はじめての菊池寛

一月一日。

内田百閒に小学生のころのお正月の思い出を語った「初日の光」という随筆がある。

百閒は一八八九年(明治二十二年)の生まれで、当時尋常小学校の生徒たちはお正月に登校して「一月一日」(作詞:千家尊福、作曲上 真行)という唱歌を歌った。

「歳の始めのためしとて、終はりなき代の目出度さを、松竹たてて門毎に、祝ふけふこそ楽しけれ」。

新年のおめでたい気分が相まってだろう、ずいぶん変え歌が作られていて、そのひとつに「歳の始めのためしとて、尾張名古屋の大地震、松茸ひつくりかえして大さわぎ、芋を食ふこそ楽しけれ」というのがあった。

これを笑い話で済ませられるとよかったが、きょう起きた能登半島地震を思うとなにやら不気味ですらある。

ついでながら「お正月」(作詞:東くめ、作曲:滝廉太郎)は「もういくつ寝るとお正月」と新年を待っている唱歌で、こちらもずいぶん多くの替え歌が作られていて、Wikipediaには、お正月に餅を食べて腹を壊したり、のどに詰まらせて死んでしまい救急車や霊柩車が来るという内容の歌詞の替え歌が流布しているとあった。

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伊藤彰彦『仁義なきヤクザ映画史』(文藝春秋)に連続ドラマ「Pachinko パチンコ」(原作はミン・ジン・リー)が紹介されていた。ほかにも日本統治下の朝鮮を舞台とする「ミスター・サンシャイン」「シカゴ・タイプライター 時を越えてきみを想う」「マルモイ ことばあつめ」に言及があった。

困ったことにいずれの小説、ドラマも知らず、日本のドラマではNHKが製作した伊藤野枝の生涯を描いた「風よあらしよ」が紹介されていた。とりあえずオバマ元大統領が絶賛するミン・ジン・リー『Pachinko パチンコ』(文春文庫)を買ったがいまのところ積ん読状態で予定が立たない。

なお「風よあらしよ」について伊藤彰彦氏は、保守的なNHKではじめて関東大震災の日本人による朝鮮人虐殺を取り上げたドラマとしたうえで、一九二三年九月一日の関東大震災から五日後、千葉県福田村で香川県被差別部落からやって来た行商団九人を朝鮮人と断じて虐殺した事件「福田村事件」(森達也監督)と関連づけて論じていた。

なお年末にテアトル新宿でみた「福田村事件」はじっさいに起きた事件の綿密な考証を踏まえた再現で、不覚にもわたしはこの作品ではじめて事件を知った。

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一月十日。 ことしになってはじめての映画館、ヒューマントラストシネマ有楽町でツチヤタカユキ原作「笑いのカイブツ」をみて大いに刺激を受けた。

わたしの映画館通いは喫茶店での読書と音楽、晩酌と一体なので、あだやおろそかにはできない。きょうは映画のまえに菊池寛藤十郎の恋 恩讐の彼方に』(新潮文庫)を読み、一段落したところでイヤホンをつけてテディ・ウィルソンのアルバム「For Quiet Lovers 」を聴いた。 テディ・ウィルソンは大好きなピアニストだが、ベニー・グッドマンレスター・ヤングとの共演と比較するとトリオやソロでの演奏を聴く機会は少ない。なかで例外のひとつが「For Quiet Lovers 」でジャケットもとても素敵だ。

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菊池寛藤十郎の恋 恩讐の彼方に』 に収める「忠直卿行状記」に「殿のお噂か!聞こえたら切腹物じゃのう」「蔭では公方のお噂もする。どうじゃ、殿の(槍術の)お腕前は?」というくだりがある。この会話がたまたま通りかかった殿の忠直卿の耳に入った。家来たちは知らないままに本当のところを口にし、忠直卿は周囲から誉めそやされていた自身の武道の腕前が虚構のものだったと知り、苦悩の淵に落ちたのだった。

ことわざ「陰では殿の事も言う」は知っていたが、殿のところに公方(将軍)を代入した言い回しがあるのははじめて知った。

京極純一先生の名著『文明の作法』(中公新書)は「面白うてやがて悲しき井戸端会議」と「陰では殿の事も言う」を一対にしていう。真理と正義という崇高な理念は別にして噂話や陰口には、古来、人類を惹きつけてきた絶大な魅力があり、いかに美味であるか、人はひそかに知っている、そして噂話や陰口は他人の観察と見えてじつは他人というスクリーンに自分の内心を映写している場合も少くない。

「噂話、陰口、井戸端会議などは、真理と正義をめざして点火し、スリルと快感のうちに火勢が強まる。そして、本来語るべからざる内心を、不覚にも、他人の前で映写した悔恨のうちに、陰湿な幕を閉じる」

ところが「忠直卿行状記」では内密だったはずの殿の噂話、陰口が当の殿の耳に聞こえたために幕は閉じず、 忠直卿、家臣ともに行く末は大きく狂ってしまう。

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映画のあと帰宅して八代亜紀さんの訃報に接した。

二0一九年に亡くなった萩原健一のときもそうだったが同年の方の死亡はいささか心の振動を大きくする。彼女については昨年十一月十日付、本ブログの日記に《先日、八代亜紀さん(73)が膠原病を患い療養のため年内の活動をすべて休止するというニュースがあり、彼女の快癒を願い、締めに「八代亜紀 服部メロディを唄う」というアルバムを聴いた。/そのとき、早いもんだなあ、彼女もそんな年齢になったんだと感慨にふけったが、なんだかみょうにおかしい。しばしして、そうか、自分もおなじ歳なんだと気づいた。一時的に年齢も時の流れも蒸発したのか、それとも認知症が関係しているのだろうか。》と書いたばかりだったのに。

晩酌をしながら彼女のオリジナルのヒット曲とジャズを聴いた。ジャズでは「夜のアルバム」にある「枯葉」がお気に入りで、日本語による「枯葉」では出色のものと評価している。

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昨年、終活の一環として運転免許証を返納した。その折り、スマホの電話はこちらからかけるときのほかは使わないと決め、機内モードをもっぱらとした。もともと交際の広いほうではなく、家族や親しい人たちとの連絡はLINEとメールで足りる。

電話は便利だが、あくまで当方に用事があって連絡したいときであり、用もないのに新聞の勧誘や新築マンションのコマーシャルの電話がかかってきたりするのはいただけない。といったわけでもう電話は要らないと結論した。十余年の無職渡世でようやく懸案のひとつを片付けたしだいである。

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一月十八日。木曜日。朝いちばんで病院へ。昨日の午後から電気カーペットに座っていても下半身が震えるほどの悪寒と吐気に襲われ、さすがのわたしも食事をする気にならず早々に床についた。自宅の非接触型の体温計では熱はなく、病院でも同様だったので薬は飲まなくてもよいような話だったが、不安なので葛根湯をいただいてきた。 

じつは朝起きたとき吐気はまったく治っていて、医師には悪寒についてだけを話し、吐気は忘れていた。ところが夕食後断続的に吐気に襲われ、食欲が著しく減退した。

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一月二十日。土曜日。再度病院へ行き、風邪が腹部にきている(流行っているとの由)との診断を受け、薬が変わった。三種類もある。十八日に吐気の話をしなかったのは一大不覚であった。 

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一月二十一日。ここ数年、恒例となった大相撲初場所中日の観戦で国技館へ。二時過ぎに入り、打出しまでゆったり、のたりの時間を過ごした。久しぶりに照ノ富士の土俵入りを見て、やはり相撲は横綱がいなくちゃとの感を強くした。 

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とりあえず吐気は小康を保っているものの消化力が衰えているのでわずかずつしか食べられない。国技館では一行四人でビールを飲みながらの観戦だったが、わたしは緊張しながらちびりちびり飲み、おつまみも少しずつという状態だった。そのため打ち出し後の飲み会は欠席した。残念。

相撲余話。

ある会合で、イギリス人が関取に「アナタ、タクサン、ビッグ。ワタシ、スモール」とたどたどしく話しかけると、関取「ワタシも、スモー」と相手になるぞと着物を脱ぎかけ、英語のわかる人がなかにはいった。星新一『夜明けあと』にある話で、明治七年の新聞記事より。

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一月二十二日。歌舞伎座昼の部へ。プログラムは「當辰歳歌舞伎賑」「荒川十太夫」「狐狸狐狸ばなし」、華やかな舞踊と、赤穂義士外伝と、狐と狸の化かし合いのお笑いというナイスな演目に満足。

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夕方から神保町のお蕎麦屋さんで友人とビール、焼酎を飲んだが消化力はまだ復調途上で用心しながらの一献だった。

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一月二十八日。日曜日。ようやく腹の具合が元通りになったのに、今度は喉の具合がよくなく、鼻水、咳が出るようになり、昨日はまたまた病院へ行き、桔梗湯という薬をいただいてきた。さいわい発熱はなく、生活に変わりはないものの、風邪が抜け切るのを待っている状態にある。

きょう大阪国際女子マラソンで前田穂南選手が2:18:59の日本新記録でフィニッシュした。昨年のMGCでお見かけしたこともあってよけいにうれしい。三月の名古屋ウィメンズマラソンで新たな日本新記録が出ない限りパリ五輪三人目の代表選手の座は彼女のものとなる。

そして大相撲は照ノ富士が復活優勝を果たした。場所前、照ノ富士の復活を疑問視していたわたしの予想は覆った。横綱は健在ぶりを示し、また優勝決定戦で敗れた琴ノ若大関昇進を確実にした。いずれもめでたいことである。そして千秋楽の取組の圧巻は宇良が伝え反りで竜電を破った一番で、宇良は今場所を六勝九敗で終えたがこの伝え反りは三勝に価する。

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菊池寛藤十郎の恋 恩讐の彼方に』(新潮文庫)に続いて『父帰る藤十郎の恋 菊池寛戯曲集』(石割透編、岩波文庫)を読了。これまで菊池寛で読んだのはせいぜい何かのアンソロジーにあったエッセイくらいで小説は皆無だった。それが戯曲集まで手にしたのだからおどろきである。べつに避けていたのではないが、永井荷風菊池寛を蛇蝎のごとく嫌っていて食指は動かなかった。それが山本嘉次郎監督「藤十郎の恋」で原作を読んでみようかという気になった。

はじめての菊池寛。『藤十郎の恋 恩讐の彼方に』には歴史に題材をとった十篇が収められている。このうち「藤十郎の恋」は映画とおなじく素晴らしい出来ばえだ。ほかにも「恩を返す話」「忠直卿行上記」「恩讐の彼方に」でグイグイと頁を繰った。ただ「蘭学事始」は若いときから関心のある領域だっただけに物足りなかった。

文庫のカヴァーに「著者は創作によって封建制の打破に努めたが、博覧多読の収穫である題材の広さと異色あるテーマもまた、その作風の大きな特色をなしている」とある。博覧多読から題材を取り出してくる手法は芥川龍之介と共通している。それと仇討へのこだわりが強烈で、これには封建制の打破のほかに何か理由があったのだろうか。

ついでながら菊池寛の全集はその生地である高松市が平成五年から同七年にかけて刊行していて、わたしはこの全集についてメモを書いた記憶があり、今回むかしの原稿を収めたUSBメモリから取り出してみた。 

 


菊池寛全集(高松市刊行)をめぐって

永井荷風が「伝通院」という随筆に子どものころ小石川界隈で見かけた雪駄直しの思い出を書いたところ、知人から「水平社の禍」がふりかかるかもしれないから避けておいたほうがよい、じっさい菊池寛が小説中に「えたといふ語」を用いて一千円ゆすりとられたと忠告を受けた。荷風はさっそく関係箇所を削除するよう出版社に通告した。

断腸亭日乗』昭和二年十二月三日の記事で、昭和六年当時の内閣総理大臣の給料が八百円で、事実とすれば、けっこうな金額にのぼる「えせ同和行為」である。

この年の十一月十九日には濃尾平野を舞台に実施された陸軍特別大演習後の観兵式で北原泰作陸軍歩兵二等卒が軍隊内での部落差別について天皇に直訴するという事件が起こっており、荷風は水平社について多少なりとも意識していたのかもしれない。

数年前、菊池寛の生地高松市が全集出版を企画しているが、不穏当な用語の使用がけっこうあって困っているというはなしがあった。『断腸亭日乗』にある「えたといふ語」の使用もその一例で、その後、全集刊行がはじまったと聞いたが、差別語問題について編集方針がどうなったかについては調べていない。

くわえて過日、菊池寛が戦争賛美の文章を書いており、高松市の事業としてこうした作品の含まれる全集を出版するのは公金の違法使用であるとして訴訟が起こされたのを知った。

世には、鋭く研ぎ澄まされた人権感覚を身につけた方がいて、その打つ警鐘は貴重である。ただし、ときにその鐘は他人の欠点を衝き、粗相を嗤い、過失を責めたてる響きを持つ。過去の人びとの著作を、差別語使用と戦争賛美というリトマス試験紙に浸し、結果によっては精算し、葬り去ろうとするのはその一例である。高松市という公の機関による『菊池寛全集』の出版がいけないとの主張はやがて私企業の出版社による『菊池寛全集』だって企業の社会的責任という観点からして不可ということになりかねない。

必要なのは不穏当な言葉を削り、戦争賛美の文章を抹消するのじゃなくて、それらを含む菊池寛の作品についていろんな立場や角度から討議討論しようとする社会の気風をつくることだ。平等観や人権意識もそうしたなかで鍛えられてゆくはずだ。

(一九九六年二月)

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一月三十一日。二度にわたる風邪の来襲で、身体の調子はもとより、精神的にずいぶん落ち込んだ。いまランニングは中止してウオーキングに切り替えている。三月三日の東京マラソンめざしてこれから距離を延ばそうとした矢先の風邪で、どうやら当日はリタイア含みの参加になりそうである。「fun running」で行けるところまで行こう。

           

           

 

 

 

小澤征爾氏の死去と『嬉遊曲鳴りやまず』

この二月六日、小澤征爾氏が八十八歳で亡くなった。クラシック音楽とはあまりご縁がなく、同氏指揮の演奏も五指を超すかどうかのスピーカー鑑賞しかないけれど、この日は追悼の意を込めてブラームスハンガリー舞曲第一番、五番」とモーツァルトアイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴いた。いずれもサイトウ・キネン・オーケストラの演奏で、同オーケストラは一九八四年九月、齋藤秀雄歿後十年に、その教え子だった小澤征爾の発案により、秋山和慶ら門下生百余名がメモリアルコンサートを開催し、これが基礎となって生まれたオーケストラである。

そのあとYouTubeをみると「教える事は学ぶ事」と題した齋藤秀雄の長時間インタビュー番組がありさっそく視聴した。小澤征爾氏の死去を機に、その師も注目されているのだろう。一九七三年十一月にNHK女性手帳」で数回にわたり放映されていて、森本毅郎高橋美紀子のおふたりが聞き手だった。わたしには齋藤秀雄の映像ははじめてで貴重な機会となった。このとき齋藤は七十歳、小澤はボストン交響楽団の指揮者だった。

以前から齋藤秀雄には関心があり、前世紀の終わりころ、その生涯を描いた中丸美繪『嬉遊曲鳴りやまず』を読んだ。もとは日本の英語教育の基礎をつくった父親、齋藤秀三郎(一八六六~一九二九)への関心から息子についても知りたいと思ったのだった。こうして小澤征爾氏の死去にともない『嬉遊曲鳴りやまず』と再会した。

齋藤秀三郎。明治の世に日本人が学ぶ英文法をほとんど独力で体系化し、日本の英語教育の基礎をつくった人である。

十八歳で東京帝国大学工学部の前身、工部大学校を卒業まぎわに学校当局と衝突して放校とされ、その後、岐阜中学に赴任するが、校長から中等学校英語教師の資格試験を受けるよう求められると「誰が私を試験するというのか」と言い放って辞職した。

生涯で電話口に出たのは政府から叙勲の受諾の返事を求められたときただ一度だけと伝えられる。正則英語学校での授業と著作と辞典の執筆に明け暮れる日々で、電話はそれらの妨げになるから拒んだのである。この個性あふれる人の長男で音楽家齋藤秀雄の伝記となればそれだけで読書意欲はいやが上にも増すばかりだった。

秀三郎の長男秀雄の生涯を描いた中丸美繪『嬉遊曲鳴りやまず』(新潮社)は父親似の一徹な個性が生むさまざまなエピソードや教え子、同僚らの回想またインタビューが巧みな筆さばきで綴られ、クラシック音楽に不案内なわたしのような者でも巻を措くあたわざる状態となった。

齋藤秀雄(一九0二~一九七四)はチェリスト、指揮者そしてなによりも音楽教育家であった。秋山和慶小澤征爾堤剛、徳永兼一郎、藤原真理前橋汀子たち戦後日本の音楽家山脈の相当部分はこの人の創設した「子供のための音楽教室」及びその発展した桐朋大学音楽学部から輩出している。

戦前はNHK交響楽団の前身新交響楽団チェリスト、指揮者として活躍したものの、個性の強さと容赦ないトレーニングが災いして追放同様に退任させられ、戦後は音楽教育に尽くした。周囲からは大人に相手にされなくなったから子供を相手にしていると陰口されるなかで、世界の音楽愛好家の驚異となった桐朋オーケストラをつくったのだった。

NHK「教える事は学ぶ事」には藤原真理さんも演奏またインタビューで出演していた。『嬉遊曲鳴りやまず』には齋藤と藤原のこんなエピソードがある。

齋藤秀雄には自分は音楽の使徒であり、演奏も指揮も教育も音楽という神への献身であるとの思いがあった。だから、大阪にいた藤原真理という十歳の女の子を東京に出したらと母親に勧め、母親が娘をほいほいと預かってくれる親類もないからと答えたところ、そんなら親が一緒に出てきたらいいとこともなげに言えたのである。そして藤原一家は生活のめども十分ではなかったがこれを機に東京へ転居した。音楽への献身が親にも子供にも伝わったのだと解釈しなければ、このやりとりは世間知らずの芸術家の妄言に過ぎない。

ちなみに「教える事は学ぶ事」では齋藤の「私には、音楽の中に言葉が聞こえる。それを若い人達にも聞こえるようにして、その意味が解って貰えるようにしたい」という発言が紹介されていた。秀雄は音楽には独自の言葉の体系があると捉え、それを分析して示し、教えたという。父秀三郎の英文法は音楽にも影響していた。

写真はわたしのサイトウ・キネン・ディクショナリーです。

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「瞳をとじて」

劇場が明るくなるとともに三時間近く続いた心地よい緊張と鑑賞後の余韻に身を浸していました。ビクトル・エリセ監督三十一年目の新作にして集大成と喧伝されている「瞳をとじて」ですが新作や集大成といった売りの形容がなんだか余計に感じてしまうほど魅せられました。

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映画監督ミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)が「別れのまなざし」の撮影を進めているさなか、主演俳優フリオ・アレナス(ホセ・コロナド)が突然の失踪を遂げます。映画は頓挫し、それから二十二年が過ぎて、ミゲルのもとに人気俳優失踪事件の謎を追うテレビ番組を企画したからと出演依頼が舞い込みます。

取材への協力を決めたミゲルは、親友でもあったフリオと過ごした若き日々の記憶を手繰り寄せ、自身の半生を振り返ります。そうしてフリオを知る人々にインタビューを試みます。そのなかのひとりにフリオの娘アナ(「ミツバチのささやき」で当時五歳で主演したアナ・トレント!)もいました。

人気俳優失踪の未解決事件をめぐる番組は完成し、放映されました。そして番組終了後、フリオに似た男が海辺の高齢者施設にいるとの情報が寄せられます。
いろいろな解読や解析が可能でしょう。ただわたしには何よりもビクトル・エリセ版 The Long Goodbye でした。蟹は甲羅に似せて穴を掘る。これがハードボイルド大好きなわたしの甲羅なんです。映像も語り口も素晴らしい、それ以上にハードボイルドタッチのストーリーが惹きつけてやまないのです。

レイモンド・チャンドラーの元版は物語が終わったとき長い別れがはじまったのですがビクトル・エリセ・バージョンでは二十二年の別れのあとテレビ番組の企画を機にもう一度事件が浮上します。海辺の高齢者施設にいる男は何者なのか、どのような人生の軌跡をたどってきたのか。男は自分を有名なタンゴ歌手ガルデルと思いこんでいるふしがあり「カミニート」や「ジージーラ」を口ずさんでいる。どうしてアルゼンチンタンゴなのか。

そうそう音楽といえばミゲルが親しい仲間たちとギターを伴奏に「ライフルと愛馬」を歌うシーンがありました。ハワード・ホークス監督の「リオ・ブラボー」で、また「赤い河」でも歌われていたと記憶しています。ホークス監督へのオマージュだったでしょう。嬉しかった。

(二月十三日ヒューマントラスト渋谷)

「ダム・マネー ウォール街を狙え!」

ほんと、面白くて、ためになる映画でした。いつの頃からか政財界のエライさんたちが「貯蓄から投資へ」と唱導しておられますが、下流年金生活者の目には、高速道路での煽り運転としか映らず、巻き込まれてはたいへん、だから「ためになる」のはわが家計にマネーがもたらされるのではなく、株式市場という社会の仕組みがよく理解できた謂ですので、念のため。

理解の核心というか肝は空売りで、ここをしっかり押さえておかないとなんのことやらわからなくなる。詳述は避けますが、なにしろ株価が下がれば下がるほど儲けは大きくなるという株式売買の手法で、クレイグ・ギレスピー監督はまずまずこの課題をクリアしていました。

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いまはあまり聞かなくなりましたが、仕手集団というのがあり、巨額の資金とさまざまな取引手法を駆使して、株価を意のままに動かし、大きな利益を得ようとするグループを指します。この映画の空売りグループ、わたしにはヘッジファンドというおしゃれっぽい呼称より、仕手集団のほうがイメージぴったりでした。 

さてその仕手集団が実店舗によるゲームソフトの小売企業、ゲームストップ社に空売りを仕掛けます。手元に株式はなく、信用取引などを利用して、借りて売る。株価が高く、これから下がると予想される局面で売りに出し、その後予想通り株価が下落したところで買い戻して利益を得るわけです。ところがかれらが予想したように株価は下がらない、それどころゲームストップ社の株価は高騰しまくっている。空売りを仕掛けた側は大損害です。

なぜゲームストップ社の株価は上がり続けているのか。キース・ギル(ポール・ダノ)という個人株主が動画配信で、ゲームストップ社の株は著しく過小評価されていると訴え続けていたのです。そしてこの配信はキースのゲームストップ社の持ち株と時価総額が明示され、毎日更新される、つまり完全情報公開で運営されていて、やがてささやかな資金で投資をしてみようという個人株主の信用と共感を得るに至ります。金融市場で小型投資を蔑んでいうDnmb Money(愚かなおかね)の叛乱です。

こうして、ゲームストップという企業の株価を下げて利益を得ようとする空売り側と、同社の健全な成長を求める買い方との闘いが一瀉千里を走ります。もちろん山あり、谷あり。仕手集団はウオール街のエリートたちであり、株式市場を操る権力を保持しているのですから個人株主には厳しい。そして問題はメディアの注目するところとなり、全米を揺るがす社会事象となります。

コロナ禍での実話をベースにした本作。一見したところ血湧き肉躍るとはまいりそうもない素材をこうしたエンターテイメントに仕上げるのですから大した作劇術といわなければなりません。

余談ですが、この映画を素材に、どれほど深く掘り下げ、わかりやすい解説ができるか、試みてはいかがでしょうと高校で政治経済を担当する先生方や大学で経済学の入門を講じておられる先生方に申し上げたい。きっと指導力の向上に資すると思います。その意味で、この映画、 面白くて、ためになる経済学の教科書(そんな形容矛盾的教科書があるのが不思議ですけど)としての一面を有しています。 

(二月六日 TOHOシネマズ日比谷)

 

内田百閒『東京焼尽』

内田百閒『東京焼尽』は昭和十九年十一月一日から翌年八月二十一日までの個性的な日記だ。個性的というのは主題を明確にして、そこに焦点を当てている。その主題とは敗戦末期の惨憺たる空襲とその克明な記録にほかならない。

「夜半二時三十分警戒警報。五時三十分漸く解除となる。五時過ぎて西の空にサーチライト二三絛走り、高射砲の轟音遥かに聞こえたり。それだけで済んだが夜明け前三時間の上も起こされて、しょつちゆう表へ出てみなければならぬのは誠につらい」。

これは昭和十九年十二月二十五日の記事。

こんなふうに空襲の記述には時刻が付いていて、読む者に空襲がリアルに迫る。この日は夜が明けてようやく作ってあったお弁当にありつき就寝に及んでいる。起きてからは祭日のお休みを一日ぐずぐず過ごし、しばらくぶりの配給のお酒を昼から飲んでいる。昼酒なんて「そんなお行儀の悪い事は今まで嘗てしなかつたのだが、この頃は何度にでも分けてお酒を飲むと云ふ了見なり」なのである。この空襲ではわたしだって昼酒をやる。健康によいとかわるいとかはいっちゃいられない。何はともあれ飲めるとき飲まなくてはならない。なお十二月二十五日に「祭日」とあるのは、大正天皇の御誕生日、先代の天皇の誕生日を「先帝祭」としていた。

昭和二十年になると空襲は苛烈の度合を増す。一例として二月十六日の状況を抄出して見ると、7:10空襲警報。9:40警報解除。10:30B29少数機来襲。10:50空襲警報。11:15別にB29一機来襲。12:10空襲警報解除。12:35空襲警報。13:25空襲警報解除。14:55空襲警報。16:00解除といった具合だ。そして三月十日、東京は大規模な空襲を受けた。

東京都は昭和十九年十一月二十四日から昭和二十年八月十五日まで百六回の空襲を受けていて、とりわけ昭和二十年三月十日、四月十三日、四月十五日、五月二十四日未明、五月二十五、二十六日は大規模なものだった。(Wikipedia

罹災した文学者の日記では三月十日の空襲で麻布の自宅、偏奇館が焼亡した様子を描写した永井荷風の『断腸亭日乗』がよく知られている。このとき内田百閒は被災しなかったが五月二十五、二十六日の空襲で自宅が全焼した。

「(四谷界隈にある)私の家が焼けたのは十二時前後に、多分十二時より少し前ではないかと思ふ」「新坂上朝日自動車と青木堂の四ツ角に焼夷弾のかたまりが落ちたらしく、こちらから見るその辺りの往来一面が火の海になつた」。

百閒と妻は逃げる。夫はなけなしの一合の酒の入った一升瓶を抱きながら。「これ丈はいくら手がふさがつてゐても捨てて行くわけにはいかない」。ポケツトにはコツプがあり、準備怠りない。苦しくなると奥様に注いでもらい、朝がたその小さなコツプに一ぱい半飲んでお仕舞いになった。空襲で家が焼けても酒飲みに手抜かりはない。

自宅が全焼してからは近所の家というより小屋を借りての生活がはじまる。六月二日には世話になっている友人、同僚と冷酒を酌み交わしていて、肴はまず最初に梅干をはさみ、つぎに味噌をつっつき、最後に生ぐさとして瓶詰の鮭を取っている。それにしてもどうやって酒を手に入れていたか、そこのところも本書の読みどころのひとつで、まこと蛇の道は蛇である。

時間は前後するが昭和二十年一月二十七日の記事を見てみよう。この日夕刻、省線電車(鉄道省運輸省の管理に属した電車とその路線の通称)は東京駅に入れないほど銀座界隈の空襲はひどかった。ところが轟音が聞こえている最中ではあったが、いきなり空襲警報解除のサイレンが鳴った。数寄屋橋の近くでは、そのサイレンを聞いて、防空壕に退避していた人々が表へ出たところへ爆弾が落下した。いっぽうラジオではただいまの解除のサイレンは機械の故障によるまちがいだと放送したが犠牲となった方々には間に合わなかった。似たようなことがウクライナガザ地区でも起こっているのではないか。昔の東京の話とは思われず心が騒いだ。

百閒は空襲のリアルを示すために、意図してだろう政治、軍事についてはほとんど言及していない。ただし例外はあって大政翼賛会の解散について「新聞記事を読みて胸のすく思ひなり」「文士が政治の残肴に鼻をすりつけて嗅ぎ回つてゐる様な団体が無くなつて見つともない目ざはりが取れてせいせいした」と記している。電光一閃の批評は優れた文士の証である。

そして八月十五日。「ポツダム宣言受諾の詔勅は下つたけれど陸軍に盲動の兆ありとの話をきく。こちらの戦闘機が出撃する事になれば向うも又大ひにやつて来るに違ひないから若し警報が鳴つたら間違ひと思はずに矢張り防空壕へ御這入りになる様に」。

「陸軍盲動」の話はあの「日本のいちばん長い日」を指すが、噂はずいぶん早く飛び交っていたと知れる。そうして八月十七日の記事には「午前十時四十分警戒警報、B29一機なり。頭上に聞き馴れた音がして遠ざかつた。もう危害は加へないだらうと云ふ気がする」とあり、すぐに解除となったが警報は出ていたのだった。

本書は八月二十一日の記事を最後に終わる。その結び。

「『出なほし遣りなほし新規まきなほし』非常な苦難に遭つて新しい日本の芽が新しく出てくるに違ひない。濡れて行く旅人の後から霽るる野路のむらさめで、もうお天気はよくなるだらう。」

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「比翼床」

星新一に、明治の世相や風俗、ゴシップなどを新聞記事に探り、集め、時代の流れを追った『夜明けあと』(新潮文庫)という編年史の著作がある。

星一の生涯を描いた『明治・父・アメリカ』『人民は弱し官吏は強し』また母方の祖父で解剖学者、人類学者として著名な小金井良精の生涯をたどった『祖父・小金井良精の記』を執筆するなかで拾われた余滴を集めたものだ。いわば、星新一が独自の視点で明治という時代を眺めたユニークな年表にして雑学コレクションであり、森鴎外がヨーロッパの新聞記事から話題を提供した『椋鳥通信』の、明治日本版の趣きもある。そういえば小金井良精の妻、すなわち祖母は森鴎外の妹小金井喜美子だった。

その『夜明けあと』の明治三十三年(一九00年)の記事に「英国より寝台車を輸入。東海道線(読売)。」とあり、わが国の鉄道に寝台車が設けられたのはこの年のことだったと知れる。

寝台車と聞くと(寝台車の殺人というべきか)、わたしはアガサ・クリスティーオリエント急行殺人事件』とすぐに反応するので、寝台車の濫觴はこの鉄道かもしれないと調べてみたら、はじまりは米国で、一八三八年にアメリカのペンシルベニア州周辺の複数の鉄道会社が寝台車の運行を始めていた。

鉄道好きの作家の代表格に「阿房列車」シリーズの内田百閒(1889-1971)がいる。よくしたものでその随筆「寝台車」に、昔の二等寝台車にダブルベッドがあり「比翼床」と呼ばれていたとあった。

ここですこし漢文の授業の復習をしておきます。「比翼床」は「比翼連理」(二羽いっしょに空を飛ぶ鳥と、もともと二本なのに繋がってひとつになった木)から来ていて、ともに男女の睦まじさを表しています。中唐の詩人白居易の、玄宗皇帝と楊貴妃との悲恋の物語「長恨歌」の一節には「天に在りては願はくは比翼の鳥と作り、地に在りては願はくは連理の枝と為らん」とあります。

内田百閒によると「私の思ひ出す汽車に二等寝台がついた当初は大変な人気であつた。下段三円五十銭上段二円五十銭、その外にタブルベツドがあつて四円五十銭であつた」。残念ながらこのダブルベッドがいつ日本の鉄道に設けられたかはわからないけれど、おそらく明治三十三年からさほど遠くない頃だっただろう。それにしても舌を巻くほどの素晴らしいネーミングで、百閒先生は名付けの主について「ダブルべツドの事を比翼床と云つたのは世間の命名でなく、事によると鉄道の方でさう云ふ宣伝をしたのかも知れない」と述べている。いずれにせよ明治の名コピーライターである。

しかし「比翼床」は長くは続かず、まもなく若い女が帯を締めずに通ったとか、洗面所から長襦袢の芸妓が出て来たといった話題から風俗壊乱の非難が起こり取りやめとなってしまった。ただダブルベッドはそのままに独寝のものとなり「大床」と呼ばれた。「比翼床」から「大床」へ、えらく無粋になったのだった。

ついでながら『夜明けあと』の明治二十年の記事が「比翼塚」に触れていて、「お寺の下宿営業に、禁止の通達(朝野)。 遊郭での心中者を、同じ墓に埋め、比翼塚など呼ぶと、まねするのが出る(読売)。」とあった。

「比翼床」「比翼塚」にまつわるエピソードを知る、こんなときだ、わたしが日本人としての自覚を深くするのは。気のきいた言葉、機知、滑稽、諧謔、そこから生まれる人びとの親しみと共感がうかがわれて嬉しくなる。

『夜明けあと』のあとがきで星新一は「徳川時代の長い鎖国のあと、文明開化の大変化。普通だと内乱状態だろうが、意外に平静で、ユーモアもある。落語を育てた社会の、つづきを感じる」と述べている。日本の社会が落語との親近性を末長く保つよう願ってやまない。

寺田寅彦『漱石先生』

寺田寅彦が熊本の第五高等学校に入学したのは一八九六年(明治二十九年)九月、おなじ年の四月に漱石は英語教師として着任していた。

昨年七月に中公文庫の一冊として刊行された寺田寅彦漱石先生』は、漱石とのつきあい、その素顔、作品、また正岡子規をはじめとする漱石の周囲にあった人びとについて寅彦が語ったエッセイ、座談などを編集した文庫オリジナル版で、漱石と寅彦のファンにとってまことに嬉しい企画だ。

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熊本第五高等学校二年生の学年末、寅彦は「運動委員」に選ばれてしまう。学年末試験をしくじった同県人の学生のために受持の先生方の私宅を訪ね、学資が続かないほどの窮状にあるから枉げて単位を与えてやってほしいと「運動」する委員である。これが二人の個人的な交際のはじまりとなった。

「運動」の結果はわからないが、寅彦はこのあと、かねてより俳人として知られていた漱石に「俳句とはどんなものですか」と質問をした。寅彦は「世にも愚劣なる質問」と書いているが、漱石はこれにしっかり答えた。

「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集中点を指摘し、描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並という。」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句はよい句である。」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。」云々。

この話を聞いて寅彦は急に俳句がやってみたくなり、夏休みで高知に帰郷したさい二、三十句を作り、新学期に熊本に戻ったとき漱石に見てもらった。そうして次に漱石宅を訪れると、句稿には短評や類句が書き入れられたり、二、三の句の頭に○や○○が附けられていた。

やがて高等学校を卒業して大学へはいるとき、寅彦は漱石の紹介状を持ち病床にある正岡子規を訪ねた。漱石と寅彦の関係の深まりが見てとれるだろう。

吾輩は猫である』は漱石と寅彦の出会いから八年のちの一九0五年(明治三十八年)一月「ホトトギス」に掲載された。もともと連載は予定されていなかったが、好評につき書き継がれた。

『猫』の寒月君、また『三四郎』の野々宮先生は寅彦をモデルにしているという説がある。寅彦を追悼した高嶺俊夫「寅の日の追憶」で、著者が寅彦に『三四郎』の野々宮先生は寺田先生のことだという噂ですがと訊ねると、漱石はいろいろの人の特徴を取り集めるので必ずしも誰が誰とはいえない場合が多いが、大学の運動会に呼んだり、実験室を見せたりして材料の供給はしましたよと答えている。

なかでよく知られているのが『猫』にある寒月君の首縊りの話で、これについては寅彦自身「夏目漱石先生の追憶」で、学校に『フィロソフィカル・マガジン』という雑誌があり、なかにレヴェレンド・ハウトンという人の「首釣りの力学」を論じた珍しい論文があり、そこで、漱石に報告したところそれは面白いから見せろというので学校から借りてきて用立てたと述べている。

こんなふうに物理学者寺田寅彦の研究や興味関心は漱石の作品にずいぶん寄与したし、もちろんその逆のばあいもあった。

漱石の熊本時代の一句「落ちざまに虻を伏せたる椿哉」を寅彦はのちに取りあげた。ある植物学者に、椿の花が仰向きに落ちるわけを誰か研究した人がいるかと聞いてみたが、多分いないだろう、花が樹にくっついているあいだは植物学の問題になるが、樹をはなれた瞬間からあとは問題にならぬという返事だった。しかし寅彦はここで済ませることなく、観察と実験を通して椿の花が落ちはじめるときは俯向きであっても空中で回転して仰向きになろうとする傾向があるのを見出している。

花冠の特有な形態による空気の抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率などが作用していて、そのうえで「こんなことは右の句の鑑賞にはたいした関係はないことであろうが、自分はこういう瑣末な物理学的の考察をすることによってこの句の表現する自然現象が濃厚になり、従ってその詩の美しさが高まるような気がするのである」と述べている。(「思出草」)

ここにあるのはともすれば一方的になりがちな師弟関係ではなく、稀代の文学者と、自然科学者にして随筆家との切磋琢磨と実り豊かな交流で、本書はそこへの案内役となっている。ちなみに安倍能成は、漱石門下での寺田寅彦の扱いは「お客分格」で、夏目先生は若い者たちの美点と長所とを認められたけれども、寺田さんに対する尊敬は別であったと述べている。

漱石と寅彦との関係は俳句からはじまり、やがて漱石は『猫』で作家デビューをした。おのずと寅彦は作家以前を含めて漱石文学の立会人となった。漱石が亡くなったのは一九一六年(大正五年)十二月九日。そして昭和になって岩波書店が刊行した『漱石全集』第十三巻(昭和三年五月)の月報に寅彦は「夏目先生の俳句と漢詩」を寄せ、「夏目先生が未だ創作家としての先生を自覚しない前に、その先生の中の創作家は何処かの隙間を求めてその創作に対する情熱の発露を求めていたもののように思われる。その発露の格好な一つの創作形式として選ばれたのが漢詩と俳句であった」「俳句で鍛え上げた先生の文章が元来力強く美しい上に更に力強く美しかなったのも当然であろう。実際先生のような句を作り得る人でなければ先生のような作品は出来そうもないし、あれだけの作品を作り得る人でなければあのような句は作れそうもない」と見解を語った。

はじめての出会いで漱石が語ったように「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」だったのである。

  先生と話して居れば小春哉 寅彦