摂生と不摂生

八月二十日新型コロナの四回目の接種をした。場所は文京区シビックセンターの展望ラウンジのある二十五階で、接種はいやだがラウンジからの眺めはよい付加価値である。

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接種後十五分は事後観察があり、それが済むとエレベーターで一階へ下りた。とちゅう同世代とおぼしき女性から「これで安心よね」と話しかけられて「そうですね」と応えたけれど、心のなかでは接種によるトラブルがないよう願っていた。

新型コロナ接種で、これでひと安心と思える人と、接種のトラブルがわが身に及ばなければよいがと不安を感じる人。ここのところがオプチミストとペシミストの分岐点で、現在のわたしは明らかに後者に属している。以前は豪放磊落、細かいことは気にしないといった心情も多分にあったのだが、あれはメッキだったかもしれない。

男の厄年は二十五、四十二、六十、女は十九、三十三、三十七、とくに男の四十二、女の三十三は大厄といわれている。ちょうど大厄のころ人事異動で業務内容が大きく変わり、ここらあたりからペシミズムに覆われるようになった。出先にいると職場から携帯に電話があり、クレームや問題出来の不安を覚えたりしてたらどうしても悲観論に傾きやすくなる。

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英語学習用テキストで『シャーロック・ホームズの冒険』と『シャーロック・ホームズの思い出』を読んだ。シリーズ短篇集は『シャーロック・ホームズの帰還』へと続くが、学習テキストOXFORD BOOKWORMSからの一時引越しだったので、そろそろそちらへ帰還しなければならない。

OXFORD BOOKWORMSは六段階のうち五段階にいる。さて帰還して何を読むか。目次順だとトーマス・ハーディFar from the Madding Crowd、それに続いてストーリーを知っていて読みやすそうなThe Merchant of Venice、長年気になっているキャサリンマンスフィールドの短篇集、映画「いつか晴れた日に」の原作ジェイン・オースティンSense and Sensibilityなどがある。

半世紀ぶりの英語は読むだけで聴く話すは関係ない点でお気楽である。ほんとは聴く話す力もないとしっかりした読解はできないとはわかっているけれど。

ところが英語を専攻した知人がOXFORD BOOKWORMSで大量の英文を読み終えたあかつきには聴く話すほうもそれなりに向上しているだろうといってくれた。リップサービスとわかっていても嬉しい。

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「物を記憶(おぼ)えるといふ事が技術なら、物を忘れるといふ事も一種の技術である。人間といふものは、打捨(うつちや)つておくと、入用のない、下らない事を多く記憶(おぼ)えたがつて、その代りまた物事を忘れたがるものなのだ」

薄田泣菫「帽と勲章」『茶話』)。

歳をとって記憶力の衰えは自覚している。ところが泣菫のいう「入用のない、下らない事」や主に若いとき重ねたいわゆる生き恥は忘れるどころか、ときに甦ったりするからやっかいだ。もともと前向きでないところに、加齢とともに昔を振り返る機会が増え、そのついでにいやな思い出が呼び戻される。忘れる技術って大事だな。

「私は時が悪くて不愉快なときには、時を通り抜ける。時が良いときには、それを通り抜けようとは思わない。何度もそれに手で触れて、味わい、それにしがみつく。悪い時はそれを駆け抜け、良い時はそこに立ち止まらなければならない」と書いたモンテーニュ自身、さりながら人生はそれほど都合のよいものではないと自覚していた。

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Amazon prime Videoで「誘惑」を観た。監督中平康。一九五七年日活作品。「太陽の季節」は前年に公開されているが石原裕次郎はまだ脇役だった。「誘惑」でも二谷英明宍戸錠がサラリーマンのチョイ役で出演している。 つまり日活アクション路線隆盛の直前に撮られた群像ラブコメディである。

女優陣は左幸子渡辺美佐子芦川いづみ中原早苗などいまから振り返ると贅沢、豪華、さらには東郷青児岡本太郎が本人役でゲスト出演している。銀座の小さな通りの洋品店、昔画家志望だった主人(千田是也)が思い立って二階を画廊に改造、そこに美術界のビッグネームや若手の美術家たちが集う。

左幸子で思い出した。大学生だった一九七0年前後、大学の大教室で羽仁五郎の講演があり、そのころ大ベストセラーだった『都市の論理』の著者は、開口一番こんな工場みたいな教室でよく勉強できるもんだと一発かましたり、きみたちもやがて結婚するだろう、男だったら左幸子のような女性がよいと、そのころ、息子羽仁進の妻だった女優を讃えていた。

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『デイヴィッド・コパフィールド』を読み、懸案の『風と共に去りぬ』か『アンナ・カレーニナ』に進もうかと思ったが、いま続けて大長篇を読むパワーがあるとは思われず、おなじく長年気になっていた『チェーホフ作品集』を手にした。いくつかは読んでいるがまとめて読むのははじめてだ。

英語学習テキストOXFORD BOOKWORMSではキャサリンマンスフィールド短篇集を読んでいて、彼女はチェーホフの影響を強く受けた作家だから両者を並行して読むのはかぶりすぎている気がしないでもないが、これもめぐりあわせなのだろう。わが読書漂流は何処へ行くのだろう。

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安倍元首相の葬儀を国葬とするという岸田内閣の決定に対する逆風がけっこう大きい。あれほど選挙に強かったのを思えばわたしには意外である。

元首相が凶弾に倒れたのは痛ましい出来事だった。史上最も長く首相を務めた方を国葬に、という感情は理解できないではないが、他方この人には民主主義に対する誠実や公正さという点で多大の疑問があった。

桜を見る会」をめぐる疑惑では事実と異なる国会答弁が少なくとも百十八回、議会を軽視した不誠実極まる態度である。くわえて森友問題では、財務省による公文書改竄まで起き、職員が自殺に追い込まれた。性被害をもたらした疑惑で逮捕寸前の人物に対し、当時の警視庁刑事部長(のちに警察庁長官安倍氏の事件で引責辞任)が逮捕状執行の取り消しを命じた醜聞もあった。元首相は関係していなかったかもしれないが、事実の究明を怠ったことは否定できない。

わたしは台湾との友好や、欧米と協調し全体主義的な考え方を排する点では共感していた。しかし日本の民主主義には不都合なことの多い人でもあった。

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「ただ放心状態で飲んでいる。その状態がいちばん疲れなくて、それには一人がいちばんいい。そしてほろっとして、あと黙々と寝入ってしまえば目的は達せられるので、酒でもビールでもウイスキーでも、何ならショーチューでもちっともかまわない」。

山田風太郎「ひとり酒」より。一人酒の極意である。

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」若山牧水

ところでこの文、昭和のいつごろ書かれたのだろう。「酒でもビールでもウイスキーでも、何ならショーチューでもちっともかまわない」に時代を感じる。それほど「ショーチュー」は酒類の最下層、被差別的存在であり、金がなくて酒、ビール、ウイスキーが飲めない者がやむなく酔うためだけに飲むものだった。

傍証として種田山頭火の昭和五年十月十五日の日記を引いておこう。

「焼酎は銭に於ても、また酔ふことに於ても経済だ、同時に何といふうまくないことだらう、焼酎が好きなどといふのは(中略)間違なく変質者だ、私は呼吸せずにしか焼酎は飲めない、清酒は味へるけれど、焼酎は呷る外ない」

もうひとつ、野坂昭之は「わが焼酎時代」に「当時の焼酎ほど残酷な酒を、ぼくは知らない。五杯も飲めば放歌高吟、ならまだいいが、すぐ嘔吐する」と書いている。文中の「当時」は昭和二十六年である。

四十代のはじめだったか、少人数の酒席で某先輩が焼酎を頼み、それがわたしに注がれた。「何ならショーチューでも」のイメージがあり、そのままにしてあると先輩から「おまえ、その歳になって焼酎も飲めないのか」とたしなめられた。いまわたしの晩酌に焼酎は欠かせない。品格、洗練において大変化した焼酎を讃えよう。

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英語学習教材OXFORD BOOKWORMSに収めるキャサリンマンスフィールドの短篇集The Garden Party and Other Stories、続いてThe Merchant of Veniceを読んだ。

前者について編者はいう、短篇集は何枚かの写真に似ている、人々の人生のある瞬間をとらえ、記憶として定着させる、と。

The Garden Party and Other Stories所収九篇は以下、Feuille d’ Album、The Doll’s House、The Garden Party、Pictures、The Little Governess、Her First Ball 、The Woman at the store、Millie、The Lady’s maid、

このうち「園遊会」「初めての舞踏会」「小間使い」が『マンスフィールド・パーク短編集』(安藤一郎訳、新潮文庫)にある。訳者のいう「豊かな感受性と技巧の冴え」でいえば「園遊会」が推しだ。

さていよいよFar from the Madding Crowdに取りかかろう。

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色川武大が「大喰いでなければ」というエッセイに、大病をして厳しい体重管理を課せられたことがあり、けっこう努力はしたがうまくことは運ばず、そこで考えを改めて「早死を防止するために痩せるのに、痩せようとして死に瀕するのではなんにもならない」と思うようになったと書いていた。こういうの好きだな。

古今亭志ん生がまくらで、摂生して自動車事故で死ぬ人と、不摂生しながら生き残る人とでは、事故で亡くなる人の方が不摂生だと語っている。

痩せようとして死に瀕するのと摂生して自動車事故に遭うのはわたしのなかでは重なっている。

わたしにも在職中の健康診断でいわゆるスポーツ心臓を指摘された経験がある。医師からは、健康のために走るのであればウォーキングに変えるよう勧められたが、健康のために走っているのではないのでと断り、ならばどうすればよいですかと質問すると、準備運動をもっと強化するようにとの答だった。それからの実践がよかったのか、翌年から指摘はなくなった。

心肺や膝への負担を考えると走るより歩くのが健康によいのだろう。しかし長距離を走る爽快感や達成感はウォーキングでは味わい難い。それぞれの向き不向きもある。長距離走という不摂生をして生き残るのは過分の望みなのかな。

もうひとつ古今亭志ん生にまつわる話を。

そば屋が天丼やカレーライスなどを供するようになったのは、戦中戦後の食糧難時代にはじまったという説がある。浅草、並木の藪の店主だった堀田平七郎が『私のそばや五十年』に書いている。そば、うどんが代用食とみなされ、そば、うどんを食事に代えたことから天丼やカレーがそば屋に侵入したわけだ。この指摘にもとづけば、戦争はそばやのあり方を変えた。鮨屋も同様なのかもしれない。

古今亭志ん生宅に息子の志ん朝が訪ねた折り、息子が鮨を喰うのを見て志ん生が、どうしてそんなにたくさん鮨を喰うんだと問うたところ、息子はだって腹が減ってるからと答えた。すると親父はそれなら食事してから来いと叱った。

志ん生にとって、鮨は趣味の食べ物であり、飯の代わりに食べるのは邪道なのである。そこのところの感覚は志ん朝にはわからない。

戦中戦後の食糧難時代に、そばとおなじく鮨も代用食化したとおぼしい。

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久瀬光彦の著書を借りて「マイ・ラスト・ソング - あなたは最後に何を聴きたいか」と問うてみる。わたしのラスト・ソングは「鈴懸の径」で決まり、ラスマエはいまのところ「水色のワルツ」としている。前者は灰田勝彦のオリジナルに加え多くのカヴァー、それに鈴木章治のジャズ・ヴァージョンと聴いているとたちまち時間が過ぎる。(写真は立教大学にある「鈴懸の径」の石碑)

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「水色のワルツ」はオリジナルの二葉あき子は別格にしてカヴァー・ヴァージョンのお気に入りはちあきなおみ小野リサで、おふたりとも二葉あき子のクラシックの歌曲の趣ではなくアンニュイの気分を素敵に醸し出している。そこで同曲が収められている小野リサのアルバムを熟読じゃない熟聴した。

「水色のワルツ」を含む小野リサのアルバムは夏の午後の暑さ対策によい。やはり夏の音楽はボサノヴァというべきか。

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コールドケース 迷宮事件簿』全七シーズン、百五十六のエピソードをすべて見た。

暇な奴とお笑いでしょうが、自分としては片隅の隠居の力業と思いたい。いずれにしてもシリーズ全編視聴はわたしにはレアケースである。

契約切れなのだろう、Amazon prime Videoではまもなく終了しますとアナウンスがあり、ならば残り全編見ようとアクセルを踏んだ。

コールドケース 』は二00三年から二0一0年までCBSで放送されたワーナー・ブラザース制作による刑事ドラマ。古くは一九二0年代、新しくは数年前にフィラデルフィアで起きた事件のうち未解決のままになっていた事件が新証拠の発見等で再捜査され解決される。パターンはおなじだから、水戸黄門や寅さんのファンの心情と通じているだろう。ただ犯罪実録ふうのドラマだから、濃淡はともかくそれなりにアメリカの社会史が反映されていて、その点でも興味深かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「梨泰院クラス」讃

英語学習テキストOXFORD BOOKWORMSでチャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパーフィールド』を読み、引き続き岩波文庫の訳書全五巻に進み、第一巻を読み終えた。学習用テキストのおかげで呑み込みも早く快調に進んでいる。

OXFORD BOOKWORMSでは次にトーマス・ハーディFar from the Madding Crowdが掲載されているが長篇小説の連続はきつそうで、おなじく英語学習用にリライトされた『シャーロック・ホームズの冒険』を読むこととした。コナン・ドイルのホームズ作品は原書ですべて持っているのに、学習用テキストからのスタートはトホホだな。

岡本綺堂は三歳にして、元幕臣でイギリス公使館に書記として勤務していた父から漢文素読、九歳から漢詩を学び、叔父と公使館にいた留学生から英語を学んだ。やがてシャーロック・ホームズ作品を読み、そこから『半七捕物帳』の執筆に至った。いま学習用テキストでホームズを読むわたしとしては学力不足を嘆くほかない。

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ドナルド・キーンはアーサー・ウェーリーによる英訳『源氏物語』で日本文学の素晴らしさを知った。日本の優れた古典文学にはそれに見合う優れた現代語訳がある、古典の勉強はそこからはじめよ、 外国語でも教えるかのようにはじめから原文にあたって文法を暗記させるのは味気ない、まずは文学としての面白さを教えるべきだ、とキーンさんは主張していた。

ドナルド・キーンの東京下町日記』にある「『世界のオザワ』を見習う」にキーンさんは「小澤(征爾)さんは、オペラをかみ砕いて子どもに食べやすくした。それを見習って、(日本の)古典も敷居の低い現代語訳で始めるべきだと強く思っている」と書いている。

わたしは大学で中国語を学んだがいま中国への関心はほとんど失せた。胡耀邦共産党の総書記だったころ、改革開放期の文学を興奮して読んだのもいまは昔。そこでふと思いついて英語の学び直しに取りかかった。英語学習用にリライトされた『シャーロック・ホームズの冒険』にはいささか忸怩たる気持はあったけれど、キーンさんの、敷居の低いところからはじめよ、に意を強くした。

ドナルド・キーンと日本の古典についてもうひとこと。

キーンさんは若いころ『徒然草』の翻訳に熱中しているうち自分が兼好法師になったと思ったという。その英訳は自身の翻訳のなかで、いちばん好きで、よくできていると自負していた。二0一九年四月十日、キーンさんのお別れの会で喪主を務めた養子誠己(せいき)さんはあいさつで「軽井沢の別荘で父は若い頃、タイプライターに向かって『徒然草』の翻訳に熱中しておりました。そのときは六月で、やはりシトシトと雨の降る梅雨の時期だったそうです。そして、父は、まさに自分が兼好法師になったと、そんなふうに思ったそうです。その英訳は父自らが、『これは僕の翻訳の中で、一番好きで一番よくできている英訳だと思います』と自負しておりました」と述べている。

これはゲットしなくてはと探したところ Essays in Idleness ありました。生涯の愛読書『徒然草』を英語でも楽しめるなんて、これまで思ってもみなかった。

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もし年収二十ポンドある人が十九ポンド十九シリング六ペンスで済ませて使う分には幸せにやってられるけど、二十ポンド一シリング使ってしまえば、みじめな結果になってしまうんだよ、とミスター・ミコーバーは、デイヴィッド・コパーフィールドに言った。

その舌の根の乾かないうちにミコーバーは黒ビールが飲みたいからとディヴィッドから一シリングを借り、奥さんへ支払いをよろしくと指示書類を書くと、元気いっぱいになった。このときミコーバーは債務者監獄に囚われの身で、 ディヴィッドは面会に来ていた。犯罪者ではなく債務者だからビールはよろしいという理屈なのだろう。

暑さのなかこの箇所を読んだところで黒ビールを飲まずにはいられなくなり、さっそく神保町のビアホール、ランチョンへ足を向けた。美味しかったなあ。

篠田一士が『世界文学「食」紀行』に「まあ、女のことはぼくにはわからないし、それほどの感興もよばない」「それよりも、ぼくは詩や小説を読むときには、食べ物に注目する」と書いている。及ばずながら大いに見習いたい。

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おなじく『ディヴィッド・コパフィールド』で、コパフィールドの伯母さんが「いいの、いいの、ビールさえあれば、極楽、極楽」と口にする。大いに共感したが、じつは伯母さんは「坦々と、温めたビールをティースプーンで飲んだり、ちぎったトーストをそれに浸して食べたりしている」のだった。

ホットビールは、ビールの本場、ドイツでも古くから親しまれてきた飲み方だそうだが、わたしに冒険心は起こらず、冬になればためしにやってみようという気にさえならない。そういえば寒い季節のドイツでホットワインを飲んだが、一度でたくさんだった。

ネットでどなたかがホットビールについて、キンキンに冷えたビールが好きな人や、ビールはのどこし!という人からすれば「温めて飲む」なんて発想は邪道に聞こえるかもしれません、けれどこちら、イギリスの寒冷地ではごく一般的な飲み方なんですよ、と書いておられた。ラガーではなくエールビールが適しているとの由。

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八月十日。夏が来れば思い出す。『徒然草』第五十五段「家の作りやうは、夏をむねとすべし」を。そして西陽が斜めに射すわが部屋で、文句をいってはキリがない、近くの上野公園を散歩し、不忍池のほとりでジョギングできる贅沢もあるんだからと自身を慰める。ちなみにドナルド・キーン英訳の五十五段を直訳すると「家は心に夏を思って建てるべきである」。  

第二次岸田改造内閣が発足した。どなたが入閣しようが、党の役員になろうがどうでもよく、あとは勝手に棕櫚箒で、こうして歳をとるのはよいものである。しかしながらウクライナや台湾がどうなろうとわがことにあらずという気分ではないからまだ枯れきってはいない。

「世に立つは苦しかりけり腰屛風まがりなりには折りかがめども」荷風

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八月十一日。「山の日」の夕方、上野公園を散歩し、とちゅう不忍池のベンチに腰掛けチェーホフ作品集のあちらこちらを開いてみた。猛暑日ながら五時半頃には陽は翳り、池の水と桜の葉裏はそよ風に揺れ、気持すこぶるよし。

「無能だというのは小説の書けない人のことではない、書いてもそのことが隠せない人のことだ」とチェーホフ。このブログを書いている人もおなじで、そうとわかっていてもまだ続けている。どれほどの無能か、あきれるばかりだ。

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暑さが厳しい。昨夏まではビールの箱買いはせず、飲みたくなればその都度買っていたのに、もうそんなこといっていられなくなり、自宅ではあまり飲まなかったビールを毎度口にするようになった。焼酎、ウイスキーにビールが加わり、これからの人生、きみたちとともに仲良く過ごしたいと心でささやいた。暑さが結ぶ恋である。

晩酌しない日はノンアルコールビールを飲んでいてこの夏はふたつとも必需品に格上げした。暑さに対する耐性が劣化し、ビールの箱買いを戒めていた堤防が決壊し、同時に欲望が解き放たれ、一瞬ではあるが、これからの人生、酒にはじまり、セックス、品物、現ナマ、もう遠慮しないと決意した。

先日は シネマート新宿で金大中の大統領選挙運動を素材にした実録映画「キングメーカー 大統領を作った男」を観たあと、晩酌には間があったので喫茶店で休んでいるとビールが恋しくて、恋しくて……精神的には完全に依存症状態である。

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しばし暑さを忘れさせてくれるTVドラマはないかなと探していたところ週刊誌で韓国のテレビドラマ「梨泰院クラス」(イテウォンクラス)が日本でリメイクされるとの記事を読み、さっそく元版をNetflixで視聴をはじめいま第四話を終えた。ストーリーの展開の魅力に加えパク・ソジュン演じるパク・セロイ(朴世路)が、韓流ハードボイルドの趣きがある。二人のヒロイン、キム・ダミ、クォン・ナラも素晴らしい。二人の女優の役柄を喩えると前者は変化球型、ベンチャー企業のマネージメントに優れ、後者は直球型で、大企業のキャリアウーマン、双方のバランスも取れている。いま一人「長家」専務役のキム・ヘウンも魅力の女優だ。

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週刊文春」のいつだったかの号で作家の下重暁子氏(86)が「75歳以上が『後期高齢者』って、誰が決めたの? 私はけしからんと思っているんですけどね(笑)。数字なんかで人間をくくっちゃいけません」と語っていた。

長距離走大好きで、まもなく七十二歳となるわたしは、できれば後期高齢者まではフルマラソンの大会に出場したいと思っているけれど、それこそ「数字なんかで人間をくくっちゃ」だめなんだ。走れなくなればそのときのこと。ハーフマラソンをはじめ長距離走はいくらでもある。七十五歳からは後期高齢者、こういうのを人為的高齢者論というのだろう。

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「梨泰院クラス」が中間点まで来た。NetflixのTVドラマのベスト10に常時顔を出しているのも納得だ。いろんな出来事を契機として人間関係が変化する、その変化の様相がこのドラマの大きな魅力で、今後の展開は不明ながら面白さに磨きをかける仕込は十分と見た。

寺田寅彦は「病室の花」で造花について「不規則な乾燥したそして簡単な繊維の集合か、あるいは不規則な凹凸のある無晶体の塊である」としたうえで、生花については「複雑に、しかも規則正しい細胞の有期的な団体である」と述べた。真実とまがいもの。甘みにも砂糖があるいっぽうにサッカリンがある。

造花と生花。寅彦は「美しいものと、これに似た美しくないものとの差別には、いつでもこのような、人間普通の感覚の範囲外にある微妙な点があるのではあるまいか」という。人間関係の揺れ、裏切り裏切られの描写は一級品の「梨泰院クラス」、生花そのものだ。

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七十七回目の「八月十五日」を迎えた。

「戦後、日本人は一人も戦死していない。素晴らしいことだ。不戦を誓う憲法九条のおかげであり、世界が見習うべき精神である。ところが、日本は解釈改憲で『理想の国』から『普通の国』になろうとしている」。

「私は戦争体験者として、国際問題の解決に軍事行動をとるべきではないと思っている。遺体が無造作に転がる戦場に立てば、その悲惨さ、むなしさは明らかだ。それに、日本にふさわしい平和的な国際貢献の方策はいくらでもある」

いずれもドナルド・キーン『東京下町日記』より。初出は二0一四年七月六日東京新聞。 つい先日までの日本人の平均的な考え方といってよいと思うが、いまはどうだろう。国会で改憲に積極的な政党が占める比率から考えると、それほど「理想の国」ばかり求められても困ってしまいます、がいまの国民感情なのかな?

国際問題の解決に軍事行動をとるべきではない。しかしウクライナでの「遺体が無造作に転がる戦場」報道を見るとそうとばかりいっていられない、しかも火元は国連安保理常任理事国である。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」(憲法前文)はいえない事態となっている。

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『デイヴィッド・コパフィールド』を読み終えた。一介の孤児がさまざまな体験を経て立身出世の人生を送るサクセス・ストーリーを骨格にさまざまな人物が散りばめられて、はじめ長いのが不安だったが難なく読めた。祝!

語り口はなじみやすく、それに人物造形と描写が見事で、ドーラ、ミスター・ミコーバー、ベッツィ伯母さん、ペゴティーとその兄のミスター・ペゴティー、ユライア・ヒープなど、わたしのような記憶力の衰えた者の脳裡にも長く印象に残りそうだ。

訳者の石塚裕子氏は解説でこの作品の魅力を「やはり、この小説の面白さの真髄は、様々な個性豊かな人物たちが、あちこちに登場してきては捲き起こす喜劇や悲劇の場面場面にある」と述べている。初出は月刊分冊で一八四九年五月から翌年十一月にかけて。読むうちにときどき同時代の日本、幕末維新期の社会を意識した。

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「梨泰院クラス」1シーズン、16エピソードの鑑賞を終えた。大満足、出色の韓流ドラマだ。韓国のトップの外食産業の御曹司に父を殺された息子の復讐を軸に恋愛、企業買収、内部告発トランスジェンダー等を絡ませた作劇術は見事なもので、これほどテレビドラマにはまったのは「ハウス・オブ・カード」以来だ。

ここしばらくの間に視聴した韓流ドラマは「愛の不時着」「未成年裁判」「イカゲーム」そして「梨泰院クラス」。NHKでやっている韓流歴史ドラマには全然食指が動かないが、Netflixの現代ドラマはこれからも追ってみたい。ヒット作品が日本で放送されているという事情はあるにしても、いずれもレベルは高い。

          

「アキラとあきら」

映画を観て、翌日から三日かけてTVドラマ版をNetflixで視聴しました。

映画だけではよく理解できなかったから、というのではありません、念のため。こういうオモシロ作品のあとにTV版をパスするなんてわたしにはできません。

両者の異同は別にして、どちらも「空飛ぶタイヤ」や「七つの会議」などと同様、たのしく鑑賞しました。映画の竹内涼真横浜流星、TVの向井理斎藤工、それぞれの演技はもちろん、映画版vsTV版のタッグマッチとしても見がいのあるものでした。

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池井戸潤氏の小説はわずかしか読んでいませんが、映像作品は気がつく限り視聴していて、これまでのところハズレはありません。今回は勧善懲悪の風味は控えめに、 ふたりの友情の味付けを濃くしています。 分断の象徴のような真逆の家庭環境で育ったアキラとあきらが運命の糸に操られるようにして東大を卒業し、おなじ大手銀行に就職し、困難な問題に立ち向かってゆく、これをメインに家族関係、職業上の人間関係、TV版では恋愛模様が描かれます。もちろんエンディングは爽やか。

池井戸作品に接するたびに、善玉と悪玉(のちに善玉に協力したり、和解する人たちを含め)のビジネスや対人関係についての考え方と行動に違いがあり過ぎる、というか悪玉のレベルがとても低くて、これでは勝負にならない、もっと拮抗した状況を期待してしまいます。いっぽうで両者の違いを際立たせるのはそこにわかりやすさと現代の講談の魅力があるのはわかってはいるのですが……。

ネットでこの映画をビジネスファンタジードラマと評した方がいて、なるほどと納得すると同時に「銀行は会社に貸すのではなく、人に貸す」というこの作品の名言もファンタジー、それとも実務の鉄則なのだろうか、仕事のうえで、会社、銀行とはご縁のなかったわたしは迷ってしまいました。企業、銀行の方はどうお考えでしょうか。

(九月一日TOHOシネマズ上野)

ドナルド・キーンさんの長生きの秘訣

日本をこよなく愛した文学者ドナルド・キーンさんは東日本大震災を機に、それまでのニューヨークと東京に半年交替で住む生活から日本永住を決意し、日本国籍を取得した。心不全により亡くなったのは二0一九年二月二十四日、九十六歳だった。

キーンさんの眼に、総じて米国の高齢者のほうが日本の高齢者より元気と映っていた。百歳近くまで元気だった方の観察だから重みがある。

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最晩年の著書『東京下町日記』(東京新聞出版局)にキーンさんは「私は米国人、日本人といったくくりで類型化すべきではないと思ってはいるが、おしなべて米国の方が高齢者は元気だ。独立心が旺盛で子どもに頼るのを嫌い、一人暮らしを楽しむ術を知っている人が多いからだろう。それには見習うべきところがある」と書いている。先達を見習おうではないか。

同書に「健康診断で数値を言われても、それが喜ぶべきか、悲しむべきか分からない。運動は心掛けていない。食事も栄養のバランスは考えずに、食べたい物を食べている」と書いたときが九十二歳、講演会で「何でそんなに元気なのですか」と問われて「健康にいい」という話には耳を傾けず、何も気にしないことですと答えている。

折よく「文藝春秋」七月号に「あなたの治療薬は大丈夫か?こんなクスリにご用心」という特集があり、ひとわたり読んでみた。わたしは服用している治療薬はない。ならば健康ですか、と問われてYESと答える自信もない。そもそも健康診断が嫌いで退職後は受診していないから答えようがない。健康診断未受診のため手遅れになったのであれば甘受する覚悟はできている。

在職中は法定最低限の検査はしたがそれ以上はしなかった。退職してからは症状があれば診察していただきさいわいクスリで済んでいる。

そうそう例外があって、先年脳についてMRIその他の検査をした。このときは某大学病院の事務方の知り合いが、認知症の研究データがほしいと広く声をかけていてわたしにも要請があった。検査はいやだからしないと口にしかけたところ、一日一万円といわれて言葉を呑み込んだ。検査は嫌いだがお金には弱い根性なしだ。

感染症予防のマスクに米国人はどうしてうるさく反発するのか、変わった国だなと思ったこともあった。けれどわたしの健康診断への対応も似たり寄ったりではないかと考えて、まぁそんななものかと納得した。

美味しいものを食べ、うまい酒を飲み、健康への気遣いはほどほどに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フランス的ケチ

イギリス人がコンドームのことを俗語で「フランスの手紙」というのはよく知られている。英仏両国の不仲から生まれたことばで、反対にフランスでは「イギリスのレインコート」といっているそうだからこれでおあいこ。

フランス人は世界に冠たる倹約家、始末屋といわれているが、フランスでケチの代名詞といえばスコットランド人を指すそうだ。もっともこれはフランス人が自画像をスコットランド人に置き換えたにすぎない。

フランス人は成金趣味をきらう、身分不相応を愚劣なことと考える、自分のことは自分で始末すべきであって他人を頼ることはできない、また頼ってはならないというのがかの国のケチのあり方であると河盛好蔵先生が「フランス人のケチ哲学」で解説してくれている。ただし半世紀以上前に書かれた随想だから、いまもおなじとは保証の限りでない。

それはともかく、このケチ哲学を実践した永井荷風三島由紀夫は「永井荷風先生は日本における最高のフランス的ケチであり、ハイカラもここまで行かなければ本物ではありません」と評価した。三島のいうフランス的ケチは河盛先生によると成金趣味や身分不相応の否定にとどまらず、他人を頼ることなく自分のことは自分でするという大いなる独立心を重要な要素としていた。

じじつ荷風はシャツや足袋のほころびは自身針と糸で繕った。昭和二年に書かれた日記体の随筆「歌舞伎座の稽古」では、衣服と食物は女の手を借りないよう日頃より心掛けておくと、ときに女の色香に迷い深味に陥ったりしても後悔することは少ない、また現在日本の女性は都会地方、階層の上下を問わずいずれも怠け癖がついて家事をつかさどる能力は落ちており、男子たるものこれに対し相応の心掛けは必要であると述べている。

女性の家事能力云々はともかく、男も女もまずは自立を心がけなければならず、その際、性的役割分業は妨げとなる。結果として、独立心が旺盛で、他人に頼るのを嫌うフランス的ケチは荷風の長生きの秘訣となった。

ところで最近わたしはブリア=サヴァランが『美味礼讃』で「酒を変えてはいけないと主張するのは一つの謬説である。舌というものは飽和するものである。とびきり上等の酒でも、三杯目からは鈍い感覚を呼び覚ますにすぎない」といっているのを知った。

晩酌をしない日はノンアルコールビールを飲む。350mlの缶ではいささか淋しいときがあって、そのときは炭酸水を飲む。500ml缶にしなくても「舌というものは飽和するものである。とびきり上等の酒でも、三杯目からは鈍い感覚を呼び覚ます」のだから。

まだ試していないのだが、おそらくふつうのビールでも350mlの缶と炭酸水で500ml缶の代用品となるだろう。それだけ節約となる。

そしてルイ十五世もしくはタレーランの言葉と伝えられる「人がフランスの名酒を飲む栄誉を持つときには、それを眺め、その香りをかぎ、その香気を吸いこみ、ゆっくりと味わって、そのあとで、その酒について話す」のまねごとでもしていれば十分であろう。

もうひとつ「フランス人のケチ哲学」にあったフランスのことわざ。

「貧乏が戸口からはいってくると、愛は窓から逃げ出す」。

愛情を長く保つためには金銭を大切にしなければならない。

ケチ作戦

原油価格の高騰やロシアのウクライナ侵攻が世界経済ひいては家計に大きな影響を及ぼしている。電気・ガス料金、お菓子類をふくむ食料品、各種サービス料金などなど値上げラッシュの様相だ。

わたしは下流年金生活者だからサバイバル術の必要度は高いが、かといって特別なものはなく、これまで通り貯蓄を心がけ、出費を抑えるほかない。投資や為替レートの利鞘など甘い誘惑に乗るのはもってのほかだ。

わたしがこう書くと信用できないかもしれないけれど、ご心配なく、経済評論家の荻原博子さんが「そもそも私は、一般の生活者が日本経済全体を考えるような必要って本当にあるのか疑問なんですよね。マクロ経済の論理で家計のようなミクロはカバーできないはず」「基本的に貯蓄して使わないっていうのがミクロな家計にとってのサバイバル術だと思っています」とおっしゃっている。(「週刊文春」2022年4月28日号「阿川佐和子のこの人に会いたい」)

日本列島全体の天気図をもとにその日の行動を決めるのは理屈であって、多くの市民にとってほんとうに必要なのは当日行動するエリアの天気予報である。日本列島全体の天気図をマクロ経済とすれば個人の生活圏の天気予報は家計というミクロ経済となる。マクロ経済の動向を踏まえたうえで各家庭は経済力に応じ合理的で、満足度の高い生活を追求すればよい。少なくともここしばらくは物価上昇に備えて貯蓄を心がけ、できるだけお金は使わないサバイバル術をわきまえ、あとは「神の見えざる手」にお任せするしかない。

永井荷風は往復葉書の返信の宛先を書き直して別用に使ったという。サバイバルのためその精神に学ぼうではないか。ついでながら荷風は、ろくでもない役人が市中の道路を管理していて、地中の漏電で人馬が亡くなった事故もあることから靴に化粧釘を打つのは危険、また蝙蝠傘の棒も金属製のものは避けておいたほうがよいという。ケチと安全の徹底を見習おう。

荷風のケチについて三島由紀夫が『不道徳教育講座』で、個人主義を徹底し、決して人を世話せず、人の世話にもならないという主義のフランス人が世界的ケチであることは論理的必然としたうえで「永井荷風先生は日本における最高のフランス的ケチであり、ハイカラもここまで行かなければ本物ではありません」と述べている。うれしいことにケチはハイカラ、脱俗に通じている。

ところでアサヒビールが十月一日からスーパードライなどを値上げすると発表があった。缶ビールの値上げはおよそ十四年七か月ぶりだそうだ。

これに備え、試みに強炭酸水にシチリア島の旅で買った岩塩をパラパラと振って飲んだところこれがなかなかよかった。この塩はしょっぱ過ぎて利用が少ないものだから消費促進を図るため実験してみたしだいで、これにより晩酌をしない日のノンアルコールビールをときどきは炭酸水で代用する目途がついた。わたしはノンアルコールビールでよい気分になったりもするから炭酸水で代用できるとなると缶ビールの値上げに何ほどか対抗できる。ノンアルコールビールの酔いは医療におけるプラセボ(偽薬)効果のようなものだ。

値上げにどうやって対抗するかの問題を考えているとみょうにファイトが湧く。もともと抵抗ということを重視するタイプだったから、その名残でケチによる対抗を思うのだろう。

東京メトロも値上げが待っている。いちばんよく映画を観るのは日比谷、銀座、有楽町で、自宅からは五キロほどだから走って行くのは簡単だが汗の処理が難儀で、だったら歩けばよいが走るのは好きだけれど歩くのはそうでもない。さてどうするか。ケチという反骨をつらぬくために老骨は思案している。

夏季鍛錬余話

シャーロック・ホームズの冒険』で「ボヘミアの醜聞」につづく第二話「赤毛組合」の事件を解決したホームズは、退屈しのぎになったといささか満足したのもつかのま「おやおや、その退屈が早くもぶりかえしてきたぞ!思うにぼくの一生というものは、平々凡々たる生きかたからのがれようとする闘いの、そのはてしなき連続じゃないのかな。その闘いでぼくを助けてくれるのが、こうしたささやかな事件なのさ」とワトソン博士に語った。(深町眞理子訳、創元推理文庫

博士はホームズを人々の恩人と讃え、ホームズ氏も多少はお役に立ったと謙遜しても、氏にとって犯罪との闘いは平々凡々たる生きかたからのがれようとするもの、いわば退屈しのぎである。

暇と退屈に甘んじてじっとしているなんてとてもできないホームズは犯罪捜査に乗り出す。ワトソン博士はホームズに随行して犯罪捜査=退屈しのぎを語り、読者はそれを読んで退屈しのぎをする。まことに贅沢でほほえましい光景で、このような光景が見られるのは教育が普及し、経済的、時間的にゆとりのある人々が増えた結果にほかならない。ちなみに作者コナン・ドイルが医療に従事するかたわら、副業で小説を執筆し、ホームズ・シリーズの第一作である『緋色の研究』を発表したのは一八八四年のことだった。

『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)で著者國分功一郎は「資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない」、そこに資本主義がつけ込む、文化産業が利益を上げるのに都合のよい楽しみを提供する。この諸事業のひとつにミステリーがあった。こうしてシャーロック・ホームズと現代のインターネットとはつながっている。

どのような娯楽であってもそれが定着するには資本主義の展開ばかりでなく社会の気風が大きく関係する。たとえばここに 福永武彦中村真一郎丸谷才一『深夜の散歩』という本がある。海外のミステリーをたのしく論じ、批評と評判記を兼ねた本書が刊行されたのは一九六三年だったが、当時この名著は一度も重版にならなかった。

十五年後、一九七八年に「決定版」の冠をかぶせて再刊された際、丸谷才一はあとがきに「十五年前の日本人はまだ遊ぶことに慣れてゐない、大まじめな国民で、それゆえ社会派推理小説などといふ大義名分のある娯楽読物に夢中になつたのだが、ああいふ調子の時代には、われわれの『深夜の散歩』はどうもぴつたりしなかつた」と書いた。

日本の社会に海外のミステリーという娯楽が定着するには社会の気風がずいぶん関係していた事情がうかがわれる。丸谷才一がいうように『日本外史』と『明治天皇御集』以外の印刷物には関心がない、「世界」と「アカハタ」以外の定期刊行物は読まないといった社会風土で娯楽は窮屈であり、大義名分を必要とした。

そうしたところへ登場したのが松本清張だった。 一九五八年『点と線』『眼の壁』がベストセラーとなり、社会派推理小説がブームとなった。そこにある社会の実相や矛盾、権力の悪事などは読者の社会勉強となり、退屈しのぎに小説を読むという居心地の悪さを大いに和らげてくれた。それはわたしが勤務していたお役所で、夏季特別休暇では格好が悪いから夏季鍛錬と呼んでいたのと軌を一にしていた。