萩原朔太郎「喫茶店にて」に「巴里の喫茶店で、街路にマロニエの葉の散るのを眺めながら、一杯の葡萄酒で半日も暮してゐるなんてことは、話に聞くだけでも贅沢至極のことである」とある。なんだか読むだけで贅沢な気分になる。
これにつづけて著者は「昔の江戸時代の日本人は、理髪店で浮世話や将棋をしながら、殆ど丸一日を暮して居た。文化の伝統が古くなるほど、人の心に余裕が生れ、生活がのんびりとして暮しよくなる。それが即ち『太平の世』といふものである」と述べている。

人々が床屋で浮世話や将棋に興じていたころ、コーヒーを飲んだ日本人に大田南畝がいて「紅毛船にて『カウヒイ』といふものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず」としるしているが、お口に合わずともこうして感想を残してくれているのはうれしい。南畝は文化元年(1804年)長崎奉行所へ赴任していて、「カウヒイ」はこのときの見聞記にある。長崎で「カウヒイ」を飲んだ人はそれなりにいただろうからほかにも記録があれば読んでみたいものだ。
それはともかく「焦げくさくして味ふるに堪ず」のコーヒーはやがて日本人になじみの味となり、併せてコーヒー文化を受容するようになった。
一九0九年から翌々年にかけてドイツに留学し、コーヒーに親しんだ寺田寅彦は当時を回想しながら「コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であって、それを呼び出すためにはやはり適当な伴奏もしくは前奏が必要であるらしい。銀とクリスタルガラスとの閃光のアルペジオは確かにそういう管弦楽の一部員の役目をつとめるものであろう」と述べている。(「コーヒー哲学序説」)
また寅彦には「すきなものいちごコーヒー花美人ふところ手して地球見物」という歌がある。
わたしも寺田寅彦が説くようにコーヒーには「適当な伴奏もしくは前奏が必要」としてほぼ毎日喫茶店でコーヒーと読書と音楽の時間を過ごしていたのだが、新型コロナでずいぶん変わった。家にずっといられない、酒はともかく珈琲の家飲みは不要、読書は喫茶店で、と決めていたのになんのことはない自宅での珈琲もなかなかよいと知った。
映画館へ行くときは喫茶店とセットなのがうれしい。喫茶店、映画、晩酌の三点セットじゃないと映画をみた気分にならない。作家でフランス文学者の山田稔氏は『シネマのある風景』に「映画はすべて映画館でみる。家を出て、映画をみて、一杯やって帰宅するまでが私の『映画』である。ビデオは映画のうちに入れない。この態度を当分は頑迷にまもっていきたい」と書いていてわたしは大いに共感している。
淀川長治さんの自伝に、氏のお姉さんが喫茶店をしていた記述がある。大正時代のことでミルクホールと呼ばれていたころ、淀川さんのお姉さんはオリオンというミルクホールを経営していた。十五坪くらいの小さな店はいつもいつも客でいっぱいだったそうだ。
メニューははじめミルクとジャムパンだったがやがてコーヒーとドーナツになった。つぎにレコードをかける、メニューが多彩になる、こうして「小さな社交場」が誕生した。ほかにもクラシック専門やジャズ専門の音楽喫茶ができていた。大正の終わりから昭和になって花開いた喫茶店文化である。
見知らぬものを口にするときはそれを正当化してくれる理由があれば気持が楽になり、ハードルが下がる。手っ取り早いのは身体によいという理由で、 そのむかしコーヒー豆は胃薬や睡魔防止のためによいといわれていた。 獅子文六「『可否道』を終えて」には「コーヒーは古来薬物といわれ、健康を増進こそすれ、害のあるものではない。悪いのは、砂糖である。砂糖が胃を悪くする」とある。時間は前後するが寺田寅彦は「始めて飲んだ牛乳はやはり飲みにくい『おくすり』であったらしい。それを飲みやすくするために少量のコーヒーを配剤することを忘れなかった」と書いている。珈琲も牛乳もお薬、身体によいと納得して口に入れた事情がうかがわれる。
ちなみに梅田晴夫『珈琲』によれば、今日のようなコーヒーの味わい方を一般の人間が知るようになったのは一五五一年にコンスタンチノープルで世界最初のコーヒー・ショップが開店して以来なのだそうだ。
ついでの話で、カレーライスが渡来した明治のはじめ、一部に西洋おじやと称されていた。薬用ではなく日本の料理からの類推で、受け入れやすくしたわけだ。
いまではスターバックスやドトールで高校生が勉強したり、だべったりしている。ありふれた光景だが一九六九年に高校を卒業し大学へ入ったわたしはときに、うらやましいなという気になる。そのころ地方では(おそらく都会でも)高校生が喫茶店にはいるのは禁止で、見つかれば生徒指導の対象になった。
東京の出身で、昭和三十三年に京都大学に入学した詩人の清水哲男氏が、大学生になってからコーヒーに親しんだ、そのころは敗戦の「余寒」で、中学生や高校生がコーヒーを飲むなどという日常はなかった、腹のたしにもならないコーヒーよりも素うどん一杯のほうへと心が動いた、と体験を語っている。
昭和三十年代「三丁目の夕日」のころコーヒーは酒や煙草とおなじように大人の占有物であり、高校生の喫茶店禁止は、酒や煙草、コーヒーを嗜むなど、大人社会への参入はまだ早いという宣告だった。
わたしは大学生になりコーヒーを親しむようになった。振り返ると喫茶店は大人への入口だった。