「ちち」の思い出

二0二六年十月

一日

東京都心では待望の青空が広がった。ただ、この日も未明に雨が降ったため連続降水日数は三十六日となり、観測史上最長の記録を更新した。それでも日中の日差しはたっぷりで、気温も上がり、さわやかな一日となった。そしてきょうは都民の日、上野動物園の入園料が無料で、自宅から十分ほどあるいて動物園へ行くと、秋晴れのもとたくさんの人出で賑わっていた。一都民としてけっこうな額の税金を払っているから(と、いうほどでもないけれど)十分に動物園を楽しませていただいた。

四日

味の素スタジアムで開催されたTOKYO ROKUTAI FES 2026に出場した。昨年に引き続いての参加、そしてわたしの今シーズン初レースである。去年は駅伝を、ことしは10㎞走を走った。きょうは自分的にはまずまずのフィニッシュだった。今月はもうひとつ、一週おいて十八日に東京レガシーハーフを走る。

X日

いま読んでいる米原万里『パンツの面目ふんどしの沽券』に一九四六年生まれの建築家、建築史家藤森照信氏の著書『天下無双の建築学入門』(ちくま新書)から次の箇所が引かれていた。

「昭和二十年代の田舎では、おばあさんが、田んぼのあぜ道の上で、公然と着物の裾をたくし上げて、後ろ向きに立ち小便する姿を見かけることができた。それは田舎の未開な習慣と思って、安心してはいけない。イギリスだかの由緒ある全寮制の女子校では、今でも昔ながらの小の伝統が堅持されているという」。

フーテンの寅さんの「粋な姐ちゃん立ちションベン」は絵空事ではなかった。藤森氏より四歳下、一九五0年生まれのわたしはおばあさんの立ち小便は見たことはない。ただ、井上章一『パンツが見える。』にある以下の記述は実見している。

「戦後の女たちは、しばしばスカートをたくしあげて、ストッキングの位置を修正した。電車のなかでも、脚をひらいたまま着席することがすくなくない。パンツが見られることを、それほどはずかしがっては、いなかった」。

もともと和服にパンツやズロースをはかなかった。当然、強風でまえがはだけて陰部があらわになるおそれはあった。洋装となればパンツやズロースが防いでくれるから危険はなく、スカートをたくしあげてストッキングを直すなどなにほどのことはなかったのである。

下半身だけではない。『パンツの面目ふんどしの沽券』には以下の投書が引かれている。「ちなみに、女たちも子どもに乳を含ませるときには、何の躊躇いもなく人前で乳房をさらしておりました(これは、その後、上の学校にあがるために都会に出てきてからも、街中でしばしば見かける光景でございましたが)」。

わたしも子供のころ電車かバスで母親が赤ちゃんに乳を含ませているのを見たおぼえがある。昭和二十年代後半から三十年代はじめだったとおぼしい。そうした昔語りにわたしもいつしか古老になったみたいである。

おなじころ、母方の祖父母の家の近くに「あんま・マッサージ・ちちもみ」という看板があった。二階建ての家の二階の壁にある大きな看板でよく目立っていた。母親が赤ちゃんに乳を与えている姿はべつに意識しなかったのに「ちちもみ」にはみょうに反応した。文字が小学生のわたしに妖しく迫り、性意識を喚起したらしい。

それから半世紀ほどして島津保次郎監督「隣の八重ちゃん」(1934年)を観た。

女学校の生徒服部八重子(逢初夢子)の家に同級生の真鍋悦子(高杉早苗、両親の自殺幇助で有罪判決を受けた四代目市川猿之助の祖母)が遊びに来ている。たまたま隣の部屋には隣家の帝大生新海恵太郎(大日向傳)が自宅にだれもいなくて入れないからと休ませてもらっている。それを知らない女学生たちはおしゃべりに興じる。制服を脱いで私服に着替えている八重子に悦子が「おっぱいの形とてもいいわ」とほめると八重子は悦子の胸を見て「あなた意外に小さいわね」と応じる。

そして話が一段落して隣の部屋に移ると思いもかけず帝大生がいて、「へんな話してるねえ」と語りかける。

「どうして」

「だって、おちちの話なんか」

「いいじゃないの女同士だから」

「いかんねえ。男性の前で」

「恵太郎さん、近ごろそんなことに敏感ねえ」といったやりとりが続く。若い男女の交際がきびしく規制されていた時代、シナリオにこうしたやりとりをよく書いたものだ。

あの看板、そしてこの映画のシーンともに忘れがたい、おちちの思い出である。

X日

前世紀の七十年代はじめ、大学二年のときだったか、有楽町の日本劇場五階にあった日劇ミュージックホールのヌードショーを見に行った。いまはない日本劇場は戦前、李香蘭の歌謡ショーに観客がつめかけ、円型の劇場を七回り半取り巻いたあの日劇である。ミュージックホールについては「平凡パンチ」や「週刊プレイボーイ」で知っていたが足を踏み入れるのははじめてだった。そして、トップレスのダンサーたちの群舞に、世のなかにこれほど美しい世界があったのかと陶然となった。受験の世界史で知ったミロのヴィーナスやボッティチェリの「春」どころではなかった。美術展やコンサートなどおよそゲージュツとは無縁だった若者の感激は大変なものだった。それから四十年ほどしてパリを旅したときムーラン・ルージュやリドのショーに行ってみたがミュージックホールのときの感激とはほど遠かった。年齢を重ねて人間が枯れたのか、それともすこしは人間ができたのか。

ムーラン・ルージュといえば一九五九年フランスを訪問したソ連共産党書記長フルシチョフ氏はフランス政府の計らいか、この劇場を訪れてフレンチ・カンカンを観て度肝を抜かれ「スカートの中を見せつけるなんて何と下劣なショーだ。こんなのは、芸術とは無縁である。彼らにボリショイ・バレエを見せてやりたいものだ!!」と憤慨したそうだ。世はさまざまである。

こうしたショービジネスについて『パンツが見える。』の井上章一氏は「レビュー・ガールのズロースは、戦前期から男たちの性感をかきたてていた。しかし、彼女らのはいていたものを、ふつうのズロースと同一視すべきではない。一般人のズロースとは、ぜんぜんちがうものを、彼女らは身につけていた。舞台をいろどるズロースには、それなりの装飾もほどこされている。光りものなどが、そえられたりもしていたのである。そして、そんなズロースだから、男たちの欲望をふくらますこともできたのだ」と述べている。

日常生活の下着としてのパンツ、それとは異なるきらびやかなコスチュームとしてのパンツがどんなふうな関係にあるのか、といったことに研究者として分析し、考察を加えている。魅惑のショービジネスに分析や考察をしなければならぬ研究者も因果なものである。

十八日

午前中、東京レガシーハーフ2026を走った。この大会はことしで五回目、ありがたいことに五回すべて当選、そうなると大会そのものに愛着が湧いて、日本橋の三越のまえで折り返すのが嬉しく、フィニッシュで国立競技場のトラックを走っていると心踊る。おかげさまで今回も快適に完走できました。感謝‼︎

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国立競技場を出ると沿道の方、ボランティアの方から「行ってらっしゃい」と、フィニッシュで国立へはいろうとするとおなじく「お帰りなさい」と声がかかる。ありがたく、うれしい。こうした経験があって、わたしもときにボランティア活動に参加している。来年三月の東京マラソンは落選したので、ボランティアを申し込んでいる。

後期高齢者の老爺は、目標タイムを上回るために自分を鼓舞したり、自己ベストの更新に向けてまなじりを決したり、といった重い状態に陥るのは避けなければならない。思い詰めてもどうにもならない。それよりも、世のなか気楽に、すいすい、さらさらである。

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X日

ヒッチコック総ざらえで「私は告白する」を観た。カナダのある教会で働く男が、神父(モンゴメリー・クリフト)に、強盗殺人を犯したと告解する。やがて、その事件の容疑者として神父に嫌疑がかかる。だが、懺悔中に聴いたことは他言してはならない、というカトリックの戒律のため、神父は真犯人の名を明かすことができない。これにかれが神父になるまえ愛した女性(アン・バクスター)が絡む。

不勉強で知らなかったが、米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』(文春文庫)によると仏教や、キリスト教でもカトリック以外の宗派が行う懺悔は、神仏の前で罪を告白し、赦しを請うのにたいしてカトリックでは、司祭のまえで懺悔をするかたちをとる。厳格に守秘義務が課せられた司祭は神の代理人として信者の告白に耳を傾け、神の名において赦す権限が与えられている。これで、ありがたみも浄化作用も増すわけだ。また同書には「人間てのは、悪いことするとね、それを必ず誰かに言わずにはいられなくなる生き物なんだなあ。黙り通して秘密を墓場まで抱えていくなんて人、オレの担当した事件じゃあ一人もいなかったね。必ず誰か身近な人に話してるもんなんだ」という刑事の言葉がある。

カトリックが創出した告解は人間の本性に根ざしたものと知ったが、懺悔中に聴いたことは他言してはならないという戒律に犯罪が絡むとたちまち正義のあり方が問われる。「私は告白する」はこの特異な状況のなかでのサスペンス劇で、わたしは好みなのだが、重くるしく深刻な作品となるのはまぬがれなかった。そしてこの点にヒッチコックの不満はあった。ヒッチコック、トリュフォー『映画術』のなかでヒッチコックは「『サイコ』のように物語は重苦しくても、語り口は軽快で、アイロニーというワサビをたっぷりきかせるというのが、わたしのやりかただからね」と語っていて、ここにかれが求めたドラマツルギーがくっきりと見て取れる。

X日

ヒッチコック総ざらえ。つづいては「知りすぎていた男」(1956年)である。イギリス時代の「暗殺者の家」(1934年)をセルフリメイクした名作(原題はともにThe Man Who Knew Too Much)であり、ヒロインのドリス・デイの歌った「ケ・セラ・セラ」は大ヒットし、わが国では雪村いづみやペギー葉山らによるカヴァーの競作で話題を呼んだ。

五回か六回観た作品だが、今回は視聴と併せて関連書籍を読んでいて、なかの一冊、山田宏一『ヒッチコック映画読本』にこんな記述があった。

ヒッチコックはこの映画のなかで、マラケシュのホテルの新聞雑誌売場に表紙をモナコ王妃の写真で飾った「パリ・マッチ」誌を置いて、ひそかにグレース・ケリーにめくばせをしている、それは彼女への惜別の挨拶のようにも見える、その意味で「『知りすぎていた男』は、さらばグレース・ケリーの映画だった。

一九五六年一月グレース・ケリーはモナコ大公レーニエ三世との婚約を発表、四月に挙式した。そして米国では同年六月一日にこの映画は公開された。

それにしても新聞売場にある雑誌の表紙によく気づくものだ。さっそく見返したところ、はじまって四十二分のところでホテルの新聞雑誌売場が映っている。時間は三秒。「パリ・マッチ」誌に女性が表紙になっているのはわかるが、それがグレース・ケリーかどうかはわが家のテレビ、パソコンでは確認できなかった。フィルムのコマをチェックしたのだろうが、ここを見逃さないのは神技としか言いようがない。

 

東京レガシーハーフ2026

二0二六年十月

一日

東京都心では待望の青空が広がった。ただ、この日も未明に雨が降ったため連続降水日数は三十六日となり、観測史上最長の記録を更新した。それでも日中の日差しはたっぷりで、気温も上がり、さわやかな一日となった。そしてきょうは都民の日、上野動物園の入園料が無料で、自宅から十分ほどあるいて動物園へ行くと、秋晴れのもとたくさんの人出で賑わっていた。一都民としてけっこうな額の税金を払っているから(と、いうほどでもないけれど)十分に動物園を楽しませていただいた。

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四日

味の素スタジアムで開催されたTOKYO ROKUTAI FES 2026に出場した。昨年に引き続いての参加、そしてわたしの今シーズン初レースである。去年は駅伝を、ことしは10㎞走を走った。きょうは自分的にはまずまずのフィニッシュだった。今月はもうひとつ、一週おいて十八日に東京レガシーハーフを走る。

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X日

いま読んでいる米原万里『パンツの面目ふんどしの沽券』に一九四六年生まれの建築家、建築史家藤森照信氏の著書『天下無双の建築学入門』(ちくま新書)から次の箇所が引かれていた。

「昭和二十年代の田舎では、おばあさんが、田んぼのあぜ道の上で、公然と着物の裾をたくし上げて、後ろ向きに立ち小便する姿を見かけることができた。それは田舎の未開な習慣と思って、安心してはいけない。イギリスだかの由緒ある全寮制の女子校では、今でも昔ながらの小の伝統が堅持されているという」。

フーテンの寅さんの「粋な姐ちゃん立ちションベン」は絵空事ではなかった。藤森氏より四歳下、一九五0年生まれのわたしはおばあさんの立ち小便は見たことはない。ただ、井上章一『パンツが見える。』にある以下の記述は実見している。

「戦後の女たちは、しばしばスカートをたくしあげて、ストッキングの位置を修正した。電車のなかでも、脚をひらいたまま着席することがすくなくない。パンツが見られることを、それほどはずかしがっては、いなかった」。

もともと和服にパンツやズロースをはかなかった。当然、強風でまえがはだけて陰部があらわになるおそれはあった。洋装となればパンツやズロースが防いでくれるから危険はなく、スカートをたくしあげてストッキングを直すなどなにほどのことはなかったのである。

下半身だけではない。『パンツの面目ふんどしの沽券』には以下の投書が引かれている。「ちなみに、女たちも子どもに乳を含ませるときには、何の躊躇いもなく人前で乳房をさらしておりました(これは、その後、上の学校にあがるために都会に出てきてからも、街中でしばしば見かける光景でございましたが)」。

わたしも子供のころ電車かバスで母親が赤ちゃんに乳を含ませているのを見たおぼえがある。昭和二十年代後半から三十年代はじめだったとおぼしい。そうした昔語りにわたしもいつしか古老になったみたいである。

おなじころ、母方の祖父母の家の近くに「あんま・マッサージ・ちちもみ」という看板があった。二階建ての家の二階の壁にある大きな看板でよく目立っていた。母親が赤ちゃんに乳を与えている姿はべつに意識しなかったのに「ちちもみ」にはみょうに反応した。文字が小学生のわたしに妖しく迫り、性意識を喚起したらしい。

それから半世紀ほどして島津保次郎監督「隣の八重ちゃん」(1934年)を観た。

女学校の生徒服部八重子(逢初夢子)の家に同級生の真鍋悦子(高杉早苗、両親の自殺幇助で有罪判決を受けた四代目市川猿之助の祖母)が遊びに来ている。たまたま隣の部屋には隣家の帝大生新海恵太郎(大日向傳)が自宅にだれもいなくて入れないからと休ませてもらっている。それを知らない女学生たちはおしゃべりに興じる。制服を脱いで私服に着替えている八重子に悦子が「おっぱいの形とてもいいわ」とほめると八重子は悦子の胸を見て「あなた意外に小さいわね」と応じる。

そして話が一段落して隣の部屋に移ると思いもかけず帝大生がいて、「へんな話してるねえ」と語りかける。

「どうして」

「だって、おちちの話なんか」

「いいじゃないの女同士だから」

「いかんねえ。男性の前で」

「恵太郎さん、近ごろそんなことに敏感ねえ」といったやりとりが続く。若者たちの男女交際が厳しく限られていた時代によくこうした会話をシナリオに書いたものだ。

あの看板、そしてこの映画のシーンともに忘れがたい、おちちの思い出である。

 

X日

前世紀の七十年代はじめ、大学二年のときだったか、有楽町の日本劇場五階にあった日劇ミュージックホールのヌードショーを見に行った。いまはない日本劇場は戦前、李香蘭の歌謡ショーに観客がつめかけ、円形の劇場を七回り半取り巻いたあの日劇である。ミュージックホールについては「平凡パンチ」や「週間プレイボーイ」で知っていたが足を踏み入れるのははじめてだった。そして、華やかなライトを浴びたトップレスのダンサーたちの群舞に、世のなかにこれほど美しい世界があったのかと陶然となった。受験の世界史で知ったミロのヴィーナスやボッティチェリの「春」どころではなかった。美術展やコンサートなどおよそゲージュツとは無縁だった若者の感激は大変なもので、異なる世界を知ったとして過言でない。それから四十年ほどしてパリを旅し、ムーラン・ルージュやリドのショーに行ってみたが日劇のときの感激とはほど遠かった。年齢を重ねて人間が枯れたのか、それともすこしは人間ができたのか。

ムーラン・ルージュといえば一九五九年フランスを訪問したソ連共産党書記長フルシチョフ氏はフランス政府の計らいか、この劇場を訪れてフレンチ・カンカンを観て度肝を抜かれ「スカートの中を見せつけるなんて何と下劣なショーだ。こんなのは、芸術とは無縁である。彼らにボリショイ・バレエを見せてやりたいものだ!!」と憤慨したそうだ。世はさまざまである。

こうしたショービジネスについて『パンツが見える。』の井上章一氏は「レビュー・ガールのズロースは、戦前期から男たちの性感をかきたてていた。しかし、彼女らのはいていたものを、ふつうのズロースと同一視すべきではない。一般人のズロースとは、ぜんぜんちがうものを、彼女らは身につけていた。舞台をいろどるズロースには、それなりの装飾もほどこされている。光りものなどが、そえられたりもしていたのである。そして、そんなズロースだから、男たちの欲望をふくらますこともできたのだ」と述べて、日常生活の下着としてのパンツ、それとは異なるきらびやかなコスチュームとしてのパンツがどのような関係にあるのか、といったことに研究者として分析し、考察を加えている。魅惑のショーにこんな分析や考察をしなければならぬ研究者も因果なものである。

 

十八日

午前中、東京レガシーハーフ2026を走った。この大会はことしで五回目、ありがたいことに五回すべて当選、そうなると大会そのものに愛着が湧いて、日本橋の三越のまえで折り返すのが嬉しく、フィニッシュで国立競技場のトラックを走っていると心踊る。

ことしもスタートして国立を出ると、沿道の観客やボランティアの方から「行ってらっしゃい」、そしてフィニッシュをまえに国立へ入って行こうとすると「お帰りなさい」と声をかけていただいた。おかげさまで今回も快適に完走できました。

来年の東京マラソンは落選だったけれど、そうした声に感謝しながらボランティアに応募しています。

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後期高齢者の老爺は、目標タイムを上回るために自分を鼓舞したり、自己ベストの更新に向けてまなじりを決したり、といった重い状態に陥るのは避けなければならない。思い詰めてもどうにもならない。それよりも、気楽に、すいすい、さらさらと足を運びたい。人生もまた。

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X日

ヒッチコック総ざらえで「私は告白する」を観た。カナダのある教会で働く男が、神父(モンゴメリー・クリフト)に、強盗殺人を犯したと告解する。やがて、その事件の容疑者として神父に嫌疑がかかる。だが、懺悔中に聴いたことは他言してはならない、というカトリックの戒律のため、神父は真犯人の名を明かすことができない。これにかれが神父になるまえ愛した女性(アン・バクスター)が絡む。

不勉強で知らなかったが、米原万里『ガセネッタ&シモネッタ』(文春文庫)によると仏教や、キリスト教でもカトリック以外の宗派が行う懺悔は、神仏の前で罪を告白し、赦しを請うのにたいしてカトリックでは、司祭のまえで懺悔をするかたちをとる。厳格に守秘義務が課せられた司祭は神の代理人として信者の告白に耳を傾け、神の名において赦す権限が与えられている。これで、ありがたみも浄化作用も増すわけだ。また同書には「人間てのは、悪いことするとね、それを必ず誰かに言わずにはいられなくなる生き物なんだなあ。黙り通して秘密を墓場まで抱えていくなんて人、オレの担当した事件じゃあ一人もいなかったね。必ず誰か身近な人に話してるもんなんだ」という刑事の言葉がある。

カトリックが創出した告解は人間の本性に根ざしたものと知ったが、懺悔中に聴いたことは他言してはならないという戒律に犯罪が絡むとたちまち正義のあり方が問われる。「私は告白する」はこの特異な状況のなかでのサスペンス劇で、わたしは好みなのだが、重くるしく深刻な作品となるのはまぬがれなかった。そしてこの点にヒッチコックの不満はあった。ヒッチコック、トリュフォー『映画術』のなかでヒッチコックは「『サイコ』のように物語は重苦しくても、語り口は軽快で、アイロニーというワサビをたっぷりきかせるというのが、わたしのやりかただからね」と語っていて、ここにかれが求めたドラマツルギーがくっきりと見て取れる。

 

X日

ヒッチコック総ざらえ。つづいては「知りすぎていた男」(1956年)である。イギリス時代の「暗殺者の家」(1934年)をセルフリメイクした名作(原題はともにThe Man Who Knew Too Much)であり、ヒロインのドリス・デイの歌った「ケ・セラ・セラ」は大ヒットし、わが国では雪村いづみやペギー葉山らによるカヴァーの競作で話題を呼んだ。

五回か六回観た作品だが、今回は視聴と併せて関連書籍を読んでいて、なかの一冊、山田宏一『ヒッチコック映画読本』にこんな記述があった。

ヒッチコックはこの映画のなかで、マラケシュのホテルの新聞雑誌売場に表紙をモナコ王妃の写真で飾った「パリ・マッチ」誌を置いて、ひそかにグレース・ケリーにめくばせをしている、それは彼女への惜別の挨拶のようにも見える、その意味で「『知りすぎていた男』は、さらばグレース・ケリーの映画だった。

一九五六年一月グレース・ケリーはモナコ大公レーニエ三世との婚約を発表、四月に挙式した。そして米国では同年六月一日にこの映画は公開された。

それにしても新聞売場にある雑誌の表紙によく気づくものだ。さっそく見返したところ、はじまって四十二分のところでホテルの新聞雑誌売場が映っている。時間は三秒。「パリ・マッチ」誌に女性が表紙になっているのはわかるが、それがグレース・ケリーかどうかはわが家のテレビ、パソコンでは確認できなかった。フィルムのコマをチェックしたのだろうが、ここを見逃さないのは神技としか言いようがない。

 

「赤い靴のタンゴ」

バレエの主演に抜擢され一躍スターとなった若きバレリーナが恋愛とバレエとの板挟みとなり、苦しんだ果てに悲劇的な最期を迎えるまでを描いたイギリス映画「赤い靴」は一九四八年に公開され(日本では一九五0年)、高い評価を得るとともに、主演のモイラ・シアラーを世界に知らしめた。

海野弘「『赤い靴』のミラージ」(『映画は千の目をもつ』所収)によると、この映画が公開された一九四八年はバレエの歴史において、それまでの種子が花開いたという意味でエポックメーキングな時期にあたっていた。

ロシア・バレエ団とも呼ばれるバレエ・リュスがパリのシャトレ座で旗揚げ公演をおこなったのは一九0九年、以後、伝説的なダンサー、ニジンスキーやレオン・バクストの華麗な装置がヨーロッパのファンをとりこにした。

団を主宰したのはロシア出身のプロデューサー、セルゲイ・ディアギレフで、一九二九年その死去により団は解散したが、一九二0年代、三0年代はバレエといえばバレエ・リュスを指すまでになっていた。こうして築かれたモダンバレエの基礎が第二次世界大戦後の一九四八年に花開き、またその年はバレエ映画の傑作「赤い靴」が公開された年ともなったのだった。

この世界の潮流が日本に及んだとき、映画の公開を記念した曲がつくられた。「赤い靴のタンゴ」(作詞:西条八十、作曲:古賀政男)で、奈良光江が歌ってヒットした。

「誰がはかせた赤い靴よ、涙知らない乙女なのに、はいた夜から切なく芽生えた恋の心」と切々と歌う美貌の歌手とともに、その曲は忘れがたいものとなった。

YouTubeに寄せられた奈良光江についてのコメントに「儚げに揺れる歌唱と、気品溢れる美しい立ち姿に驚愕しましたね。この歌手は一体誰?と」「当時、二十歳直前の元気のいいやんちゃ坊主を黙らせるほど美しかった。清楚と純潔と言う言葉はこの貴婦人のたたずまいから生まれた言葉と初めて学びました」とあったが、中学生だったわたしもおなじ気持でブラウン管に目を凝らしていたのだった。

これまで舞台で演じられるバレエとご縁はなかったけれど(おそらく今後も)、「愛と哀しみのボレロ」「ブラック・スワン」「ホワイトナイツ/白夜」などバレエを扱った映画は少数ながら見ていて、これは「赤い靴のタンゴ」がつないでくれたご縁と感謝している。

「赤い靴のタンゴ」のヒットから三年後の一九五三年、五所平之助監督の名作「煙突の見える場所」が公開されていて、この映画に、高峰秀子が勤め帰りに鯛焼きを買って、廊下を隔てた部屋の間借り人である芥川比呂志とともに食べるシーンがあり、ここでラジオから「赤い靴のタンゴ」が流れている。

こちらは奈良光枝のオリジナル・ヴァージョンではなく、早川真平とオルケスタ・テイピカ東京によるインスツゥルメンタル・ヴァージョン。古賀政男による和風というか歌謡曲ふうタンゴが、タンゴ専門のバンドによりヨーロッパふうにアレンジされている。もし興味あれば御一聴してみてください。和製コンチネンタル・タンゴの名演だと思います。

 

 

 

講演あれこれ

これまで聴いた講演のなかでとりわけ印象深かったのは吉川幸次郎と堺屋太一、おふたりの話だった。前者は一九七十年代半ばだったと記憶する。杜甫の五言古詩「衛八処士に贈る」について読みと意味、詩の背景などについてわかりやすく説いた内容で、聴くうちに碩学という言葉を思い浮かべた。後者はおなじく八十年代後半のことで、当時の経済状況を踏まえ、小さな政府、規制緩和、官僚主義の排除などについてはっきりと、そしてたのしく語った内容だった。たのしく語ったというのは、話の運びと語りの上手さで、これほど話のじょうずな人はほかに知らないとして過言ではない。

授業、講義、講演について、手っ取り早くは落語や漫才の話芸で以て知的におもしろい話をすればよい、とはいわれるが、でもねえ。かならずしも勉学意欲の高くない生徒、学生におもしろく授業を受けさせるのがプロであるという正論は否定しがたいが、さりながら先生は話芸のプロではない。

でも世間は広いものです。丸谷才一『ゴシップ的日本語論』(2004年文藝春秋)に、丸谷氏と哲学者の木田元氏、評論家の三浦雅士氏による鼎談が収められていて、なかで中央大学で哲学を教えていた斉藤信治という先生のことが話題になっていた。本書刊行時すでに故人になられていたが、この先生がまさに落語や漫才の話芸で以て知的におもしろい講義をしていたそうだ。中央大学はもともと神田駿河台を本拠としていたが、昭和五十年代はじめに八王子に移転した。いままた駿河台にもキャンパスを設けている。その中央大学が八王子へ移転するまえ、神田駿河台にあったころ近所の床屋や洗濯屋のおやじが先生の講義を聴きにきて教室のうしろのほうでうっとりして聴いていたというからすごい。間の取り方なんかは古今亭志ん生のテープを聴いて研究していたという。

そこで大学で同僚だった木田先生の記憶にある斉藤先生の講義のさわりを紹介してみましょう。木田先生がどうして紹介できるかといえば、斉藤先生の講義をしばしば盗み聞きしていたからなんです。

「ソクラテスは、月謝をとってものを教えてはいけないと言った。しかし、私は中央大学から給料をもらって哲学を教えている。これで哲学者と言えるでしょうか」。

しばらく間を取り「ま、気にするほどもらっていない」。

勉強の人

文字なんか大嫌い、島田虎之助先生について剣術修行はしたが、学問に関しては何一つ修行したことはない、と言ったのは勝海舟、人間には限りがあるからあまり多く読書や学問に力を入れすぎると実務のほうは疎くなるとも。

彼にとって学問は、横に寝て自分の行動のあれこれを歴史上の人物の例に照らして比較し、じっくりとよい点や反省すべきことがらを考えてみることだった。はじめに本を読むのではなくまず横になって寝ることから出発する。寝る間も惜しんで勉強したい学者とはちがう特異な勉強の人だった。どちらがよいとは言えないのだが、念のため自戒しておくと、横になって寝るといっても自身の行動を歴史上の実例に照らして考えているのだからその実例を知るほどの学力がなければたんに寝るだけになる。

江戸城受け渡しは勝と西郷隆盛の談判の結果平和裡におこなわれたが、勝によれば受け渡し式で西郷は居眠りをして船を漕いでいたそうで、それを勝は美談であると評価する。そうした人が何事も過ぎてはいけないだとかバランスを考えよとかの常識論を主張するはずがない。だいいち彼の所論だってずいぶんとバランスを失している。おそらく人間には限りがある云々の言葉は勉強するのなら実務に疎くなるほどまでにやるべきだと解釈してよいのではないか。

それでは読書や学問に力を入れすぎて実務に疎くなった人にはどんな方がいらっしゃるか。管見の及ぶところで御紹介申し上げると、たとえば明治のなんとかという学者は研究に没頭しているうちに日露戦争があったことも知らなかった由。あるいは英文学者で東大教授だった西川正身先生は、海外出張のあいだに新居なって奥様が引っ越しをし、帰国した先生を空港へ迎えてタクシーで帰ったところ先生はすぐに書斎に入る、奥様は慮んばかって本の並びは旧居とすべておなじにしてあったので何日も転居に気付かなかったとか。

極めつけに明治大正期の英語教育、研究の偉人斉藤秀三郎という徹底した勉強の人を挙げておこう。この人、見出し語五万、例文十二万、四千六百四十頁という膨大な「和英大辞典」を独りで創り上げた。生涯に電話に出たのは、政府から叙勲の知らせがあるというときの一度だけ、それ以外は出なかったという。死後衣服を入れておく箱にいっぱいの未開封の手紙が出てきた。電話に出たり、封を切って読んでいては勉強にさしつかえるからである。 

のんきなはなし

名利を求めず、品性高雅な人と幸田露伴が評した、明治の文人淡島寒月は、ある日長男の登校する姿を見て、「智蔵さん、今日は洋服が異ってるね」と笑った。

第一高等学校の服を着た長男であったが、そのときは中学を卒業して三カ月も経っていたのだった。

ある高校の先生が一夜、仲のよい友人たちと酒をやりとりしながら歓談におよんだ。親しみやすい居酒屋で、気のおけない者どうし、盛り上がり、酒量も上がった。一段落したところでつぎはカラオケのあるスナックへ行こうと勘定を支払って出口へと向かったところ、反対側から若者がやって来た。すると若者のひとりがこの先生に「今晩わ」とあいさつしたのだった。二十年ちかく教員をしてきた先生に、若者がだれなのかとっさには思い出せなくても無理はない。先生は、きっと教え子にちがいないと瞬時に判断して「よっ」とかいって、右手を、敬礼を崩したように、指先が耳のちょっと上にくるくらいに上げた。むかし、田中角栄氏がよくしていた挨拶といえば、一定の年齢以上の人にはわかってもらえるでしょう。

先生は二次会のスナックの椅子に座ったその瞬間に、さきほどの若者がだれなのかがわかった。いま現在自身が担任をしているホームの生徒であったのだ。生徒は居酒屋に出入りしているのが見つかって、どうしてよいやらとまどいながら担任の先生にあいさつをしたのであろう。人づてに聞いたはなしだからそのあとどうしたかは知らない。ほろ酔い気分とはいえのんきな先生もいたものである。

もうひとつ。大学を卒業して、地元の企業に就職したばかりの若者が、街なかで、おぼろげながら見覚えのある方に出会った。やりすごそうと思ったが、間が悪く、視線が会ったから、若者はその人に近寄って話しかけた。「たしか、某々高校の先生でしたよね」。それにたいしどんなふうに応じたかは知らない。その人はたしかにその高校の先生だった。しかも、その若者が高校三年生のときのホーム担任であった。

さきの挿話とこの先生がおなじ人物だったら、この師にして、この教え子ありとなるが、はたしてどうか。もっともわたしは批難するためにこれらのはなしを書いたのではない。それどころか浮世離れのしたこの種のエピソードが好きだから書き留めておきたかったのである。 

のびのび大相撲(二)

双葉山が六十九連勝したのは昭和十一年一月場所から昭和十四年一月場所四日目にかけてのことだった。このころ幕内力士の半数は出羽一門が占めていて、出羽海系にあらざれば力士にあらずといわれるほど羽振りをきかしていた。そこへ小部屋である立浪部屋の双葉山がどんどん勝ち続ける。もちろん出羽海一門としては沽券にかかわる一大事で、安閑としていられない。出羽海部屋では早稲田大学出身の笠置山を中心に双葉山攻略作戦がねられ、笠置山は当時の総合雑誌「改造」に「双葉山攻略の手口」という論文?を発表したほどに力を入れたが残念ながら勝てなかった。それにしても対戦する部屋の力士が最強横綱攻略法を雑誌に掲載したこの一事、いまそんなことをしたなら協会から大目玉を喰らうんじゃないかなあ。といったしだいでむかしののびやかな角界のエピソードを永井荷風「毎月見聞録」から拾ってみよう。

大正六年一月十五日初場所四日目、宇都宮対千葉ヶ崎、千葉ヶ崎の勝ち。行司軍配を千葉に上げ、勝負検査役からも物言いはなし。ところが控力士の両国が強引に割り込んできて、勝負預かりにしようとした。行司、検査役だーれも取り合わず、観客もあまりにばかばかしい光景を見かねかねており、ついには両国面目を潰して引き下がったという。当時は控力士も物言いありだったのか。このころ応援風景に野球の影響があらわれたようで、学生が一団となってフレエ、フレエ、フレエ宇都宮といった声援が飛び交いだしたとして「毎月見聞録」には「喧噪甚だし。これも国技館に於ける迷惑の一つなり。いづれは落第生になるべきか」と嫌味が書き付けられている。

おなじころ太刀山という剛の力士がいて、贔屓客は安心して声援を送る必要はないと思うほど強かったらしい。進取の精神旺盛な力士でアメリカのボクサーが力士と試合を望んでいると聞くとさっそく応じようと渡米を決意した。「毎月見聞録」大正六年二月十六日の記事には「太刀山一行亜米利加へ渡り彼地の拳闘家と試合致す由なり」とある。はたして太刀山御一行は渡米してボクサーと一戦あいまみえたのか、だとすればどのようなルールで戦ったのか、その結果はどうだったのか、あるいはよんどころない事情で対戦に到らなかったのか、「毎月見聞録」には記載がなく、手許の資料にもあたってみたけれどはっきりしないので宿題としておくが、それにしてもこうした太刀山の積極果敢を相撲協会は黙認していたのか、ひょっとして大正デモクラシーの影響が角界にも及んでいたのじゃないかしらと愚考したりもする。

補遺

うえの稿を書いたあとたまたま井上章一『ふんどしニッポン 下着をめぐる魂の風俗史』(朝日新書2022年)を読んでいると、以下の記述があった。具体の年は書いていないが、二十世紀のはじめのことであった。

「大相撲の海外巡業では、力士の尻をかくさせたことがあった。欧米の観客は、大きな尻が廻しからはみだす光景を、見ぐるしく感じる。ひところは、その点へ気をつかい、力士にレスラーパンツを、まずはかせた。そして、廻しを、褌の一種だが、パンツの上からしめさせたこともある。」