わたしの健康ノート(四)アンチエイジング

《伎芸は何事によらず、年をとりてはつやがぬけるもの也。念に念を入れるほど、かへりてつやがうすくなるなり》。

森銑三「三世中村歌右衛門の歌舞伎雑談」にある二世中村七三郎(1703-1774)の言葉で、これについて著者は、いちがいに老人を排斥すべきではないが、老人偏重も感心しないと述べている。

役者とおなじく観客の側にもいわゆる團菊爺いという感心しない老人偏重がある。明治の九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎の、あるいは戦前の六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門の舞台を絶対最高だったと誇らしげにのたまう老人、けれど若者にとっては見ぬ世の舞台を自慢する嫌味にすぎない。

いっぽう二世中村七三郎と同時代を生きた横井也有『鶉衣』に『歌も浄るりも落し咄も、昔は今のにまさりしものをと、老人ごとに覚えたるは、をのが心の愚かなり》と書いている。要するに、むかしは楽しめる自分がいた、いまは楽しめない自分がいるにすぎない。大切なのは人に疎まれず、自分も楽しめる身の置き所を探す叡智であろう。

話題を役者に戻すと、皺だらけの顔を白く塗りつぶして舞台に執着する人がいる、白くは塗らなくても老醜を晒してでも出演を続ける人もいる。それぞれの覚悟に基づく選択であり、これを避けたいなら早くに引退するほかない。

ところがちかごろはこういう覚悟とまったく無縁の人たちがいて、アンチエイジングの効果を説く薬品や健康食品のコマーシャルで、自分だけは、つややかさもなまめかしさも衰えたりしないと確信していらっしゃるご婦人方が、なんとかというサプリを服用したところ大成功だったと大はしゃぎしている。

平均寿命は長くなり元気な年寄りが多くなったとはいえ、歳をとると、つやもなまめかしさも変化するのは当然であり、静止のなかの完全という状態で若さが維持されるなどありえない。コマーシャルのご婦人方には申しわけないが「念に念を入れるほど、かへりてつやがうすくなるなり」というほかない。

六十代が四十代に見られたといって何がそんなにうれしいのだろう。わが身の老いを忘れようとしてあれこれ振舞っていると《おほかた、聞きにくく見苦しきこと、老人の若き人に交はりて、興あらんと物言ひゐたる》(『徒然草』)となるのが世の習いである。年寄りが若者のあいだでウケ狙いの言動をするのははしたないと知るべきだ。

わたしは、若づくりやアンチエイジングにうつつを抜かす七十歳より、年齢相応にして、こんな素敵な七十歳がいる!と感じさせてくれる女性が好きだ。男もこうありたい。

わたしの健康ノート(三)ほどほどの愛

題名は忘れたが北朝鮮の軍事パレードをひたすら撮影した映画があって、あまりに極端な整然と画一に不安を覚えたものだった。極度に整然一体とした立派なマスゲームを見てもおなじ気持になる。

詳しくは知らないが組体操というのはマスゲームの小ぶりなものなのだろう。これには事故が多く、旧聞ながら、あるネット上の記事に、二0一四年度には全国の小・中・高校で8592件の事故が発生、このうちピラミッドという組体操で1241件、タワーという組体操で1133件にのぼったとあった。無理しないほうがよいのは明らかなのに、それでも教育効果があるからと推進を訴える先生方がいて、わたしには偏執妄執の世界と映った。

《人生を行進や重労働で無駄にしてはならない》と語ったのはチャップリンで、これはわたしのなかで池田清彦先生の《私は人生をがんの予防に捧げるつもりはないな》という言葉とセットになっている。健康の増進を図りたければ、整然と画一の行進やマスゲーム、組体操、重労働、むやみながん予防などには関わらないようにしなければならない。

『心は少年、体は老人。』で池田清彦は、霊長類学者山極寿一の、家族愛から出発して、村落、国家を守ることで愛を確かめようとする「過剰な愛」についての考え方を紹介し、そうした愛は戦争の一因となるとの議論を卓見であると評価している。「過剰な憎悪」とおなじく「過剰な愛」も危険で、愛は地球を救うどころか、ことと次第によってはその逆となる。組体操推進の主張も児童生徒への「過剰な愛」の一環と考えるならば愛もほどほどがよさそうだ。

「ONE LIFE 奇跡が繋いだ6000の命」

ナチスの非道、残忍、蛮行に怒りながらも、心が洗われ、エンドクレジット(タイトルはわかりませんがここで流れる弦楽合奏曲が素晴らしく調和していました)の途中で涙腺がゆるんでしまいました。事実にもとづく作品で、あらためて歴史を再現する映画の力を認識したしだいです。

f:id:nmh470530:20240703111228j:image

一九三八年、イギリスで株式の仲買人をしているニコラス・ウィントンがナチスからプラハに逃れてきた多数のユダヤ人難民の子供たちのイギリスへの移送を決意します。具体には心をおなじくする人たちの協力を得て、旅券とビザを整え、里親を募り、資金を用意し、寄付を求め、交通機関を手配する。

ニコラス・ウィントンは一九0九年生まれ、祖父母はドイツ系ユダヤ人でしたが、両親はキリスト教を受洗しており、ニコラス自身もキリスト教徒でした。ただし宗教意識は希薄でヨーロッパ人としての自覚を強くもつ人物と見えました。

家庭でのイギリス流の自由主義に根ざした教育がニコラスの人間形成に大きな影響を及ぼしていて、それを母親は、目の前に苦しむ人がいたら手を差し伸べる、良識に基づく行動と他者への優しさと敬意を息子に教えたと語っていました。

じじつこの母はプラハに飛んだ息子に代わり、ロンドンのビザ発給の機関に行き、その悠長なお役所仕事に思いっきりアクセルを踏みます。「ナチスの防波堤になった人たちの子供たちを救わなければいけないときじゃありませんか」といって。

第二次世界大戦直前、プラハに逃れたユダヤ人難民の子供たちはおよそ二千人、このうち六百六十九人の移送が実現します。救出工作は続けらましたが開戦により中止のやむなきにいたりました。すべての子供たちの救出が果たせなかったことがウィントンに苦悩と後悔をもたらしました。

五十年後の一九八八年、ニコラスはユダヤ人の子供たちの救出を記録したスクラップブック仕様の一冊を、いずれかの機関が有効に活用してくれるよう保管してもらえたらと考えています。たまたまマスコミ関係者の妻がそれを知り、BBCのテレビ番組「ザッツ・ライフ!」が企画します。それはニコラスと救出された子供たちとの再会にほかなりませんでした。

こうして物語は五十年のときを往き来し、再会のときを迎えます。ほとんどの子供たちと両親との再会は叶いませんでしたが、このとき生き延びた子供たちは成人し、その子供や孫など六千の命に繋がっていました。

一九八八年のニコラスにアンソニー・ホプキンス、支える妻グレーテにレナ・オリン、若きニコラスにジョニー・フリン、母バベットにヘレナ・ボナム=カーター。いずれも抑制された感情を秘めた確かな演技が説得力を生んでいました。監督はジェームズ・ホーズ。

(七月二日 ヒューマントラストシネマ有楽町)

「朽ちないサクラ」

愛知県平井市在住の女子大生が、数回にわたるストーカー被害を受けた末に殺されるという事件が起こります。犯人は地元の神社の神主の長男でした。

まもなく平井中央署生活安全課が女子大生からの被害届の受理を先延ばしにし、その間に慰安旅行に行っていたことが地元新聞の独占スクープとして報道され、その直後、同社の津村千佳記者(森田想)の死体が発見されたのでした。

女子大生と犯人にはどのようないきさつがあったのか。警察内部のリークはあったのか。あればだれがリークしたのか、そこにはどのような事情があったのか。リークした相手は津村記者、それとも別の人物だったのか。

じつは津村記者の死亡には裏があり、記者と同級生で友人の森口泉(杉咲花)が県警広報広聴課の事務職として勤めていて、友人どうしの話のなかで慰安旅行を話題にしたたため津村記者がスクープ記事にしたのではないかと疑っていたのです。すると記者は身の潔白を証明するために調査を開始すると言明した、その矢先に変死体で発見されたのでした。

どうです、この謎の出し方。ミステリーファンには堪りません。冒頭のこの複雑に入り組んだ謎で一気に引き込まれました。

f:id:nmh470530:20240626101402j:image

こうして自責と後悔の念から森口泉は捜査に乗り出します。彼女と親しい警察官、磯川(萩原利久)もおなじ問題意識から協力を申し出てくれました。

こういう状況をふまえた謎解きには、敵と味方がはっきりしない謀略とスパイミステリーのテイストが漂ってきます。

しじつわたしはこのテイストの漂う素敵なミステリー映画に身を浸して午後のひとときをすごしていました。

ただ、元サラリーマンのはしくれ、現在の無職渡世はひとこと不満を述べておきたい。

主人公で実質的に刑事役の働きをする警察事務官の森口泉、それはよいけれど事務官としての服務のあり方におよそリアリティがない。いったいこの人の勤務はどうなっているのだろう。磯川警察官も勤務の都合で森口への協力は勤務時間外にならざるをえないといっていたけれど、およそそんな雰囲気ではありませんでした。

ま、これは小津安二郎作品でも、丸の内の企業の幹部社員である笠智衆佐分利信のあの勤務ぶりにはリアルが皆無、と指摘されていましたから日本映画の伝統なのかもしれません。監督、スタッフの多くはサラリーマン経験がないから、描写の不備が露わになるのでしょう。でも「朽ちないサクラ」はシリアスなリアリズム仕様ですからここをしっかり押さえておけばもっとヒリヒリ感は増すのに惜しいと思いました。

原作は柚月裕子。映画から窺うかぎり、いささか話を大掛かりにしすぎたきらいはあるけれど、警察内部の描き方や横山秀夫米澤穂信との比較にも興味があるのでパスはできません。

(六月二十五日TOHOシネマズ日比谷)

 

わたしの健康ノート (二)おおらかさ

尾張藩で大番頭、寺社奉行等の要職を歴任し、病気を理由に五十三歳で隠居し、以後俳文、漢詩、和歌、茶道などに親しみながら風流人としてすごした横井也有(1702-1783)はその著『鶉衣』に「夜道の旅のねぶたきとて、腰に茶瓶も提げられず、秋の寝覚めの淋しきとて、棚の餅にも手のとどかねば、只この煙草の友となるこそ琴・詩・酒の三ツにもまさるべけれ」(「煙草の説」)と説いている。

也有はまた酒は富貴、茶は隠逸、煙草は君子であると論じていて、人生のささやかなよろこびがしみじみ伝わってくる。

煙草は吸わないほうがよい。しかし、煙草もおちおち吸えない社会は困ったもので、狂信的な禁煙論者はおぞましい。しっかり分煙をしてあればそれでよいではないか。

《「いいかげん」と「おおらか」は違う。そんなことは分かっている。しかし、なんでもかんでもきちんとやろうとすると、おおらかさは失われていく》(野矢茂樹『哲学な日々 考えさせない時代に抗して』)

野矢先生は東京大学の大学改革についておっしゃっているのだが、東大に限らず、いずこも改革が声高に叫ばれるようになると、ことによっては、おおらかさが失われる事態が生じるようだ。

ラ・ロシュフコーに、あまりに大げさな養生法で自分の健康を保とうとするのは、困った病気であるという箴言がある。完全、完璧志向は大げさな養生法や狂信に通じている。

野矢先生の前掲書は二0一五年に刊行されていて、当時先生は坐禅ゼミを主宰していた。禅堂で脚を組み、身じろぎもせず、深い呼吸を繰り返す、そうして自分をゼロの状態に立ち返らせようとする試みを続けていた。二十四人の定員に毎回百数十名の応募がある人気のゼミである。

先生は坐禅の目標を、リラックスした状態と集中した状態を同時に実現すること、体から力を抜きつつ、気を入れて研ぎ澄ますことにあるという。わたしは坐禅を組んだ経験はないが、この目標はジョギングに通じている。禅は呼吸が一番たいせつで、深く腹式呼吸をする。ジョギングでも腹式呼吸は意識しておくとよい。腹に入れた酸素は活力となり、脂肪の燃焼をよくすると聞く。

《自分を空っぽにしていく。何も考えない。囚われない。こだわらない。呼吸だけに集中して、ただ空気が自分の体を通って巡っていく。そうすると、なんというか「透明感」といえるような澄んだ感覚になるんですよ》。ジョギングもこうありたい。

わたしの健康ノート (一)あたりまえについて

在職中、発熱があったのは数年に一度で、それも多くは翌朝には引いていた。ところが退職して二年ほどのあいだに何回かかぜと発熱の症状があったから驚いた。いちばんひどかったのは二0一二年の夏にこれまで経験したことのない極度の疲労を覚え、翌日には熱が出て復調するまでに三週間かかった。軽度の熱中症とジョギングの疲労とが引き金となったのかと疑ったがほんとうのところはわからない。咳が止まらず、一時は喘息が疑われた。

翌年のはじめにもかぜを引いた。のどが腫れ、熱もあったので、病院へ行き、調剤薬局でもらった薬を服用し、翌朝は三十六度台なかばまで下がったので、午後に映画館へ行き、帰りにいつもの飲み屋さんで一杯やって就寝に及んだところ翌日には熱がぶり返し、しばし床で安静にしなければならなかった。

ここまで来ると、いくら感度の鈍いわたしでもジョギングの負担を減らさないといけないと気がついた。土日を中心に走っていたのが、退職してからほぼ毎日走るようになった、その負荷が重しとなったらしい。

そこで走る距離を減らしたところ在職中の体調に戻った。そんなこともわからなかったのかと家族から叱られたが、行き着くところまで行ってようやくわかる場合だってある。

ミック・ヘロン『死んだライオン』というスパイ小説で窓際に追いやられたロートル工作員が《若さに未練があるとすれば、井戸にバケツを落としたようにストンと眠りに落ち、朝、目を覚まし、バケツを引っぱりあげたときには、そこに水がふたたび満ちていることだ》としみじみ語っていた。年をとるとはこの若い日のあたりまえがだんだんと減退していくということなのだ。若いときは長い距離を走ってもなんともないあたりまえが、いまはあたりまえではない。

野村胡堂を読む

電子本『野村胡堂作品集 214作品』( 九十九円!)に収められている『胡堂百話』を読んだ。銭形平次の作者と知るばかりでご縁のない方だったが、この素晴らしい随筆集で一気にファンとなった。いずれ銭形平次もいくつか読んでみよう。なお本書は昭和三十四年の刊行。一篇千二百字ほど。話題は生い立ちや交友関係、生活雑事、銭形平次、それにクラシックレコードの蒐集など。

なかで「内村鑑三全集と今村均」は一読忘れ難い。戦争中、胡堂の家へ参謀本部の将校が訪れ、在ラバウル今村均司令官が、陣中で内村鑑三全集を読みたいから送れといって来たが、岩波書店、また本郷、神田の本屋街にもなく、とまどっていると金子少将が、野村胡堂氏が持っているはずだとおっしゃったので訪問させていただいた、無理を申し上げるようだがまげてお譲り願えないだろうかとの話だった。

胡堂はお安い御用と返事をしたかったがその全集は昭和九年東大在学中に歿した一人息子一彦が死の間際まで愛読していた書き入れの残る遺品だ。けっきょく銭形平次の作者は妻ハナと相談し、参謀本部の求めに応じた。そして全集を携えた飛行機がラバウルへと飛んだ。戦後、巣鴨拘置所に収監されていた今村均から胡堂に手紙が届く。あとはご一読あれ。

明治二十四年一月九日第一高等中学校(東大教養学部の前身)講堂で挙行された教育勅語奉読式において、内村は教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、最敬礼しなかったとして不敬を問われ教員を辞職した。その人の全集を軍営で読みたいと部下に求めた陸軍司令官の話は異彩を放つというより異様に近い。その今村について胡堂は「ラバウル十万の将兵を無謀な玉砕に追いやることなく、地下に潜って百年持久の計を樹て、貴重な生命を救い得たのは、戦陣の中に、内村鑑三全集を読みたいと考えたその魂であったと思う。玉砕の名は美しいが、忍びがたきを忍んで、十万の生命を助けたのと、今から考えて、いずれが本当の勇気であったか」と述べている。

           □

『胡堂百話』に収める「内村鑑三全集と今村均」を読んで急遽読書の予定を変更して、角田房子『責任 ラバウルの将軍今村均』(ちくま文庫)を胡堂と併読することとした。とりあえず『責任』のはじめ五十頁を読み、ひと休みして鶴田浩二の「ラバウル小唄」と数曲の軍歌を聴いた。ふるさと高知ではお正月に大学選抜相撲があり、幼稚園、小学校のころ何度か観戦した。当時「ラバウル小唄」を応援歌にした大学(記憶では近畿大学)があったのが思い出された。

          □

いまもあると思うがJR高知駅の裏手に石川啄木(本名は一;はじめ)の父親終焉の地を示す石碑が建っていて、さいしょ中学生か高校生のときに見て、啄木は岩手の人なのに、どうしてなんだろうといささか不思議に思ったものだった。

啄木の父石川一禎(いってい)は曹洞宗の僧侶だったが一九0四年宗費滞納で罷免され、晩年は啄木の姉トラ夫妻の許に身を寄せた。なお母カツは一九一二年に死去している。トラの夫山本千三郎が鉄道官吏でその転勤に伴い一禎も各地を転々とした。一九二五年山本千三郎が高知出張所長を命ぜられたため一禎も高知に来てともに晩年を過ごし、高知駅近くにあった所長官舎で一九二七年二月二十日に七十六歳の生涯を閉じた。啄木の父と土佐の高知というのは唐突の感があるけれど、石碑にはこうした事情があった。

石川啄木は県立盛岡中学で野村胡堂の一級下だった。胡堂の同級にのち海軍大将となる及川古志郎がいて彼が啄木を胡堂に紹介したことから交友がはじまった。胡堂は「啄木の父親は、内気のように見えて、不思議に気概のある顔おしており、母親は口数も少く、何時もひかえめにすわっていた」と書いている。

           □

Amazon Prime Videoで「忠臣蔵 天の巻・地の巻」(1938年)総集編を観た。監督はマキノ正博池田富保。日活の製作配給で、阪東妻三郎片岡千恵蔵嵐寛寿郎月形龍之介といったスターたちが当時の日活の勢いを誇示している。忠臣蔵は本格、変格、パロディなどバラエティに富むが、本編は本格オーソドックス版だ。

圧巻は九條関白の名代立花左近を名乗る大石内蔵助阪東妻三郎)が東海道筋の宿で本物の立花左近(片岡千恵蔵)と鉢合わせをするシーンで、本物の立花左近が大石に討ち入りの決意を見て、詐称を詫びて退散する。胸が熱くなるほどの名場面である。

なおクレジットでのトップは大石の阪妻ではなく、片岡千恵蔵浅野内匠頭と立花左近の二役)で、スターたちの共演にあれこれ気遣いがあるのだろうと旧TwitterのXに投稿したところ、ある方が「日活でのキャリアは千恵蔵の方が長いですからね。アラカンやバンツマは新興キネマ配給で賄っていた自身のプロダクションがありましたので、そこを廃止して日活に新参入社したわけです」と教えてくれた。映画史に詳しい方に感謝。

大石内蔵助東下りは「赤穂浪士 天の巻・地の巻」(松田定次監督1956年東映)でもベストシーンとされていて、市川右太衛門大石内蔵助が立花左近の名前で泊まる宿に本物の立花左近、片岡千恵蔵が現れる。このときも千恵蔵、右太衛門両御大の演技に唸り、さすが名優といわれるだけのことはあると納得だった。

           □

松竹がYouTubeに期間限定で「蒲田行進曲」を提供してくれていてさっそく視聴した。U-NEXTその他も配信しているけれど、せっかく映画会社がアップしてくれていてありがたくYouTubeを選んだ。三度目の同作品。はじめは一九八二年の公開時、二度目の記憶はないが十年以上前だ。

一九八0年の初演の舞台は加藤健一の銀ちゃん、柄本明のヤス、根岸季衣の小夏のトリオだが わたしは映画でしか観ていない。そのころわたしの舞台への関心はオンシアター自由劇場の「上海バンスキング」しかなく、京都、大阪、神戸と追っかけしていた。

ちょっと視野を広げると「蒲田行進曲」の舞台があったのにと後悔してもいまとなっては詮ないことだ。

蒲田行進曲」「上海バンスキング」ともに松竹が深作欣二監督で映画化したが、残念ながら「上海」は舞台とは比べものにならない出来だった。 

いっぽう東映YouTubeにこちらも期間限定で石井輝男監督、鶴田浩二主演「昭和侠客伝」を提供してくれている。昭和初期の浅草を舞台とする任侠作品。なかで鶴田が一年ほど伊勢へ旅を打ち、梅宮辰夫と路上でテキ屋をする。その隣に芦屋雁之助がいて啖呵売をするシーンが絶品!ここだけでもお値打ちだ。

           □

忠臣蔵 天の巻・地の巻」(1938年)総集編に刺激され山本博文『これが本当の「忠臣蔵赤穂浪士討ち入り事件の真相』(小学館)を読んだ。松之廊下、赤穂城明け渡し、討ち入り、四十六士切腹など各項目ごとに典拠となる史料とその現代語訳が付いている。

とくに感銘を受けたのは吉良邸に打ち入った武士たちの手紙で、よく残っていたものだ。「さむらいのつまたるものの、さやうなるはあしく候まま、よくよく心にて心をとりなをし候へく候、われらとても、そのかたこひしく候ても、これは人たるもののつとめにて候」 。神崎与五郎が妻おかつに宛てた手紙で以下は現代語訳。

「侍の妻が、嘆き悲しむというようなことはよくないので、よくよく気を取り直しなさい。私も、あなたが恋しいけれども、これは人たる者の義務なのだ」。

こういう配慮はうれしく、ありがたい。史料を引用したままにしてあるのは一般の読者にはわかりにくく、ひょっとして訳文に自信がないのではないかと思ったりする。

           □

f:id:nmh470530:20240603202818j:image

五月十九日。大相撲五月場所中日、友人たちと国技館へ。写真にあるように役力士、看板力士の相次ぐ休場で、番数は減る、それ以上に番付崩壊といった状況である。ま、それでもビール飲みながらの観戦はハッピーでしたけど。

f:id:nmh470530:20240603202847j:image

打ち出しのあとは錦糸町のお蕎麦屋さんへ行ったところお休みで、さてどうしようかと歩いていると高安の店というのがあってここで腰を落ち着けた。力士の高安がオーナーなのか、ファンが経営しているお店なのかはわからないが、いずれにせよ美味しかったよ。サバサンドがうれしかったな。

f:id:nmh470530:20240603203250j:image

f:id:nmh470530:20240603202907j:image

           □

五月二十日。このところ大相撲と歌舞伎がセットになっていてきょうは歌舞伎座昼席。演目は「鴛鴦襖恋睦」(おしのふすまこいのむつごと)、「毛抜」(けぬき)、「極付幡随長兵衛」。

町奴の頭領で、侠客の元祖とされる幡随長兵衛は名前のみ知っていたがその最期の物語ははじめて知った。旗本水野十郎左衛門を敵役にしたのは御政道を批判する意味合いを含ませたのだろうか。

f:id:nmh470530:20240603203013j:image

昨日は蕎麦を逃したので今夕は神保町の蕎麦屋さんでしっかり。

           □

大相撲十一日目前頭十四枚目欧勝馬が琴勝峰を破り勝越しを決めた。欧勝馬について、解説の音羽山親方、元横綱鶴竜が、タッパはなかなかあるし、これからさらに期待されると語っていた。 出身はモンゴルなのにタッパが口をついて出るんです。鶴竜ファンの贔屓目かもしれないけれど、この語学力はなかなかのものだ。(なおこの場所、欧勝馬は十勝五敗で敢闘賞を獲得)

辞書には、タッパは俗語。身長が高いことを「たっぱがある」、低いことを「たっぱがない」と表現する、とある。「たっぱ」や「タッパ」漢字では「建端」「立端」の表記がある。

この日の官報に、欧勝馬の国籍が日本となったと告示された。国籍の変更には複雑な思いがあったと想像されるが、NHKのアナウンサーは能天気に、欧勝馬の記念すべき日の白星、いかがでしょうと解説の音羽山親方に問いかけると、元横綱は、目の前の一番を大切にしているからほかのことは考えてないんじゃないですか、といなしていた。

           □

山田風太郎が「日常不可解事」というエッセイに「相撲のある月は、毎日、新聞の取組表を切りとって、時間がくるとテレビの前に座りこむ。そして(中略)ウイスキーをかたむけつつ観戦する。実は相撲を観るようになったのも、それが私の晩酌の時間と一致するからだ」と書いている。このあと一睡して夜半に目がさめるとそのまま本を読み、朝がくるとこんどはコップ酒を飲む。ちっともうまがって飲んでるのではなくて、朝酒を飲むのは、そのあと眠るためで、一睡してひるごろ目がさめると新聞と郵便物をチェックするそうだ。わたしの酒量では無理だがうらやましい話ではある。

わたしも見習いたいが大相撲中継の午後四時から六時を晩酌とするには時間帯が早すぎる。二度寝ができるとよいが夜中に目がさめてそのまま朝を迎えるのがいやだ。わが酒量では二日酔いはまずないが、それよりも寝不足が心配だ。

そこでわたしは大相撲の結果を知って相撲をみるのは興醒めだから、中継がはじまるころからスマホは見ないように、ニュースはいっさいシャットアウトして、午後七時ころから晩酌をはじめる。パソコンにあるNHKプラスで時間差で相撲観戦ができるのがありがたい。

           □

野村胡堂マイブームで大川橋蔵主演の映画「銭形平次」を観た。お静に水野久美八五郎大辻司郎。調べた限りでは橋蔵主演の映画版銭形平次はこの一本だけ。特別出演格で大友柳太朗と舟木一夫が出ている。 一九六七年の公開だから、もう東映は義理と人情を秤にかけりゃ、の任侠映画時代に移行していた。そこで橋蔵はテレビを活躍の場とした。当時映画スターがテレビに移るのはなかなかの決断だった。 さいわいテレビ版『銭形平次』はヒットして、フジテレビ系列が一九六六年五月四日から一九八四年四月四日まで放送した。

なおスクリーンでの銭形平次の多くは長谷川一夫で、野村胡堂のお気に入りだった。

           □

五月十六日中尾彬が亡くなった。享年八十一。何年かまえに不忍池を歩いているご夫妻をお見かけしたことがある。自宅は千駄木だから帰宅の途次だっただろう。目にしたのはこのとき限りだった。ご冥福をお祈りします。 

週刊文春」六月六日号に追悼する記事があり、妻の池波志乃がインタビューに応じていた。中尾は二0一三年から本格的に終活をはじめていて広く知られていたそうだ。一九四二年生まれだから七十歳が後押ししたのかもじれない。

 証人立会いで遺言状を作成した。 千葉のアトリエ、沖縄の別荘を売却した。 愛読した推理小説 はトラック二台分もあり、それらをを断捨離した。

死因は心不全だった。四月まではCT検査をしても大丈夫ですねといわれていたのに、五月になると腰が痛くて車に乗り降りするのも辛くなっていた。池波に託された遺言は「延命治療はやるな」。「何カ月も痛みに抗ったり、みんなの世話になりながら生きたくないという思いがあった」と池波志乃は語っている。

好物は上野、精養軒のハヤシライスだった。お近くなのでそのうち行ってみよう。

           □

昼食のあと日本橋へ出かけ、スターバックスレイモンド・チャンドラーの遺作となった『プレイバック』(田口俊樹新訳、創元推理文庫)を一心不乱に読んだ。マーロウ探偵は「私が若かった頃は相手の服をゆっくり脱がすことができた」なんてつぶやいていた。第二次大戦後はベットのマナーもせっかちになったのかな。

なお人口に膾炙するあのやりとり。田口俊樹訳は《「こんなにタフな男性がどうしてこんなにやさしくもなれるの?」と彼女は言った。ほんとうに不思議そうに。「タフじゃなければここまで生きてはこられなかった。そもそもやさしくなれないようじゃ、私など息をしている値打ちもないよ」》。

チャンドラーのあとは松本幸四郎主演「鬼平犯科帳 血闘」で、予定調和の世界に身を任せ、たゆたった。鬼平が強盗団の首領、網切の甚五郎(北村有起哉)にいったせりふ「悪を知って外道に堕ちるか、悪を知って外道を憎むか、それがお前と俺の違いだ」が印象的だった。池波正太郎鬼平犯科帳』はあと五冊を残したままになっている。できるだけ早く再開しよう。

           □

この四月から隠居生活が十四年目にはいった。退職後の生活になかなかなじめない方がいる、なかには最期までなじめない人もいると聞いたりするが、わたしは暇や退屈は大歓迎なので難なく適応できた。

朝はまずジョギング、そうしてシャワーと朝食、そのあと映画かテレビドラマを見ると十一時近くなる。昼食後はパソコンで遊んだり、喫茶店か図書館で読書をしたり。夕刻が近くなると晩酌が待ち遠しい。一週間のうち一度か二度は映画館に行く。その日は喫茶店で昼食をとり、長時間にわたり読書にふける。映画のあとは行きつけの飲み屋さんか家飲みで過ごす。老年となってこのかた酒(わたしは焼酎、ウィスキー派)はますます旨く、しかしそうなると週のうちの飲まない二、三日が過ごしにくい。 酒のない日が淋しくて、精神的には依存症だ。

むかし調子にのって飲み過ぎ、ひどい二日酔をしたことはあるが、とことん酔っぱらいたいなんて思ったことも試みたこともない。酒で気を紛らそうなんて気持はさらさらない。その代わりできれば毎日適度に飲みたいがマラソンを走りたい思いがセーブしてくれている。