋なぞが目につく何となくごみごみした通りである。右へ曲つて突当りのはづれは本郷西片町辺の崖地をひかへた裏通り、板葺屋根のぼろぼろに腐つた平家立ての長屋のみ立ちつづいた間々に、ちらばらと新しい安普請の二階家。松なんぞ申訳らしく植込んだ家もあつて、白山の色町は其処此処に松月、のんき、おかめ、遊楽、祝ひ、いさみなんぞと云ふ灯をかがやかし、金切声振絞る活惚に折から景気を添へてゐる家もあつた」というのがその描写で、柳橋や新橋のような伝統、格式、堅苦しさのない、庶民的で親しみやすい町だった。

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古ぼけた写真は二十世紀末に訪れたときのもので、かろうじて看板を出している店があり、色町の名残りや芸者家や待合のたたずまいを感じさせてくれたけれど二十余年が経つと店は消え、敷石道にかつての姿を想像するほかない。

古い写真から二十年ほど前だと、野口冨士男が『私のなかの東京』(一九七八年)で、白山について「今なお大正時代の東京山ノ手花街の面影をとどめているただ一つの場所なので、私はここへもぜひ行ってみることをすすめたい」と書いている。

東京夢幻のひとこまとして一句 

軒灯や敷石道に春の風

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この日はおなじ町内にある円乗寺で八百屋お七のお墓に手を合わせてきました。

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見ぬ世の人を憶い、その墓に参る掃墓の興は荷風によると江戸風雅の遺習であり、「礫川徜徉記」には「雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思ひ、風静なる日其墳墓をたづねて更に其為人を憶ふ。此心何事にも喩へがたし」「掃墓の興は今の世に取残されし吾等のわづかに之を知るのみに止りて、吾等が子孫の世に及びては、之を知らんとするも亦知るべからざるものとはなりぬべし」とある。

荷風ゆかりの地をめぐるわが散歩、プチ旅行もこれにあやかっていて、よい趣味を教えていただき、まずもってありがとう、といわなければならない。

先人の墓を訪ねるなどやがて廃ってしまうだろうと荷風はみていたが、今日でも有名人の墓地案内本が出ていて「町中の寺を過る折からふと思出でて、其庭に入り、古墳の苔を掃つて、見ざりし世の人を憶ふ」ところに人生の哀歓を覚える人はなお多い。

それにいまの世にある人を訪うのとは異なり、見ぬ世の人を墳墓に訪れるのは挨拶の気遣いなく、手土産も不要、思い立ったとき自由に訪れ、心のおもむくままに過ごし、帰りたいとき帰って引き止められることもなく、長年ご無沙汰しても不実などと批判を受けることもない、よいことばかりである。

新型パソコン学習記

とくに用事のない日の午後は喫茶店で座っていたのに昨年の緊急事態宣言を機に自室で音楽を聴きながら、自分で淹れた珈琲を飲むようになった。きょう聴いたジュディ・ガーランド「Afternoon Tunes」は「ダニーボーイ」や「君去りし後」などのスタンダードナンバーを収めたアルバムで、うたとアルバム名とがあいまって午後の珈琲に花を添えてくれた。

朝は永井荷風のように「朝餉は仏蘭西製のシヨコラ一碗にアメリカ製のクラツカー三四枚とす」(「歌舞伎座の稽古」)といきたいところだがまだ真似できていない。

麻布の偏奇館で荷風はショコラ、クラッカーの朝食のあと書斎の塵を掃き、庭に出て落葉を掃い、季節の草花に親しんだ。

「垣のほとりの梔子、花まさに盛りなれど、風あまりに烈しきが故にや近く寄りて佇立むもかをり更になし。野薔薇の花は大方凋れて、姫百合擬宝珠の蕾早くもふくらみ、金糸梅の黄いろき花もまた咲きそめ」云々。

落葉については「葷斎漫筆」に「日々掃へど掃ひつくせぬ落葉を掃ふ中いつしか日は過ぎて秋は行き冬は来る。われは掃葉の情味を愛して止まず」とあり、『濹東綺譚』には館柳湾の絶句「秋尽」にある「老愁如葉掃不尽 蔌蔌聲中又送秋」が引用されている。

荷風にとって柳湾は「江戸詩人の中わたくしが最も愛誦する」存在だった。(『下家叢話』)いずれしっかり読まなくてはならない。

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「名誉と自由のためにしつけるべき幼い精神を、教育するにあたって、わたしはすべての暴力を非難します。厳格さと強制のうちには、なにかしら隷属的なものが存在するのです。それに、理性と、英知とたくみな技量によって、なしえないことが、力ずくでできるはずがないと思うのです」

モンテーニュは十六世紀フランスルネサンス期の人だが語られた中身は過去のものではない。わたしが通った中学校は「力ずく」の傾向が強く、 強制と叱りを教育と心得ている教師が多かった。さいわい高校は違っていて救われたけれど、ここもおなじような場所だったらどんなことになっていただろう。

モンテーニュはまた厳格さと強制のシンボルは鞭であり、それは「人間の心をいじけたものにするか、さもなければ、もっと強情でひねくれたものにする以外には、いかなる効果を認めることはできません」と述べている。

この思想家が亡くなったのは一五九二年九月十三日。以来四百数十年のあいだかれの叡智はどれだけ継承されたのだろう。

「もっとも美しい魂とは、もっとも多くの多様さと柔軟さを持った魂なのである」

「仕方なくたった一つの生き方にしがみついて、それに縛られているのは存在しているだけで、生きていることではない」。

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珈琲は喫茶店で飲むもの、喫茶店は本を読んだり、原稿を書くところとしてきたが、いまは自宅で珈琲を淹れ、本を読み、パソコンの前に座る。自分の部屋ではそんなことできないと思っていたのがなんだか不思議で、やればできるなんて肩肘張ったものでもなく、緊急事態宣言の影響による半世紀ぶりの生活様式の変化である。

先日のジュディ・ガーランド「Afternoon Tunes」に続いてきょうはエラ・フィッツジェラルドルイ・アームストロングのデュエット「Autumn In New York」を聴いた。スタンダードナンバーばかり全十四曲を収録しておよそ四十分余り、CDの時代になり多くの曲が収められるようになったが、これくらいがほどよい。

レコード盤の人気が復活していると聞く。ジャズだと三十センチLPで聴く四十分ほどの時間がちょうどよい。別のテイクをたくさん並べられてもプレイヤーや研究者ならともかく、わたしのようなふつうのファンはほとんどのばあいそこまでは入り込めない。それにレコードのジャケットは部屋を飾ってくれるのがうれしい。

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荷風全集』のうち大正期の著作を主に読んでいる。そこにしるされた社会史の一端をメモしてみた。

▼「此の頃支那蕎麦売の夜更けていやな笛を吹きて来るは亡国の夜の秋の心持なり」(「毎月見聞録」大正六年九月四日)。とすれば中華そば屋のチャルメラは大正になって吹かれるようになったわけだ。いまの若い人はインスタントラーメンのチャルメラは知っていても、その音を聞いたことのある人は少ないだろう。ネットでみると、明治には水飴商人がよく吹いていて、中華そば屋が用いだしたのは大正期からとあった。

▼「忘八渡世の者共白昼上野精養軒に集り全国芸者屋組合総会とやらを開きて万歳を三呼せし由新聞紙に見ゆ万歳の濫用ここに至つて極れりと云ふべきなり」(「毎月見聞録」大正七年四月九日)。ここから窺うに、万歳三唱は女郎屋の主人などがたやすくできることではなかった。なお忘八とは、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌  の八つの徳目のすべてを失った者の意から、廓通い、また、通う者、転じて、遊女屋およびその主人をいう。忘八たちの万歳三唱は大正デモクラシーの余波だったのかもしれない。

関連して提灯行列は「明治の新時代が西洋から模倣して新に作り出した現象の一」。氏神の祭礼、仏寺の開帳とは外形精神を異にして「氏神の祭礼には町内の若者がたらふく酒に酔ひ小僧や奉公人が赤飯にありつく。新しい形式の祭には屢政治的思惑が潜んでいる」と荷風は述べている。

▼「打こわし騒動の事を新聞紙に書立てる事御差止めに相成る。新聞といふものはもともと事を針小棒大に書くものなり故に新聞に出た事といへば嘘にきまつてゐるものと吾等は思ひ馴れ居たるに近頃は愚人多くなりしにや新聞を真実と心得違ひする」(「毎月見聞録」大正七年八月十四日)。ニュース報道における米騒動の社会史。

▼「近年に至つて都下花柳の巷には芸者が茶屋待合の亭主或は客人のことを呼んで『とうさん』となし、茶屋の内儀又は妓家の主婦を『かアさん』といふのを耳にする。良家に在つては児輩が厳父を呼んで『のんきなとうさん』と言つてゐる。人倫の退廃も亦極まれりと謂ふべきである」。(「申訳」昭和二年)

荷風一流のユーモアと皮肉を擬古文調で効かしている。ちなみに『ノンキナトウサン』、改題『のんきな父さん』は、一九二二年(大正十二年)に発表された麻生豊による漫画、「ノントウ」の略称でも親しまれ映画にもなった。『ノンキナトウサン』は聞いたおぼえはあるが作者の麻生豊は知らなかった。

荷風はしかつめらしい表情で皮肉、冗談をいう、その文体には擬古文や漢文が似合いで、この手法のパイオニアは『江戸繁盛記』の寺門静軒だった。その後継として荷風は服部撫松、松本萬年、三木愛花の名前をしるしている。

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葉真中顕『絶叫』(光文社文庫)を読んでいて、ようやく半分まで来た。バブルがはじけてからの日本社会で、ある女性の堕ちていく過程が描かれる。彼女の不幸を通してこの国の貧困の現実を捉えようとしていて、宮部みゆき火車』を思い出した。社会派推理小説にして貧困の社会学の教科書のような趣きもある。

『絶叫』の軸は、いままで読んだところでいえば、身元不詳の団塊ジュニア世代の女性の人生の軌跡が明らかにされるところにある。離婚後、保険会社の外交員をしているうちにノルマの達成や業績を伸ばすために枕営業をはじめ、やがてそれがばれるとデルヘルに走る。いまの日本の貧困のひとつの典型かもしれない。当方風俗営業の実態など知るわけはないが作者の取材はたいしたもので、フーゾクとはご縁のない老の身ながら取材の成果が作品に活かされているのはよくわかる。ミステリーだからこのあと犯罪絡みになっていくのだろうが、さてどんな?(と書いて、読み終えましたが複数の殺人の経過、謎解きとともに記述上のトリックもあり、上質のミステリーでした。)

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一部に感染症対策には民主主義よりも強権政治、独裁政治が有効といった議論が喧伝されている世界で、民主主義国家においても被統治者の合意を得る必要などうるさく、まぎらわしいといった雰囲気が醸成されているようだ。そうした視点から菅内閣とオリンピックパラリンピックの問題を眺めている。そして新型コロナウイルス禍を機に国際機構が権力体としての貌を剥き出しにして直截各国民に指示命令をしようとする意向を、東京オリパラ騒動とIOCに感じる。

「たとえ東京で新型コロナウイルス対策の緊急事態宣言が発令されていても東京オリンピックは実施する」というIOC幹部の発言はその表れだ。

望みはしないけれど中国やロシアなど全体主義志向の国々が国際機関を主導する場合だって想定しておかなければならない。どこかの国の首脳が口癖のようにいう仮定の話にはお答えできないなんて悠長な話ではない。中国に牛耳られていると聞くWHOは自由主義国家群による別組織を視野に入れておく必要がありはしないかとさえ思う。

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Apple社の新型タブレットを購入した。わたしのパソコンでの作業は同社のiPad(第七世代)で十分カバーできていて、 iPad Pro が新発売されたのを機にiPadからProに格上げし、パソコンを不要とするつもりだった。

ところが有楽町のビックカメラAppleの新型デスクトップをみて、そのスタイリッシュな魅力に一目惚れしてしまい、そのときは衝動買いはいけないと自制したのだったが、惚れた弱みから数日後にこちらも購入した。下流年金生活者としてはたいへんな散財で、お小遣いのほうも緊急事態宣言となった。

自分のカネだから文句をいわれる筋合はないのだが案の定デスクトップは不要不急とのご意見である。永井荷風の愛読者としてケチは紳士のたしなみと心得てきたのに調子が狂った。歳をとってからの惚れた腫れたは収まりがつきにくいと聞くけれど情報機器にも似たような事情があるのかもしれない。それとも認知症のはじまりか。

「金というものの唯一の欠点は、使うとなくなってしまうということである。これは実際、困ったものであって、使うとなくなるからというので使わずにいれば、なんのために金を持っているのかわからない。」吉田健一「金銭について」より。そうなんだよなぁ。

吉田健一について娘の吉田暁子さんは、ものを書きたくて、書き始め、結婚して家庭を持ち、ものを書いて生計を立て、犬を飼い、面白い本、良い文章を読み、美味と酒にしたしみ、良い友人とつき合い、旅を愛したのが父の一生だったと述べている。

及ばずながらわたしもせめて「俺も生きたや人間らしく梅の花咲く春じゃもの」(「侍ニッポン」)で、まあ、なりゆきでICT(情報通信技術)を少しばかり充実したくらいいいじゃないかと納得したのだった。

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デスクトップのパソコンが配送されてきて、さっそくWi-Fiを通そうとルーターの機種番号とパスワードを打ち込もうとしたが、そこへたどり着けない。iPad Proのときはすぐにできたのに。初歩からけつまずいてすぐさまAppleのサポートセンターに電話したところ、まずはキィボードとマウスのスイッチを入れましょうというところから始まり、親切な助力を得てようやくセッティングが完了し、文書を作れるようになった。

次には写真を入れてみようとしたところ上手くいかず、またまたサポートセンターへ電話して教えていただいた。もともと 情報リテラシーの劣る高齢者が新たなOSに向き合うのは冒険であり、なかなかのホネである。

こうして右往左往しながらこの日の晩酌では24インチの画面でYouTubeをみた。まずはわが生涯のベストナンバー「鈴懸の径」を鈴木章治とリズムエース+ピーナツ・ハッコーの演奏で聴いたところボリュームを最大にしてもなお音が小さく、これは設定だろうと目星をつけて音量の設定を変更して問題解決!

鈴木章治とリズムエース+ピーナツ・ハッコーによる「鈴懸の径」をはじめてラジオで聴いたのは小学生の高学年だったと記憶している。演奏者の名前も知らなかったが、何よりも軽快なメロディと二本のクラリネットの音の絡みが素敵だった。結婚してステレオを持ったときは「鈴懸の径」を収めた鈴木章治のLPレコードを買いに走った。

四十年ほど昔、北村英治オールスターズ(テナーサックス尾田悟、ピアノ秋光義孝などなど)のコンサートで北村さんがリクエストを求めたとき、「鈴懸の径」を所望された方がいて、北村さんは「ごめんなさい、この曲はわたし一人で演奏してはいけないことになっていまして」とやんわりと断っておられた。鈴木章治への仁義なのだろう。

北村英治が一人で演奏してはいけないという「鈴懸の径」だが、YouTubeには鈴木章治北村英治が共演したヴァージョンがあり、ピアノ世良譲、ヴァイブ増田一郎などが参加している。もとのディスクはライヴ録音で、コメント欄には、六本木にあったバードランドでこのときの演奏を聴いたとうらやましい書き込みがあった。

前にも書いたが、小学生のとき、高知市へ阪急ブレーブスオリックス・バファローズの前身)がキャンプに来ていて、市役所の職員で野球人だったわたしのおじが球団の世話をしていた。野球が大好きだった灰田勝彦がキャンプ巡りをしていて、おじが案内し、たまたまわたしはそのそばにいた。

灰田勝彦が「鈴懸の径」をさいしょにレコーディングして、ヒットさせた歌手だとはそのときは知らなかったが、振り返るとありがたい出会いだった。球場にいた本屋敷、梶本、米田、バルボンなどブレーブスの選手たちをふくめこのうえなくなつかしい。

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五月の10キロヴァーチャルマラソンは56:16、283/846で、七十代になっていちばんよい成績だったが、今月六月の成績は57:25、321/774。走れるだけでありがたいとわかっていてもやはり気落ちしてしまう。これまで最大のショックは五十代での12キロ走で、はじめて60分を切れなかったときは寝込むほどの衝撃だったが、いまは1キロ6分という現実が背後に迫ってきている。

年齢を重ねるうちにタイムは悪くなる。それよりも先にけがや故障で走れなくなるかもしれない。それらの事情からすると完走できるだけで感謝しなければならず、タイムについては贅沢な悩みと悟ればよいのは頭ではわかっていても人間ができていないからどうしてもタイムにこだわってしまう。

少しでも長く走るにはけが、故障の防止が第一で、わたしも多くの人と同様これまで膝痛を経験していて、まずはこれである。トレーニングの勉強はしているけれど、膝痛防止だけのトレーニングに打ち込むのは難しい。適度にオフの日を設けなければならないのはわかっていても若いときから休む勇気がない。

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「一秒先の彼女」

爽やかで心暖まる台湾発のロマンティック・コメディです。

映画館では彼女が笑った一秒あとにほかのお客さんが笑いだす。写真を撮るときのチーズ!も一瞬彼女が早くてみんなとテンポが合わない。小さい頃からちょっぴりズレていたシャオチー(リー・ペイユー)はアラサーの郵便局勤務、そのズレが影響しているのでしょうか、彼氏はいません。

そんな彼女が公園でダンスを指導していたイケメン君と知り合います。しかもイケメン君は郵便局までやって来て彼女をデートに誘ってくれたのです。折しもデートの日はバレンタインデーでした。

ここでちょっとひとこと。台湾にはバレンタインデーが二度あり、二月十四日ともうひとつは七夕の日(七夕情人節)で、シャオチーはこの日にデートするはずでした。ところが彼女がめざめると七夕の翌日になっていました。楽しみにしていたバレンタインデーは消えてしまっていたのです。ちなみに本作の原題は「消失的情人節 My Missing Valentine」。

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どうして七夕バレンタインデーは吹き飛んでしまったのでしょうか。探っているうちに、どうやら毎日のように郵便局へやって来て、必ずシャオチーのいる窓口で切手を買い、手紙を出す若いバスの運転手が関係しているようです。

こちらグアタイ(リウ・グァンティン)は彼女と対照的にワンテンポ遅れる人で、対比していえば映画館ではみんなが笑い終えようとするところで笑いはじめ、チーズ!もみんなが終わろうとするときにポーズがはじまります。

こうしてイケメン君とのデートが叶えられなかったあとに一秒先の彼女と一秒遅れの彼とのラブストーリーがスタートします。郵便局が重要な舞台ですから、二人のあいだにあるのはもちろんメールではなく手紙です。

日本人にとってもいつかどこかでみた気がするノスタルジックな空間にゆるやかな時間が流れます。チェン・ユーシュン監督のさりげないワザに魅せられました。そして、そこに介在するのは手紙。何年か先、わたしはこの映画を、手紙をめぐるとても素敵な物語と記憶している気がしています。

わたしはSF、ファンタジー系に弱い。ミステリーに強いわけではないのですがなじみの度合いはずいぶん異なります。食わず嫌いを直そうとしたこともありますが上手くいきませんでした。「一秒先の彼女」はラブストーリーにして、時間をめぐるSFの物語です。ところがSF、ファンタジー系に弱いわたしにも、バレンタインの一日が飛んでいたという謎の解明と処理は面白いものでした。謎解きにもSF的な解き方があるんですね。

ところで日曜日の昼下がりはNHKEテレの囲碁講座とNHK杯の対局をみて過ごします。現在前半の講座で初歩の手ほどきをしてくれている黒嘉嘉先生(七段)がシャオチーの勤める郵便局の同僚役で出演していて「おっ!」でした。エンドタイトルには特別出演とありました。囲碁ファンはぜひプロ棋士の女優ぶりをご覧になってください。うれしくなりますよ。

(六月二十九日ヒューマントラストシネマ有楽町)

 

 

 

新コロ漫筆〜副反応について

七月一日に一回目のワクチン接種をした。二回目は二十二日に予定されている。

無事に終わった一回目だが、じつは副反応が気になって何回か腰が引け、当日はニュースで早くワクチンを接種できてよかったとよろこんでおられた方々とは対照的に不安な気持で接種会場へ向かった。感染と重症化のリスクを大きく下げるメリットは承知している。しかし、ワクチンのマイナス効果とおぼしい事例が、自分が漠然と考えていたよりもずっと多い。

新型コロナウイルスのワクチンについて、国立精神・神経医療研究センターなどのグループが大規模なアンケート調査を行ったところ「接種したくない」と回答した人が11%にのぼったそうだ。なかでは十五~三十九歳の方の割合が高く、73.9%が「副反応が心配だから」を理由にあげている。

これにたいし国立精神・神経医療研究センターの大久保亮室長は「特に若い世代では、SNSなどの根拠のない情報で接種しないと決めるケースがみられる。厚生労働省のホームページなどで正しい情報を確認して、改めて考えてほしい」と話している。その厚労省のホームページの「正しい情報」でも接種が開始された二月から六月十八日までに三百五十六人の方が亡くなっている。(七月二日時点では五百五十六人)

この数字をどう考えるか。

亡くなった方はワクチン接種の翌日から数日間に集中していて、接種が先行している六十五歳以上の高齢者が九割を占めている。ほんとうに因果関係はないのだろうか。わたしには怖い数字であり、痛みや発熱などの副反応は甘受するけれど死亡となると別である。交通事故に遭う比率と比較してとかいわれても慰めにはならない。感染しても重症化しない傾向の強い若い人たちのなかに 「副反応が心配だから」として接種を避ける割合が高いのも理解できる。わたしだって重症化しにくい年齢層であればあえてワクチン接種のリスクは取らなかったかもしれない。

たしかに厚労省がいうように「接種の後に生じた事象も、それだけでは因果関係があるかどうかが分からないことに注意が必要」だ。しかし因果関係が不明であっても接種してから数日のあいだに亡くなった方々の事例についてはもっともっと報道と説明があってしかるべきだ。しっかりした説明をせず、因果関係はないの一点張りでは不安は増す。人々が「SNSなどの根拠のない情報」も含めて情報を得ようとするのは根拠のある行動である。

じっさいNHK、民放を問わず、この問題を掘り下げた報道に接したことがなく、そこに政治的な意図を感じてしまうほどだ。たまたまわたしが知らないだけなのかもしれないけれど。

どこそこで大規模接種や職域接種がはじまったという報道も大切だが、副反応の問題を取り上げないことでかえって疑心暗鬼が生まれる。安倍内閣とおなじく菅内閣も情報公開には消極的だから猜疑心が募る。

ここまで書いてペンディングにしてあったところ七月五日に、前日の四日、高知県南国市で行われた新型コロナウイルスワクチンの集団接種で、六十代の男性が接種を受けたあとに倒れ、病院に搬送されたがその後死亡が確認された、とのニュースがあった。これについてはさすがにNHKも全国紙も取り上げていて、ワクチン接種と死亡との因果関係は分かっていないが、県によると新型コロナのワクチン接種後に死亡した人は、県内でこれまでに四人いると報じている。

生まれ故郷の高知県で起きた事例は二回目の接種を控えている者に衝撃でないはずはない。南国市は当初「遺族が公表を望んでいない」として事実関係を明らかにしなかったが五日夕になって一転概要を公表したと毎日新聞にある。どういう経過で「一転」したかは不明だが、なかったことにされる可能性もあったのだろうか。

おなじ記事には、県民には不安も広がっており高齢の女性は「ワクチンを打つか迷っている。当局は包み隠さず情報を出すべきだ」と語ったとある。当然の話で、SNSなどの根拠のない情報で接種しないと決める傾向があるとかいった批判で済ませられる話ではない。

副反応の問題はなおざりにしてはならない。副反応をめぐる不安の根本には国がしっかりした見解を明らかにしないことが一因としてあるのではないか。死亡者を減らす方策が研究されているという話も聞かない。

高知県での事案について同県の健康対策課長は「ワクチンとの因果関係は不明。国からの報告を受けていないので詳細は知らない」と語っている。国は精査分析して県に報告するのであろうと思ういっぽうで国は県に知らしめず、寄らしめずとしたいのかもしれないといった不安も拭えない。

 

2019旅順、大連、錦州(其ノ三)

大連に路面電車が走ったのは一九0九年。営業主体は満鉄が全額出資し分社化した純粋子会社で、実質的に満鉄の軌道、バス部門を担っていた。

日本の敗戦により管轄は大連市交通公司に移行し、一部の路線はトロリーバスへの転換や廃止となったが、いまも大連市電として健在で、わたしが乗った車輛には人力車が走っていたころの市内の風景が展示されていた。

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一八九八年帝政ロシアは大連を租借してダルニーと命名し、東洋経営の根拠地として都市開発を進めたが日露戦争の結果この地は日本の租借地となった。大連のヨーロッパふうの情緒にはロシア人も寄与していて、大連駅の北東側にある旧ロシア人街(俄羅斯風情街)はその名残となっている。マトリョーシカやベルトなどおなじものを売っている店が並び、再開発が成功したとは思えないが、街並には風情がある。

作家の松原一枝は『幻の大連』に、昭和のはじめの小学校のころを回想し、革命から逃れてきたロシア人たちが両肩からパンを入れた箱をつるして、ゆっくりと歩きながら、底力のある声で「ロシア、パン」といって売り歩いていたと書いている。野菜は中国人が行商していたから、物売りの風景にもこの街の特色があった。

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清岡卓行『大連港で』によると、第二次大戦後進駐したソ連軍の将兵たちは大連に親愛感を懐いていて、かれらは、帝政ロシアが建設した都会だからヨーロッパふうな美しさをもっていると考えていた。そしてこのことは自分たちこそがこの都市を建設したと信じていた日本人には大きな衝撃をもたらしていた。たしかに最初の五年のあいだロシアは都市の建設にかかわったがその後の四十年は日本人がおこなったというのが日本人の言い分で、いっぽう中国人にすれば実際に労働したのはほとんどすべて自分たちであった。

これらをふまえ作者は「歴史的な背景が大連の日本人、中国人、ソ連人にあたえている心理的な影響は微妙なものであった。イデオロギーだけでは割りきれないものがいろいろあるようであった」と書いている。

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正岡子規が新聞「日本」の従軍記者として乗船した海城丸が大連港に入港したのは一八九五年(明治二十八年)四月十三日のことだった。周囲の心配をよそに病身を押しての赴任だった。このとき日清戦争は実質的には終わっていておよそひと月後の五月十五日帰国の途についた。

このかん五月二日子規は旧松山藩主で伯爵そして近衛師団副官だった久松定謨(さだこと)から金州の有名割烹店、宝興園にお招きにあずかった。この日の宴のさまを詠んだ句が「行く春の酒をたまはる陣屋哉」で、一九四0年(昭和十五年)日本人の篤志家により清の時代に金州副都統衙門だったところに碑が建てられた。

この碑は第二次世界大戦で所在がわからなくなってしまったが一九九八年になって工事現場から埋められていたのが発見され、二00一年にふたたび建立された。

再建の中心になったのは『子規・遼東半島の三三日』の著者池内央(いけうちひろし)さんで、著書の刊行は一九九七年だから、翌年になって行方不明の句碑が発見されたのは運命的といえる。

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一九0四年日露両軍は金州城の南近、南山で衝突し、その戦いは日露戦争の重要局面として位置づけられている。戦いの激しさは乃木希典「金州城下作」からも見てとることができる。

山川草木転荒涼

十里風腥新戦場

征馬不前人不語

金州城外立斜陽

もっとも現地を訪れて一望した限りでは、日露戦争の跡というよりも第二次世界大戦において現地で犠牲となったソビエト兵の墓地の印象が強い。

写真の記念碑には中国語とロシア語で「日本帝国主義を破るため勇敢にも犠牲となったソ連軍烈士たちよ、とこしえに 1945年」と書かれている。入場したかったが入口は閉ざされていた。Wikipediaには、一九四五年、ソ連赤軍の大連進駐後に整備されたこの墓地には、第二次世界大戦での進駐期間中に亡くなった兵士とその家族、朝鮮戦争で戦死したパイロットら1,323墓、2,030人が埋葬され、また陵園西部は帝政ロシアによる旅順占領時期につくられた公共墓地で、日露戦争で亡くなったロシア兵士1万4,873人が眠っているとある。

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一九四五年八月、日本が敗れ、中国が勝利したとき、大連に進駐してきたのはソ連軍であった。ここで話は日露戦争ロシア革命にさかのぼる。

日本のブルジョアジー日露戦争に勝利したが、敗北したのはロシア人民ではなくツァーリズムであり、これを機にロシア革命の好機がもたらされたと論じたのはレーニンで、革命に向けた政治的リアリズムから判断すると、かれにとって日本はツァーリズムを倒した友軍であった。

けれど進駐してきたソ連将兵にこうした意識はない。清岡卓行は「思いがけなかった」ことのひとつとして、ソ連将兵が旅順に到着したとき、日露戦争で父祖が奮戦した土地という強い親愛感をもっていたことをあげ、「日本人に、ソ連人の感情によって帝政ロシアのこの戦争は否定されておらず、イデオロギーとは別個に民族の血の切れないつながりがあることを教えた」と回想している。(『大連港で』)

くわえてソ連の対日戦争参加をめぐりスターリンソ連軍の満洲侵攻と赤軍将兵の駐屯はかつて日露戦争で受けた国民的屈辱の仇をそそぐ行為であるとして、清岡が感じた「イデオロギーとは別個に民族の血の切れないつながり」の感情を煽っていたのである。

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大連滞在の最終日の夕刻、上海、天津とともに中国の三大良港といわれる大連港に面したビルにあるカフェバーで過ごしながら、港を一望した。ビルはかつて満鉄の大連埠頭事務所だった建物と思われる。満鉄時代の待合室は五千人を収容して、東洋一を誇っていた。こうして大連港は戦前、内地と大連との往来の場であった。

一九一六年(大正五年)生まれで、少女時代を満鉄社員だった父の勤務地大連で過ごした作家の松原一枝はのちに福岡県女子専門学校に内地留学して、夏休みには両親のいる大連に船で帰省した。船上には、彼女とおなじく内地に留学していて夏休みで父母の許に帰る男女の学生の姿があった。

「甲板を散歩する。ふとしたきっかけから、互いに名乗り合い他愛のない話をする。それはこの上もない開放的なやすらぎ、そして社交だった」「大連は輸入品に税金のかからない無税港である。そのせいで内地では高い輸入品が安く手に入るので、買物をよく頼まれる。主として、写真機、時計、トランプ、煙草。煙草は、年配の人はウェストミンスター。若い人は安いルビ・クイン。箱が赤くてきれいだった」

税関検査のとき煙草は自分のものとして持ち込まなければならない。「煙草をあなた、のむのですか」と訊かれるとやむなく「はい」と答える。そこは税関吏も心得ていて「じゃあ今、吸ってごらんなさい」などと無粋なことはいわず、にやりと笑って通関してくれたそうだ。

この回想からも大連がおしゃれで、国際色のある町だったことがうかがわれる。

そして日本の敗戦を機に大連港は日本人の引き揚げの港となった。

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2019旅順、大連、錦州(其ノ二)

東鶏冠山北堡塁は帝政ロシアが日本軍の攻撃を防御するため東鶏冠山に建設した堡塁で、日露戦争の激戦地のひとつとなった。日本軍はこの堡塁を奪い、突破するために一九0四年の八月から十二月にかけておよそ四か月を要し、死者は八千人に及んだ。壁面の銃弾痕が生々しい。

なお戦跡保存の塔の正面には次のように刻まれている。(旧字体新字体に直した)

「明治三十七年八月以来第十一師団ノ諸隊及後備歩兵第四旅団ノ一部隊之ヲ攻撃シ同年十二月十八日占領ス

陸軍大将男爵鮫島重雄碑銘ヲ書ス

大正五年十月

満鉄戦跡保存会」

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関東軍司令部ははじめ旅順にあった。関東軍の関東は、万里の長城の東の端、山海関の東側、つまり満洲全体を意味する。日露戦争でロシアから獲得した関東州と南満洲鉄道の付属地の守備を担っていたのが関東都督府陸軍部で、一九一九年(大正八年)に関東都督府が関東庁に改組され、陸軍部は関東軍となった。司令部ははじめ旅順に置かれたが一九三一年(昭和六年)の満洲事変のあと「満洲国」の首都新京(いまの長春市)に移転した。

写真は旅順の司令部跡で。

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石碑の簡体字を直すと「粛親王府旧址」つまり粛親王の公館址です。粛親王清朝皇統の縁戚として辛亥革命に反対し、清朝を存続するための活動に従事し、それが失敗してからは宣統帝復辟の企てを続けた人で、その政治的立場から日本の満蒙侵略と結びついた。そしてこの人の娘が「東洋のマタ・ハリ」「男装の麗人」こと川島芳子(志那浪人川島浪速の養女だった)である。実父とおなじく清朝の再興を期し,陸軍特務機関の意を受けて諜報活動に従事したとして戦後漢奸として処刑された。一時期、李香蘭とも交友があった。

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日露戦争の激戦地のひとつ二0三高地。現地に、中国語、英語、日本語の紹介文があったので、日本語の部分を紹介しておこう。

203高地は1904年の日露戦争の主要戦場の一つである。日露両軍はこの高地を争奪するため、激しい、強い争いをし、結果、ロシア軍側では死傷者は5000名余り、日本軍側では死傷者は10000名余りに達した。戦後、日本第三軍司令官である乃木希典は戦争で命をなくした兵士たちを記念するため、砲弾の残片でこの高さ10.3メートルの砲弾状の慰霊塔を建て、爾霊山という三文字を揮毫した。今は、この爾霊山はすでに日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった」

なお爾霊山(にれいさん、あなたの霊の山の意)は二0三(に・れい・さん)の当て字。

大連の小学校の遠足ではよく日露戦争の戦跡めぐりがおこなわれたそうだ。

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大連大学附属中山医院。かつての満鉄大連病院で、地下一階、地上四階で、延べ面積九万平米は大連における最大規模の歴史建築で、竣工は一九二五年、当時は「東洋一の総合病院」と評されていた。

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2019旅順、大連、錦州(其ノ一)

二0一九年六月十四日、成田空港から大連へ向かった。所要時間三時間余り。一九七六年三月にはじめて訪れて以来中国へは何度か来ているが東北地方は今回がはじめてだ。

大連市は日中関係の要衝となった都市で、南満洲鉄道株式会社(満鉄)の本社や関東軍の司令部があったところ。日本の前にはロシアが租借していてパリのような都市の建設をめざしていたが日露戦争の敗北により挫折し、日本の租借地となった。

写真はかつての日本人街で、満鉄社宅はこの地域にあった。

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わたしは大連を「だいれん」と呼んできたが「たいれん」という人も多くいたそうで、安岡章太郎阿部昭との対談で「当時の内地では『たいれん』といってたんだ。満州に行った人だけが『だいれん』というんだよ。特に大連に住んでいる人は『だいれん』という。だから、ぼくらにとっては、大連から来た連中が『だいれん』というのを聞くと、非常に奇異な感じがした」と語っている。

ただし戦前の辞書、事典には「だいれん」「たいれん」ともに立項されていて安岡章太郎の証言によれば内地では「たいれん」が一般的だった。

大連とアカシヤとの結びつきを知ったのは清岡卓行アカシヤの大連』だった。清岡は一九二二年(大正十一年)に大連で生まれ、そのかん一高、東大への内地留学の時期を含め、敗戦による本土への引き揚げまで二十数年間を大連で過ごした。

アカシヤの大連』は一九六九年度芥川賞受賞作だからずいぶんと古い話だが、わたしはこの作品を未読のまま、大連と聞けばアカシヤを連想していたから、この書名は半世紀にわたり鮮烈なイメージをもたらしていた。

アカシヤは中国のイメージを喚起するものではなく、ヨーロッパを連想させた。「それは、かつての日本の植民地の都会で、ふしぎにヨーロッパふうの感じがする町並みであった」とは大連を扱った連作小説集『アカシヤの大連』所収の「朝の悲しみ」の一節である。

今回の旅から帰ってから半世紀のあいだ保留してきた宿題を果たすような気持で『アカシヤの大連』を読んだ。

「五月の半ばを過ぎた頃、南山麓の歩道のあちこちに沢山植えられている並木のアカシヤは、一斉に花を開いた。すると、町全体に、あの悩ましく甘美な匂い、あの、純潔のうちに疼く欲望のような、あるいは、逸楽のうちに回想される清らかな夢のような、どこかしら寂しげな匂いが、いっぱいに溢れたのだった」

明晰で美しい文章だ。

ちなみに『国民百科大辞典』(冨山房1934年~1937年)の「だいれんし」の説明には「邦人ノ建設シタ最初ノ近代的都市デ、市街ノ壮麗ナコト《東洋ノ巴里》ノ称ガアル」とあった。(清岡卓行『大連港で』福武文庫の解説参照、武藤康史執筆)

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大連中心部の中山広場には高層ビルが立ち並ぶが、なかで歴史文物としてよく知られるのがかつての大連ヤマトホテル、いまの大連賓館だ。

ヤマトホテルは南満州鉄道株式会社(満鉄)が経営する高級ホテルブランドで一九0七年から一九四五年まで満鉄線沿線の主要都市を中心にホテル網を展開しており大連ヤマトホテルはその旗艦店だった。

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広場は帝政ロシアが統治する時期に建設されていて、そのときはニコライェフスカヤ広場と呼ばれた。日本の統治時代は大広場の名称となり、近代的なビル群が建てられた。広場の変遷にも国際政治のありようが反映している。

大連にはヤマトホテルチェーンの経営母体だった満鉄の本社もあり、現在は鉄道事務所となっていて、一部が満鉄旧跡陳列館として開放されている。展示物の撮影はほとんど許可されていないが、一部許可されたなかに、本社ホールで行われた結婚披露宴の模様の写真があり、列席者のなかに佐藤栄作首相の若き日の姿が見えていた。

かつてのヤマトホテル、満鉄本社ともに中国人にとって不都合な歴史であり、痛みの残る歴史文物なのだが、しっかり整備され参観できるようになっていて、あらためて日中友好の大切さを思ったことだった。

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時代は前後するが、夏目漱石が友人の満鉄総裁中村是公に誘われて「満韓ところどころ」の旅に出発したのは一九0九年九月二日、大連港に着いたのは九月六日だった。夕刻、漱石中村是好を満鉄総裁邸に訪ねたが不在で、ヤマトホテルに投宿し、入浴しているところへ是好がやってきた。漱石が、どこへ行っていたんだと聞くと是好はベースボールをみて、それから船を漕いでいたと答えた。

アメリカ軍艦が大連港に停泊していて、この日と前日の五日に乗組員チームと満鉄チームが野球の試合をしていたのだった。

日露戦争から四年後、大連における野球を通じた日米友好という時代の雰囲気を垣間見せてくれる漱石旅行記で、野球を見ていた中国人の視線や日本の前に大連を租借していた帝政ロシアの事情を考えあわせると、その後の国際政治の重大要素が凝縮されている感のある大連なのだった。

「満韓ところどころ」で漱石が、「谷村君」という、中国人と組んで豆の商売を営んでいる人に案内されて商売仲間たちの旅籠、集会所、娯楽所を兼ねた家を訪ねるくだりがある。いわば大連の商人倶楽部で漱石盤上遊戯に興じている中国人の姿を見て「四人で博奕を打っていた。博奕の道具はすこぶる雅なものであった。厚みも大きさも将棋の飛車角ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた。その札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合せに接いだもので、その象牙の方にはいろいろの模様が彫刻してあった」と書いている。

麻雀で間違いないと思われるが、ゲームの名は書かれておらず、念のためWikipediaを参照したところ、なんと、日本人で初めて麻雀に言及したのはおそらくこの文章だろう、ですって!日本文学史上のちょっといい話。

麻雀が日本に伝わったのは明治の末で、広く知られるようになったのは関東大震災の後だったが、文学史のうえでは漱石が大連の一室で見た光景に発していた。