寺門静軒 おぼえがき

寺門静軒『江戸繁盛記』は天保初年の江戸風俗、世態人情を漢文戯作の文体で活写した名著として知られる。「相撲」「戯場」(しばい)「千人会」(とみくじ)「楊花」(おんなだゆう)「混堂」(ゆや)などをユーモラスな漢文で綴ってベストセラーとなった。

静軒は寛政八年(一七九六年)水戸藩大吟味方勤、寺門弥八郎勝春の次男として江戸小石川水戸藩邸内に生まれたが、本妻の子ではなかったため仕官は叶わず、やむなく細々と私塾で教えていた。しかし、それでは妻子を養うことすらできず、洛陽の紙価を高めるべく文筆をめざして成ったのが『江戸繁盛記』だった。

本書について静軒は「稗史本の翻訳なり」と述べていて、市中の風俗、雑踏の世界が「翻訳」すなわち漢文で綴られ、焼き直されたことで独特の諧謔と滑稽味が生まれた。

しかし、この時代、漢文は知識人を象徴するものだったからインテリ官僚からの弾圧は避けられず、大学頭林述斎は「当世市中の風俗俚言を漢文に綴り、敗俗の書にて候間」として絶板を勧告した。大学頭は昌平坂学問所のトップ、また幕府の政治顧問でもある、その高官が、漢文戯作はインテリ官僚ひいては武家を茶化すものと断じたのだった。

繁盛する古着市にことよせて静軒はいう「権家ノ門前、人ノ市ヲ為ス者、予、之ヲ謂ヒテ士市ト曰フ。此ノ市、最モ繁盛す」と。就職、昇進をもとめて旗本、御家人が押し寄せる権門の屋敷は古着市を上回る賑わい、いちばんの繁盛は武士の市(士市)だった。

『江戸繁盛記』により江戸追放処分となった静軒は以後自らを「無用の人」と称し、越後や北関東を放浪したのち武蔵国妻沼(現在の埼玉県熊谷市)で私塾を開いて晩年を過ごし、慶応四年(一八六八年)三月二十四日に歿した。明治改元は同年九月八日である。(いずれも旧暦の日付)

しかし静軒の筆致を学ぶ者は明治となっても絶えず、永井荷風は「服部撫松は柳巷新史を著し、松本萬年は新橋雑記をつくり、三木愛花に及んで此の種の艶史は遂に終を告げた」と述べている。(「申訳」)

その荷風が、静軒の確立したユーモアと茶化しの漢文体を継承する。

下谷叢話』には荷風の母方の祖父で尾張藩儒者だった鷲津毅堂が弘化三年九月に駒込吉祥寺在の友人長谷川昆溪宅を訪ねたところ、そこへ寺門静軒がやって来たことが述べられている。荷風は静軒の生涯を略述したうえで「静軒は滑稽諧謔の才あるに任せ動もすれば好んで淫猥の文字を弄んだが、しかし其の詩賦には風韻極めて誦すべきものが多い」と評価している。

荷風が『断腸亭日乗』に漢文体を採用したのも『江戸繁盛記』の著者が穿った漢文の機微とともにうえの評価も作用していたと考えられる。

「午ちかく起出で近隣の洗湯に浴す、女湯には妓輩の笑語既にかしましく聞こえしが、男湯には文身の男ニ三人を見るのみ。今晩五時頃神楽坂芸者家町に火事ありし由語り合へり。(中略)朝湯に仕事師の語り合へるを見れば今も猶三馬が戯作静軒が繁盛記など思返さるゝなり」(『断腸亭日乗』昭和三年三月二十八日)

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佐藤雅美『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』(講談社文庫)によると、静軒は一時期、谷中、三浦坂にある破れ長屋の一部屋を借り、克己塾と名付けた学塾を開いていた。門弟は寥々たるもので、入門を願うのはよほどの変わり者だった。

三浦坂は自宅に近く、毎度ジョギングの際にはここを駆け下りる。谷中は坂の多い町だが、なかでこの坂はわたしのいちばんのお気に入りだ。江戸の繁盛とは別の閑静なところで、静軒がこの界隈に住んでいたと知るとやはり嬉しい。

『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』には「三浦坂というのは、片側に二万三千石作州勝山三浦兵庫頭の下屋敷があるところからつけられた俗称で、坂の両側には武家屋敷、寺院、幕府の小役人の屋敷が並んでいる。ここもまた竹やぶや杉の老木に囲まれた昼なお寂しい江戸の外れ」とあり、静軒宅は坂の途中の寺の軒先を借りるように建てられていた。

三浦坂は三崎坂と善光寺坂の中間に位置しており中坂とも呼ばれる。佐藤雅美氏が「俗称」としたのは中坂を本来の呼称としたのであろう。現在の区画でいうと台東区に属し、坂を下りると文京区根津二丁目となる。

羽仁進監督、寺山修司がシナリオを担当した「初恋地獄篇」は初恋という甘い言葉の裏に秘められた主人公の青年の地獄篇的心象風景がしばしば上野界隈のロケとともに描かれていて三浦坂を下る青年の姿も撮られている。

寺門静軒の貧しい生活も、ロケを通して青年の初恋の地獄もみてきた三浦坂である。

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「井戸の茶碗」と「寝床」によせて

ちょいとめでたいことがあったので、晩酌をしながらひさしぶりに古今亭志ん朝さんの「井戸の茶碗」を聴いた。ふと思いついて手許の電子辞書で「井戸の茶碗」を引いたところ、さほど期待してなかったのに「井戸茶碗」が「広辞苑」と「マイペディア」「日本史大事典」に立項されていた。

たとえば「広辞苑」には「朝鮮産の抹茶茶碗の一種で、日本には室町末〜桃山期に入った。古来茶人に尊重され、最高のものとされる。名称の起源は地名説、将来者名説などがある。いど。」とあり、「井戸の茶碗」には出自にまつわるモデルがあったと知れた。こんなことをいまごろ知るようでは落語ファンとはいえない。

ご承知のように「井戸の茶碗」は裏長屋に住む浪人千代田卜斎、細川家家臣で江戸勤番の若い武士高木佐久左衛門、「正直清兵衛」と呼ばれたくず屋の清兵衛を主な登場人物として、これら三人の曲がったことが大嫌いな人たちが繰り広げる爽やかでおめでたい噺であり、茶碗とおなじくかれらにもモデルがあり、もとになったエピソードがあったのかもしれない。

古典落語を地でゆく話といえば薄田泣菫『茶話』に収める「涙と汗の音曲」にこんな話題があった。

洋画家の満谷国四郎(みつたにくにしろう1874-1936)は謡曲に夢中になり、アトリエで裸体画のデッサンを描く際にも小声で謡い出すまでになった。この人がおなじ画家仲間の児島虎次郎(1881-1929)を訪ねたとき、謡曲の押売りを警戒した児島は、奥で子供を寝かしてあるからというのを口実にようやく難を逃れた。

また京都で月に一度、琵琶法師の藤村性禅(ふじむらせいぜん1853-1911)を中心に、琵琶の伴奏で平家物語を語る平曲の好きな者の集まりが行われていた。もとより大規模な催しではなく、聴き手はいつも十人そこそこだったが、はじめの一、二段を聴くといつのまにかこそこそ逃げ出して、藤村検校の平家琵琶のときには聴き手がいなくなっていたいことも一再ならずあり、これではいけないと、最後まで聴いてくれた人には名入りの短冊とか茶菓子を景品に贈ることにしたが、それでも最後まで残る人はすくなかった。おそらく師の藤村性禅のほかは旦那芸クラスだったのだろう。

芸の押し売りはまことに難儀で、落語の寝床では、長屋の家主でもある大家の旦那が義太夫に凝って、毎度聴くに堪えない素人芸を披露して店の者や長屋連中を困らせていた。他人事ではない。このブログだって賑やかしにもならない老爺のなぐさみにほかならない。

徒然草』百五十一段は「ある人のいはく、歳五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし」(五十歳になっても上手になれないような芸事はさっさとやめるべきだ。懸命になって学ぼうとしても先行き時間はない)、そして老人のやることは下手でも笑うわけにはゆかず、それをよいことに大勢のなかにまじってひとりよがりの芸を披露するのは不都合であり見苦しいとつづく。

しかし『徒然草』の教訓が活かされないところに「寝床」という噺が生まれたわけで、世のなか何がさいわいするかわからない。「下手があるので上手が知れる」のであれば下手もあってよいのかもしれない。兼好法師は芸事を習ってみたいなんて気を起こさないのがいちばんよいといっているが、このブログも含めなかなか難しい。

せっかく『茶話』を話題にしたから、わたしの好きな逸話を紹介しておきたい。

「むかし今津に米屋世右衛門といふ男が居た。富豪(かねもち)の家に生れたが、学問が好きで、色々の書物を貪り読んだ。珍しい働き手で、酒男(さかおとこ)と一緒に倉に入つてせつせと稼いだから身代は太る一方だつたが、太るだけの物は道修繕、橋普請に費やして少しも惜しまなかつた。亡くなつた時には方々の人がやつて来て声を立てて泣いた。なかに一人知恵の足りない婆さんが交じつてゐて、おろおろ声で『これ程学問してさへこんな好いお方だつたから、もしか学問などしなかつたらどんなにか立派な人だつたらうに。』と言つたさうだ。/婆めなかなか皮肉な事を言ひおるわい。」。

元ネタは伴蒿蹊『近世畸人伝』にある。婆さんの目に米屋世右衛門の学問は旦那芸に映っていたのかもしれない。

 

附記

『茶話』はむかし富山房百科文庫で読んだが手放してしまった。ところが先日電子本の書目を眺めていると『薄田泣菫茶話全集』があり懐かしくてもう一度購入した。初出通り歴史的仮名遣いで、校閲もよくなされていると思った。

著作権の切れた作品をネット上に公開してくれている青空文庫のおかげでずいぶんお安く、下流年金生活者として感謝のほかなかった。

以下不粋なことながら、青空文庫の事業は本来なら国の読書推進事業の一環として位置づけられなければならない。学術会議のメンバーに難癖つけるひまがあるなら、こうした事業をまずは推進すべきである。

足取りも、心も軽く

最近Amazon musicの仕様が変わって、聞いてみたいアルバムをチョイスするとシャッフルで二、三曲は再生されるが、つぎにはおなじジャンルのおすすめ曲なるものが流れる。つまりアルバム順に一気通貫で鑑賞できない。まあ賛否あるだろうが、わたしには大きなお世話である。いままでのように聴きたければワンランクアップして課金に応じよという魂胆がいやらしい。

そこで十数年前に購入して、Amazon musicの利用とともにほとんど使わなくなっていたiPod を取り出してきて再利用をはじめた。五千曲近くあり、 好きな楽曲はすべてといってよいほど入っている。どちらかといえば断捨離派だが、この機器は置いておいてよかった。

山口百恵が引退したころからあとの日本の楽曲はほとんど知らず、欧米の曲はもう少し知っているがまあ似たようなものだ。もっぱら親しむのは若い人からすれば懐メロとジャズのスタンダードナンバーで、そこから先、手を伸ばす余裕はない。

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渡辺徹さんの訃報を知った。命日十一月二十八日、享年六十一。ニュースのあと先日観た映画の原作、平野啓一郎『ある男』を読んでいると、主人公で三十八歳の弁護士、城戸章良が同期の司法修習生だった弁護士の死に「生き足りないまま死んだ若い人間の通夜は、大往生の老人の通夜とはまったく違って、身に堪えた」と感慨を漏らしていた。

里見弴(1888~1983)は晩年「もう飽きちゃったよ」といっていたそうだ。いささかの本音も混じっていたのだろうか、あるいは周囲を楽しませる諧謔だったかはともかく、羨ましい話であり「生き足りないまま死んだ若い人」の無念が余計に偲ばれて、あらためて渡辺さんのご冥福を祈った。

「自分の人生の時間がこんなに短いことに気づいているいまは、それを重みの点で引き伸ばしたいと思っている。人生が逃げ去る素早さを、私がそれを摑む素早さで引き止め、人生の流れ去る慌ただしさを、人生を生きるたくましさで補いたいと思っている」

 若い方の訃報に接したとき思い浮かぶモンテーニュの言葉である。

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十二月六日、中国外務省は会見で「日本の防衛予算は十年連続で増加している」と指摘したうえで「地域の緊張を煽り非常に危険だ」と批判した。 また、日本に対して「平和の道を堅持できるか強い疑問を持たざるを得ない」と述べ、侵略の歴史を例に挙げて「軍事領域で言動を慎むべきだ」と強調した。

わたしは日中戦争は日本の侵略であり、深甚なる反省をしなければならないと考えるが、しかしそうした感情につけ込んで歴史問題を持ち出し「軍事領域で言動を慎むべきだ」などと批判される筋合はない。あえていえばいま現在の日本の国益日中戦争が絡む余地はない。問題は中国の軍事戦略とそれへの対応なのだ。

八月に中国の弾道ミサイル五発が日本のEEZ排他的経済水域)に落下したのは記憶に新しいが、政府与党のなかで公明党がこれを威圧的や脅威とかとする文言を国家安保戦略など公文書に明記するのは好ましくないと反対していると報道があった。どれほど中国が地域の緊張を煽り、危険度を高めているかを政府与党が明確にしないなら、野党が発出すべきではないか。

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十二月十日。サッカーW杯の情報をすべて遮断してクロアチアvsブラジルの録画をみた。両国とも応援する義理はないが数年前にクロアチアを旅行したときの印象がとてもよく、判官贔屓もあって、心はバルカン半島の国に傾いた。それにしても凄い試合だった。延長戦の後半、一点リードのブラジルにクロアチアが追いついたときは思わず大声をあげた。写真はクロアチア旅行の際に買ったシャツ。わたしが持つ唯一のサッカーシャツだ。クロアチアが勝ち進めば着ようと思っていたところ、日本が同国と対戦すると決まって、着るのを遠慮していた。きょうから日本チームを讃えつつ、クロアチアの準決勝に向けて着ることとしよう。

優勝すればご祝儀に旅行したいな。そういえば前回のW杯のときも、クロアチアがフランスとの決勝戦に勝てば、パリからザグレブ空港へ飛ぼうかなんて考えていた。そうそう海外旅行といえば今回アフリカ勢としてはじめてベスト4に進出したモロッコも大好きな国で、クロアチアvsモロッコの対戦が実現すればうれしいけど、どちらを応援しようか、悩ましい。

クロアチア、モロッコはともに決勝に進めなかった結果、三位決定戦で対戦は実現した。優勝アルゼンチン、準優勝フランス、三位クロアチア、四位モロッコ

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過日NHKBSプレミアムが放送した日中国交回復五十年特集「日中二千年戦火をこえて」は見応えあるドキュメンタリーだった。持統天皇則天武后にさかのぼって日中関係をたどった前編「知られざる修復のシナリオ」。後編「周恩来の決断“民を以て官を促す“」いずれも優れものだったが、とくに後編はわたしの大学生のころと重なっていて興味津々と懐かしさから再見に及んだ。 

ここでは周恩来の対日戦略が詳しく検討されていて、中日友好の大義とともに毛沢東大躍進政策文革による経済面でのダメージを手当てする意図が強調されていた。具体に推進したのは周恩来配下の中日友好協会会長廖承志をはじめとする「日本組」の人々だった。

一九七六年三月、国交回復後ではあったがまだ自由旅行ができないなかペーペーの社会人のわたしはやりくり算段し訪中した。はじめての海外旅行だった。一月に周恩来総理が亡くなり、鄧小平は政治舞台に復活していたがその地位は安泰ではなかった。

放送に先立って知らせてくれた方がいて、このお知らせがなければ見逃すところだった。二度目を見てようやく礼状を送った。

《先日はNHK日中関係番組の紹介ありがとうございます。とくに周恩来をメインにした後編は優れた番組であるとともにわたしには懐かしさもひとしおで、本日二度目を見たところです。

半世紀前は大学の政治学科で中国政治と中国語に強い関心をもっていて、早く中国を訪れたいと願っていました。周恩来総理が亡くなった直後の一九七六年三月、まだ自由旅行ができないころ、伝手あってある訪中団に参加させていただき、はじめて訪中しました。番組にも紹介されていた周恩来総理の下のいわゆる日本組のひとり孫平化先生が北京空港に出迎えてくださり、廖承志先生による北京ダッグの店での招宴がありました。

当時の台湾は政治的には野蛮な状態にありましたが、いまから振り返ると、もっと台湾の運命を突き詰めて考えるべきだったと思います。

NetflixAmazon Prime Videoに親しむことの多いわたしにとっては久しぶりにずしんと来る硬派の番組でした。お知らせ、ありがとうございました。取り急ぎの御礼です。》

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池田弥三郎『私の食物誌』(新潮文庫)によると折口信夫は炭酸水が好きだった。

「山路来て、おもかげさびし。たぎたつ瀬の泡くちひびく、炭酸水のいろ」

一首は山中の急流の水のわきかえるのをみて、くちびるを刺激する炭酸水を連想している。炭酸水がよまれた短歌ってめずらしいのじゃないかな。わたしはこれがはじめて。

俳句のほうはどうだろうと『角川合本俳句歳時記』をみたところ、炭酸水ではなく、ソーダ水で出ていた。ただ、わたしの語感ではソーダ水は種々のシロップが加えられたもので、プレーンソーダのイメージは弱い。関連してサイダー、ラムネが立項されていた。「一生の楽しきころのソーダ水」富安風生

「空港のかかる別れのソーダ水」成瀬櫻桃子

前者はシロップ入りだろう。

後者は無味の炭酸水で、シロップを加えて緑や赤になっていたのでは興ざめである。

「ストローを色かけのぼるソーダ水」本井英。

よい句だと思うけれど、わたしが好きなのは色のないフツーの炭酸水。折口信夫もそうだった気がする。

昨夏あまりの暑さにうんざりしていたところ、ネットで炭酸水用の水筒があると知りさっそく購入したけれど、これまで外出で使用したのは数回しかなく、どうやら早まったみたい。環境問題に配慮してスターバックスにはタンブラーを携行したいけれど、バッグが膨らむのがいやで、そこで折り畳みのタンブラーがあればよいのにと思った。もしかしてとGoogleで折り畳みタンブラーと打つと、ありました。びっくり。通販で注文しようとしたが炭酸水用水筒の二の舞になってはいけないので何とか踏みとどまっている。

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ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ」はブロードウェイの父と呼ばれたジョージ・M・コーハンの生涯を描き、合衆国讃歌を奏でたミュージカル映画。米国では一九四二年に公開されているが、日本では一九八六年になってようやく公開された。当時、たまたま出張先の大阪で本作と「キス・ミー・ケイト」を観られたのはさいわいだった。

それまでギャング役のイメージしかなかったジェームズ・キャグニーだが、ボードビリアン出身だからコーハン役に不思議はない。

そのキャグニー主演の西部劇を二作品「追われる男」(1955年)と「オクラホマ・キッド」(1940年)をNHKBSPが放送した。これででキャグニーはウェスタンも演じていたと知った。とくに後者はハンフリー・ボガートが敵役で、その部下にフォード一家の定連だったウォード・ボンドがいて、おっ!

ウォード・ボンドを知ったのはTVドラマ「幌馬車隊」で、わたしは小学校の低学年、そのころわが家にテレビがやってきた。主題歌に「隊長アダムズの指揮のもと、ときには憎み、また愛し合う」とあり、このアダムズ隊長がウォード・ボンドだった。

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英語学習テキストOXFORD BOOKWORMSの最終段階Stage6に入った。目次順に進むこととしてまずはジェイムス・ジョイスの短篇集『ダブリン市民』。丸谷才一他訳『ユリシーズ』に二回挑戦して挫折したわたしはジョイスと聞くとやはり緊張したが、なんとか最後に配された名作「死者たち」にたどりついた。それにしても

I have a crow to pluck with you.

毛を毟るとかカラスって?それが「あたしはあんたにちょっと絡みたいことがるのよ」(安藤一郎訳)だったとは!

I didn’t  think you were a West Briton.

なんだ、これは。調べてみるとWest Britonはアイルランドの侮蔑語、西ブリトン人、すなわち英国人に同調的なアイルランド人。イングランドアイルランドの関係がわからないと理解しづらい。なお「死者たち」はジョン・ヒューストン監督で映画化されていて(未見)、これが同監督の遺作となった。

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まもなく山羊座の季節を迎える。西洋占星術では十二月二十二日から一月十九日までが山羊座の時期である。凄いよこのシトは、黄道十二星座がすべて頭に入っているんだから、なんて思わないでください(誰も思わないか)。いえね、フィリップ・アリンガム「星占いからみた酒の飲み方ー星酔学入門」なる戯文を読んだばかりなんです。

その山羊座の項にあった呑助たちの会話「あんたの家系で、これァすばらしいという結婚をした人はいるのかね」「おれの女房ぐらいだろうな」。(中田耕治訳)

山羊座を冠した映画に「山羊座のもとに」がある。ヒッチコックが自他ともに認めた失敗作とされるが、イングリッド・バーグマンのファンならそんなことで一蹴はできない。それに本作の撮影中、演技をめぐりあれこれと悩む彼女に、ヒッチが、イングリッド、あれこれ気を揉むんじゃない、「たかが映画じゃないか」と声をかけた傑作エピソードがある。

ついでながらわたしは天秤座。「星占いからみた酒の飲み方」には「酒を手にすれば、忽ち神気恢復、蜘蛛は翻り風は起ち、神韻縹渺たる境地に遊ぶことになりますナ」なんて『水滸伝』みたいなことが書かれてあった。気をつけなくては。

「酒飲めば 心の憂さは失せぬらむ 酒と女を 天秤にかけ」。

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歳末の「第九」フルトヴェングラー指揮、バイロイト祝祭管弦楽団のCDを聴くことが多いけれど、ことしは友人がチケットをお世話してくださり、NHKホールで井上道義指揮、N響「第九」を聴いた。コンサートホールに足を運ぶのは嬉しく、原宿から代々木公園を歩く足取りも、心も軽いクリスマスイブの午後でした。

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「人生意ヲ得テ須ラク歓ヲ尽スベシ/金樽ヲシテ空シク月ニ対セシムル莫レ」李白「将進酒」より。「人生は心まかせにして須らく歓楽を尽すべきだ/金樽を空しく月に照らさせてはならぬ。」青木正児訳。

元の詩もよし、訳もよし。お酒が好きだから本でもお酒を楽しもう。

「日本酒はいけない。日本酒は、あの宴会という日本の社会の儀式と義理と人情とを思い出させ、そばに人がいるような感じを目ざませて私を窮屈にするのである」伊藤整「酒についての意見」。わたしはこの意見に同調するが、活字のうえでは日本酒も大歓迎しよう。

来年は酒についての本をあれこれ読んでみたい。アンソロジーとしては吉行淳之介編『酔っぱらい読本』全七巻がある。個人ではこれまで愛読してきた吉田健一開高健に新たに若山牧水を配してみたい。中国関連では青木正児が推しで上に引用した『中華飲酒詩選』はじめ『酒中趣』などがある。読んでいるうちによいおつまみに出会えるかもしれない。いいことづくしだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ドリーム・ホース」 〜ウェールズを讃え、人間を讃える

とてもよい気持にしてくれる映画です。素晴らしくて、観終わったときはユーロス・リン監督をはじめとするスタッフとトニ・コレットダミアン・ルイスなど役者陣に感謝の言葉を贈りたいほどでした。

ウェールズの谷あいにある小さなコミュニティで育てた競走馬が国内(このばあいはイギリスではなくウェールズ)最高峰のレースに挑んだお話です。パートと親の介護、活気を欠く夫との日常に少しばかり倦んだ主婦が、馬主経験のある男の話に触発されて競走馬を育てることを思いつきます。もちろん個人では無理なので、週10ポンドずつ出しあって馬主組合を作ろうと地域に呼びかけたところ二十人ほどの参加が得られました。集団の馬主が名付けた競走馬はずばり、ドリーム・アライアンス。

厩舎に預けられたドリーム・アライアンスはまもなく中小のレースに出場するようになり(A)、活躍していたところ(A)、レース中に安楽死も選択肢になるほどのけがをしてレースの断念に追い込まれたのですが(B)、やがて厩舎でのリハビリテーションが功を奏して大レースに臨みます(A)。ジャズのスタンダードナンバーでよく見られるAABAの形式は物語の構成としても安心と落ち着きをもたらしてくれます。

よろこびに包まれ、一転して不安に襲われた馬主たちにドリーム・アライアンスの復活はふたたびの夢をもたらします。それこそ夢のような物語なのですが実話をベースにした作品なんです。

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冒頭、町の道端で普段着の若者三、四人がラグビーのパスをしていました。ラグビーを国技とするウェールズらしい光景で、くわえて自分たちの馬がレースを制したとき、高齢の女性が、ラグビーイングランドに勝ったときの気分よね、なんておっしゃていました。在職中、仕事で少しばかりラグビーに関わっていたわたしとしては嬉しさはひとしおでした。

ラグビーの映画じゃないけれどこの競技を細部に用いた描写は、たくさんのレッドドラゴンの旗で飾られ、 競馬とお酒で盛り上がるパブリックビューイングのお店とともにウェールズ的な気分を高めていました。

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美しい馬場での競馬のシーンは迫力があり、緑が映える山地は見惚れるほどです。そして大レースを前にしてソプラノ歌手が歌う「ランド・オブ・マイ・ファーザー」の素敵だったこと!ここだけでももう一度観てみたい。ラストでは出演者たちがウェールズ出身のトム・ジョーンズの名曲「デライラ」を歌います。

製作スタッフが、ウェールズへの讃歌を通して人間讃歌を奏でる意図を有していたかどうかはわかりません。ただ明らかにこのウェールズ讃歌は広やかな世界に人間讃歌をもたらしています。

(一月十二日 ヒューマントラストシネマ有楽町)

『荷風と戦争』~『断腸亭日乗』にみた戦時の昭和史

二0二0年三月に刊行された『荷風と戦争』(国書出版会)の著者百足光生(ももたり みつお)氏は永井荷風の日記を「昭和史の資料」として読むとしたうえで、昭和十五年から昭和二十年三月九日の偏奇館焼亡にいたる間の記事を丹念に読み解き、貴重な註釈、解説をくわえた。

本書は副題を「断腸亭日乗に残された戦時下の東京」としているが、「『断腸亭日乗』にみた戦時の昭和史」もしくは「戦時期『断腸亭日乗』私註」としたほうがより内容にふさわしかっただろう。もっとも川本三郎氏の名著『荷風と東京』の副題が「『断腸亭日乗』私註』」だったことに鑑みると、わたしが刊行者だったとしても後者の副題は避けたであろう。ともあれ本書の記述は日記の本文を抜き書き、そこに註釈を加えるというスタイルで一貫していて、昔から学問の世界で古典の註釈の重要性はいうまでもなく、学問の基礎的また王道の手法であった。

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たとえば。

昭和十七年一月六日の日記に荷風は「軍人執政の世となりてミソギといふもの俄かにはやり初めしなり」と書き、寒中の水浴がそれほど精神修養に効果があるのであれば夏に暖炉にあたって熱湯を飲むもおなじであり、思いつきでする男どものミソギや女給や女事務員が座禅を組んだりするのは格好をつけただけの世におもねる姿に過ぎないとした。

荷風ならずとも発してみたい皮肉に満足して本を閉じても十分としてよいのだが、嬉しいことに本書の読者は当時流行していたミソギについての耳よりな話をさらに詳しく知ることになる。

それによると昭和十五年近衛文麿が中心となり創立した大政翼賛会がミソギの講習会を行なっていたのである。はじまりは昭和十六年八月二日、箱根の湯本にある日本精神道場での講習会で、このときは小磯国昭大将、飯村穣総力戦研究所所長、皆川治弘東京市教育局局長、作家の中村武羅夫横光利一、滝井孝作などが参加していた。荷風がこんな催しに参加していた作家たちのことを知っていたとすれば、憐むべく笑うべしと思ったにちがいない。

おなじく十九年十二月四日の日記に「町の辻々空地の塀などに座布団の綿を出せとの貼札ありて下手な画までかき添えたり」とあり、寒い季節に綿の供出が呼びかけられている。どうしてかといえば「人民の綿を取上げ火薬をつくり」するためだという。人情を知らぬやり方と荷風はしるしているが、綿と火薬についてはそれ以上の説明はない。綿と火薬で理解できる人はよいが、そうでない読者は調べるかわたしのように読み飛ばすしかない。そのわたしに『荷風と戦争』が懇切に教えてくれる。

「十一月二十七日、東京都が火薬の原料になるとして古綿の回収に乗り出した。綿から生成されるニトロセルロース無煙火薬として、小火器の発射薬に使用される。そこでまず座布団の供出を始めたわけだ」と。こうして寒さに向かう季節に綿を供出させて発射薬を作らなければならないほど追い詰められた日本の姿が具体にみえてくる。

本書が扱った時期の昭和十八年、荷風は『柳北談叢』という書に序を寄せている。幕臣で維新のあとはジャーナリストに転じた成島柳北の外孫大島隆一が、祖父柳北の遺文、逸事などを集成した書への序は当時作品の発表が極めて困難だった荷風のわずかに公表した文章のひとつだった。

そのなかに「今日吾等後生の輩、柳北の名を聞き、柳北の文を読むや、時世は遥に隔絶し人心亦既に同じからず。往々文義を解するに苦しむことなしとせず。余常に之を憾みとなせり」と書き、社会や人心、言葉の変化とともに柳北の文章が理解しにくくなりつつあるなかで、その理解を助けてくれる書の刊行を意義深いものとした。

いま荷風の序にある柳北を荷風に置き換えると、「吾等後生の輩」つまり現代の読者と荷風との関係となる。そして『柳北談叢』にあたるのが『荷風と戦争』であり、『断腸亭日乗』を通して昭和史を知る大きな一助となる本書の刊行をよろこびたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「春の序曲」

わが国ではじめて日本語字幕を付けて上映されたトーキー作品はマレーネ・ディートリッヒゲーリー・クーパーが共演した「モロッコ」でした。一九三一年のことで、米国では前年一九三0年に公開されています。

一九三六年、主役の二人はふたたび「真珠の頸飾」で共演しました。ここでディートリヒはフランスの宝石商から高価な真珠の首飾りを盗んだ女賊でスペインに入国しようとしますが税関の検査が厳しく、やむなく盗品を見知らぬ男の背広のポケットに入れてしまいます。この騒動に巻き込まれたのはアメリカから休暇でヨーロッパにやって来ていたクーパーで、ひょんなことからはじまった女泥棒と堅気の社会人とのラブ・コメディです。

驚いたのはスタッフにエルンスト・ルビッチ(1892-1947)の名前を見たことで、監督のフランク・ボーゼイギと共同プロデューサーを務めています。ルビッチ監督の映画を追いかけてきたわたしとしてはプロデューサー作品は思いもよらない盲点でした。さっそくフィルモグラフィーで調べてみるとルビッチがプロデュースしたのはこの「真珠の頸飾」だけで、未知の鉱脈への期待は幻に終わりました。

監督のフランク・ボーゼイギ(1893-1961)はわたしには名前を聞いたことがあるような、ないような存在でしたが、ルビッチを媒介としてようやく意識するようになりました。なんといってもルビッチと共同プロデュサーを務めた唯一の人ですから。

フィルモグラフィーを見て、「第七天国」( 第一回アカデミー賞監督賞)「戦場よさらば」「歴史は夜作られる」が同監督の作品と知りました。いずれも単体では観ていたけれど、おなじ監督の作品として繋がっていなかったのは不明を愧じるほかありません。

よい機会だから Amazon prime Videoの魅惑のモノクロ作品群でボーゼイギ作品を検索してみたところ「真珠の頸飾」や「歴史は夜作られる」とともに「春の序曲」がありました。長年名前を知るのみだった「春の序曲」も同監督作品だったとは!

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「春の序曲」のアメリカでの公開は一九四三年十一月でしたが、日本では敗戦からおよそ半年後の一九四六年二月二十八日に封切られました。

 戦前最後のアメリカ映画は開戦の年の十月に公開された「スミス都へ行く」でした。それから四年あまり、戦後はじめてアメリカから輸入された二本の映画のうちのひとつが「春の序曲」でした。(もうひとつは グリア・ガースン主演「キューリー夫人」)

歌手志望の田舎娘が著名な作曲家の家で執事を務める兄を頼ってニューヨークにやって来る、そこから才能を見出され、愛を知る、といった明朗な音楽劇で、しかも主役は一九三七年に公開され大ヒットした「オーケストラの少女」のディアナ・ダービンです。戦前の映画ファンは「春の序曲」でディアナ・ダービンと再会して、ようやく暗い谷間をくぐり抜けたと実感したのではないでしょうか。

ところで HIS BATTLER'S SISTER 、彼の執事の妹という原題を「春の序曲」としたのはなんだかよくできたマジックのようです。戦後初のアメリカ映画の選定にはGHQが関わっていましたから、戦後の明るい輝きを演出する意図はあったに違いありません。それを「春の序曲」としたのは GHQの知恵者、それとも配給元であるセントラル映画社の才覚だったのでしょうか。

*戦前最後に公開されたアメリカ映画「スミス都へ行く」については本ブログ、以下の記事を参照してみてください。

https://nmh470530.hatenablog.com/entry/20110108/1294442400

お年賀

あけましておめでとうございます

本年もよろしくお願い申し上げます

二0二三年一月一日

新型コロナのため長距離走はもっぱらヴァーチャル・レースだったのが、昨年はようやくリアルイベントに参加できるようになりました。三月の東京マラソンは高齢者への自粛要請があり出走できませんでしたが、そのあとハーフマラソンを三回走りました。とくに十月十六日の東京レガシーハーフ2022(写真)は七十代になってはじめてのビッグなレースなので、あらかじめZOOMとLINEで十週間のコーチングを受け、よい経験になりました。

レースのあと、おなじコーチングを受けていた方がコメントを寄せていて、そこにコーチへの感謝の言葉とともに「力不足で、第一関門でのリタイア残念に感じております。来年の東京マラソン2023の出場権がありますので、完走してリベンジしたいです。なお、今まで東京マラソンは四回完走、二回途中関門でアウト、一回は中止でした。また、何かありましたら、サポートをお願いいたします」とありました。東京マラソン2023の出場権が付与されているところから、わたしとおなじ高齢者への自粛要請に応じた方だと拝察します。

このコメントを読み、所定時間内にフィニッシュできなかったときは潔くレースを止すと考えていたわたしは感動とともに大きな衝撃を受けました。何という粘りとタフ!

大事なことは潔さより不撓不屈。この方を見習わなくてはならないと思いました。ことしもマラソンをたのしめるよう願っています。f:id:nmh470530:20221223143240j:image