東京マラソン2026

3月1日。東京マラソン2026を走ったが29kmの関門を超えられずリタイアした。出るのは筋肉痛、出ないのはスピード。後期高齢者になってはじめてのフルマラソンのハードルは高かった。復活を期して来月は豊洲ベイサイドランというハーフマラソンの大会を走ります。
ネットで指導を受けたコーチから《普段飲酒の習慣があっても「すでに今はお酒を控えています!」という方はいらっしゃるかと思いますが、そうでない人もできればこの 1週間は控えてください!睡眠の深さも変わりますし、毒素が抜けて身体が軽くなる感覚がわかるはずです。》とLINEがあった。
けれどわたしは禁酒期間を五日間に短縮していた。これも完走できなかった一因かな?
ま、過ぎたことは気にせず今宵は久しぶりにビールや焼酎のお湯割といった旧友に再会することとしよう。

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疑問をもつ

中学校で教わった理科の先生はよく、疑問を持つことの大切さを説いておられた。先生の影響が多少あったのか、もともとの性格がそうなのかはわからないけれど、どちらかといえば疑い深いほうである。おそらく先生は自然現象への関心を高めようとしておっしゃっておられたのだろうが、こちらはその方面よりも社会や人間についての疑問を抱くようになった。

ずいぶんまえの話だが、近所で盗難事件があったとかで夕刻のわが家に私服の警察官いわゆる刑事が二人で訪ねてきたことがあった。彼らは警察手帳を示したうえで不審者に気が付きませんでしたかといった質問をしたが、残念ながら参考に供するようなことは何にもなかった。そこで二人は礼を述べて出ていこうとしたとき、当方の脳裡にふと警察手帳が偽物かもしれないじゃないかとの疑問が浮かんだ。この人たちはほんとうの刑事だろうか。咄嗟に「すみませんけど警察手帳をもう一度拝見させてください」との言葉が口を衝いて出た。相手はすこしびっくりしたみたいだったので、念の為手帳にあるお名前を確認させてくださいと言うと二人とも素直に応じてくれた。名前をすぐに書きとめて所属する所轄署に電話をかけてこれこれの名前の刑事さんはほんとうにいるかと訊くとたしかにいますと答えてくれて一件落着した。疑い深いとはいってもこの程度である。

あれやこれやに疑問を持ちすぎると生活しづらくなる。しかし何の疑問も持たないのも危険極まる。こんなふうに疑問についてはひとつは量と程度の問題がある。くわえて質の問題がある。良質の疑問を持つことは量の問題以上に大切であろう。そこで思い出すのがニュートンの林檎の事例で、これまでの人類史上最良最高の疑問であろう。

林檎の実は木の高さとは関係なく樹上から落ちてくる。仮に木の高さをだんだんと高くしていってもおんなじだ。さらにどんどんどんどん高くして、月の高さまで達すると林檎はどうなるのかな、だって月は落ちてこないじゃないか、といった疑問。すごいなあ。世の中のすべての物質は互いに引き合う引力をもっていて、リンゴが落ちるのは地球の引力に引かれたから、そしてその引力はリンゴだけでなく遥か彼方の月にも太陽にも及んでいる。万有引力はかくして発見された。

インターネット、SNSで虚実不明の膨大な情報が拡散する。自分の抱いた疑問を大切にして、あれこれと考えながらそれを育ててゆこうとするのはますます困難な世の中である。

 

久米の仙人

若い娘が蕎麦の出前のために自転車に乗ろうとした。右の手は出前の盆を高くさし上げ、左の手をハンドルにかけ、左の足をペダルに掛けて、つっと車を乗り出しながら右脚を軽く上げてサドルに腰かけようとしたがわずかな風が水色模様の浴衣の裾を吹いて、その端がサドルに引っかかりそうになった。

その瞬間、まっ白な脛(はぎ)がちらりと見えた。脛は膝から足首までの部分をいう。娘はあわてず右脚を下ろしたうえ再度腰をかけようとして、こんどは上手くいったのでそのまま遠ざかっていた。

これをプラタナスの樹陰で電車を待っていた寺田寅彦が見ていた。

朱塗りの出前の荷と浴衣の水色模様に映えたまっ白な脛、その脚線は「ちょっと歌麿の絵を現代化した光景」だったそうだ。(『柿の種』「曙町より(十)」)

『徒然草』には「世の人の心まどはす事、色欲にはしかず。人の心は愚かなるものかな」(第八段)の事例として、空を飛べる通力を身につけた久米の仙人が、着物をかきあげて洗濯をしている若い女の白い脛を見て女の前に落ちたという話がある。

寺田寅彦には「徒然草の鑑賞」というエッセイもあるから「歌麿の絵」というところでエロティックな感情とともに久米の仙人の話が心に浮かんだと想像してもあながち見当はずれでもないだろう。

色欲に心まどってもよい、空を駆けずりまわるよりも女に焦がれるほうを選ぶ(もちろんわたしだって)、世の男は久米の仙人には好感を抱いているはずだ。仙人だってそうだから自分も空を飛ぶうちに「きよらに肥えあぶらづきた」(ふっくらと脂肪がついている)女の白い足を見れば落ちると思っているのではないか。それに天界にはえらい神様が大勢いてそれほど住みやすいところではないかもしれない。

久米の仙人が好きだという薄田泣菫は、性欲を絶つための薬を飲んだなんとかという僧侶を、人間は無駄な空想に駆られて生活の力を自分で殺ぎ取ったり、せっかく内から燃えてくる焔を自分で塞いでしまってはならないとしたうえで女の脛を見て空から落ちた人を讃えている。

「久米の仙人の生活には充実があつた。弾力があつた。その生命は永久に若返つて、わたしたちの生活に脈搏つている」と。(「久米の仙人」)

『今昔物語』によると、女の前に落ちた元仙人はその女を妻とし、のち久米寺を建立したというから塵網にあっても徳の励行に努めたようだ。

孔子さまは「我いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり」と嘆いているが、元仙人はお寺の建立といった徳のほうではなく色魔の天狗になって色に奔ったというブルーフィルムがあるそうだ。吉行淳之介と開高健との対談「浅草綺譚」(吉行淳之介対談集『やわらかい話』講談社文芸文庫)で開高がそのフィルムを話題にしている。

「当時、名画と称されたもので、久米の仙人と天狗をからみ合わせた話もありましたよ。久米の仙人はご存じのように、下界の川で洗濯をしている女の脛を見て、雲の上から落ちてきたというストーリーに仕立ててある。それが天狗に変わりましてね。天狗の面というのは男根の象徴ですからね。大兄はあの作、見たことないですか」と開高が語ると吉行は「それはないな」と答えている。ポルノグラフィではなくブルーフィルムだから、昭和三十年ころの話とおぼしい。

『今昔物語』が仙人からまっとうな良民へのコースを採らせたのに対し、こちらは仙人の色欲の堤防大決壊により天狗に変身させた。

仙人ならば安定理想の状態に居られただろうが、人間の世界は万物流転諸行無常が理法であり、性欲のやっかいであること言うまでもない。『今昔物語』で良民となった元仙人も、ブルーフィルムの天狗までは行かなくてもそのあいだの中途半端でいろいろ見果てぬ夢を見ていたのではないだろうか。

 

早乙女の脛のくろきに仙人も通をうしなふ気づかひはなし

大田南畝

陸沈

ときどき都築響一の写真集『TOKYO STYLE』(初版1993年京都書院版)を眺めながらまったりとした時間を過ごす。撮られているのは九十年代はじめの東京の若者たちの部屋だ。人は誰も写っていないけれど、部屋を通して人とその生活が見えてくる。多くは貧乏な若者の、狭くて乱雑な空間。そこでのそれなりに気持よい暮らしが伝わってくる。ただし戦前の歌謡曲にある、狭いながらもたのしいわが家とはまったく様相を異にしていて、なんといえばいいのか世紀末あるいは近未来風なたたずまいを帯びた快適さといったところだろうか。

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本書を開くたびに「陸沈」という言葉を思い出す。中国古典の典拠や用例は知らないが辞書には①陸に沈むの意で、俗人と一緒に住み、表面は俗人と変わらぬ生活をしている隠者を指す、②昔を知って今を知らず、時代遅れで世俗に疎いことの意、とある。とはいえわたしはこの言葉にこだわりがあって、自分なりの語感をたいせつにしている。それは、街を隠れ里にして滋味豊かなたのしみに生きるといったものだ。滋味は地味でもある。
こんな魅力的な生き方を①のように俗人とは一段高いところにいる人だけのものにしてはならない。隠遁や隠者には思想的契機があるからそれは尊重もしよう。しかし、わたしのような時代遅れの凡人だって「陸沈」したいじゃありませんか。
「陸」を街と解するのは隣近所が顔見知りの田舎であっては隠れ住むとはならないし、俗世間との関わりを避けて山奥に住む正統的な?隠者に自分はなれないからだ。
都会であれ鄙であれ、カネとモノをより高く、より多くというのが高度成長期までの夢だとすれば、「陸沈」の夢は好きな人とモノに囲まれた暮らしだ。ただし執着はないからたとえ人とモノに恵まれなくてもなんとなくやっていける柔軟な個人主義が支えとなる。まさに隠者の風格だ。中野孝次の書名を借りれば『TOKYO STYLE』は世紀末若者の清貧の思想としてよいだろう。だからこの写真集に「方丈記」や「徒然草」の伝統を感じないわけにはいかない。
都築響一は書いている、「もしかしたら世界一のスピードで動いていると思われている東京の只中で、小さな部屋を借り、どうしても必要な分だけ働いて、あとは本を読んだり絵を描いたり、音楽を聴いて静かな毎日を過ごしている人々がずいぶんいるという事実は、心地よい驚きでもある。東京もまだ捨てたもんじゃないと思うのは、こんな人たちに出会うときなのだ」と。 

東大教授とソープランド

東京大学の先生と吉原のソープランドとが絡む不祥事が明るみに出た。二月三日付の報道によると、皮膚疾患の共同研究をめぐり、東京大学大学院で医学系研究科教授の佐藤伸一容疑者(62)が、研究相手の業者から高級クラブや性風俗店での接待を繰り返し受け、収賄容疑で逮捕・送検された

捜査関係者によると、接待は月二回のペースで約三十回。一日あたりの接待費が85万円に上るケースもあり、累計額は九百万円近くに達する可能性があるという。しかも接待先は、高級飲食店にとどまらず、東京・吉原のソープランドまで指定されていたとされる。

ずいぶん昔の話になるけれど、東大法学部教授だった京極純一先生が一九八0年に広島大学でおこなった講演「大学と学問」のなかで「授業の現場で申しますと、授業中に学生がのべつ幕なしに出たり入ったり。坐ってこちらを向いていても、聞いているようでもあり、聞いていないようでもあり。後ろの方では横を向いてお互いに楽しくさまざまなおしゃべり」「教壇の上で誰かオジンが何か喋っているようだが、自分とは一切関係ないと、新聞を広げて横を向いて読んでいるというふうな所で何年も何年も授業をさせられますと、いくら授業熱心でありたいと思いましても、だんだんと幻滅してきて、挫折感に苛まれることになり(中略)『授業を大切に』という公式の原理の尊厳は別として『給料の分だけ授業する』という構えが次第に強化されます」と語っている。

もうひとつ「あの・・・・・・ちょっと頼みたいことがあるんだけど」と、初対面、見ず知らずの学生がフランス語の教師に話しかけてきた。くわえてあろうことか、ちょっと、ちょっと、と囁きながら廊下の隅につれてゆこうとする。非礼をたしなめるようにしてこの場でいうようにと口にすると相手の用件はフランス製のなんとかという避妊用具の使用説明書を訳してほしいというものだった。どんな事情からか入手したものの使い方がはっきりしないのでフランス語の教師に訳してもらおうというわけだ。フランス語の先生は教育者として相手の社会常識を正そうとするが、しかしその表情があんまりしれっとしているのを見て唖然としてしまう。松浦寿輝氏のエッセイ「心底驚いたこと」(「文藝春秋」二000年三月)にあったはなしだ。

松浦先生も京極先生とおなじく東大の先生で、避妊用具の訳出依頼は「東大という大学の特別な良質性への信頼の、かすかに残っていた最後の残滓がきれいさっぱり消滅した瞬間」であったと述べている。 

いずれも論ずるのは東大生の実態なのだが、できれば教授陣の実態にも触れてほしかった。それとも今世紀のはじめ頃まで教授陣については良質性が担保されていたのだろうか。

想像するに、京極先生や松浦先生が東大生の実態に呆れ、幻滅しているうちに、当の学生たちはさっさと博士課程へと進学し、しかるべきポストに就いていたのである。その果てに、吉原のソープランドでの接待をおねだりする人材が輩出されるようになったとおぼしい。

 

大田南畝がコーヒーを飲んでいた!

萩原朔太郎「喫茶店にて」に「巴里の喫茶店で、街路にマロニエの葉の散るのを眺めながら、一杯の葡萄酒で半日も暮してゐるなんてことは、話に聞くだけでも贅沢至極のことである」とある。なんだか読むだけで贅沢な気分になる。

これにつづけて著者は「昔の江戸時代の日本人は、理髪店で浮世話や将棋をしながら、殆ど丸一日を暮して居た。文化の伝統が古くなるほど、人の心に余裕が生れ、生活がのんびりとして暮しよくなる。それが即ち『太平の世』といふものである」と述べている。

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人々が床屋で浮世話や将棋に興じていたころ、コーヒーを飲んだ日本人に大田南畝がいて「紅毛船にて『カウヒイ』といふものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず」としるしているが、お口に合わずともこうして感想を残してくれているのはうれしい。南畝は文化元年(1804年)長崎奉行所へ赴任していて、「カウヒイ」はこのときの見聞記にある。長崎で「カウヒイ」を飲んだ人はそれなりにいただろうからほかにも記録があれば読んでみたいものだ。

それはともかく「焦げくさくして味ふるに堪ず」のコーヒーはやがて日本人になじみの味となり、併せてコーヒー文化を受容するようになった。

一九0九年から翌々年にかけてドイツに留学し、コーヒーに親しんだ寺田寅彦は当時を回想しながら「コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であって、それを呼び出すためにはやはり適当な伴奏もしくは前奏が必要であるらしい。銀とクリスタルガラスとの閃光のアルペジオは確かにそういう管弦楽の一部員の役目をつとめるものであろう」と述べている。(「コーヒー哲学序説」)

また寅彦には「すきなものいちごコーヒー花美人ふところ手して地球見物」という歌がある。

わたしも寺田寅彦が説くようにコーヒーには「適当な伴奏もしくは前奏が必要」としてほぼ毎日喫茶店でコーヒーと読書と音楽の時間を過ごしていたのだが、新型コロナでずいぶん変わった。家にずっといられない、酒はともかく珈琲の家飲みは不要、読書は喫茶店で、と決めていたのになんのことはない自宅での珈琲もなかなかよいと知った。

映画館へ行くときは喫茶店とセットなのがうれしい。喫茶店、映画、晩酌の三点セットじゃないと映画をみた気分にならない。作家でフランス文学者の山田稔氏は『シネマのある風景』に「映画はすべて映画館でみる。家を出て、映画をみて、一杯やって帰宅するまでが私の『映画』である。ビデオは映画のうちに入れない。この態度を当分は頑迷にまもっていきたい」と書いていてわたしは大いに共感している。

淀川長治さんの自伝に、氏のお姉さんが喫茶店をしていた記述がある。大正時代のことでミルクホールと呼ばれていたころ、淀川さんのお姉さんはオリオンというミルクホールを経営していた。十五坪くらいの小さな店はいつもいつも客でいっぱいだったそうだ。

メニューははじめミルクとジャムパンだったがやがてコーヒーとドーナツになった。つぎにレコードをかける、メニューが多彩になる、こうして「小さな社交場」が誕生した。ほかにもクラシック専門やジャズ専門の音楽喫茶ができていた。大正の終わりから昭和になって花開いた喫茶店文化である。

見知らぬものを口にするときはそれを正当化してくれる理由があれば気持が楽になり、ハードルが下がる。手っ取り早いのは身体によいという理由で、 そのむかしコーヒー豆は胃薬や睡魔防止のためによいといわれていた。 獅子文六「『可否道』を終えて」には「コーヒーは古来薬物といわれ、健康を増進こそすれ、害のあるものではない。悪いのは、砂糖である。砂糖が胃を悪くする」とある。時間は前後するが寺田寅彦は「始めて飲んだ牛乳はやはり飲みにくい『おくすり』であったらしい。それを飲みやすくするために少量のコーヒーを配剤することを忘れなかった」と書いている。珈琲も牛乳もお薬、身体によいと納得して口に入れた事情がうかがわれる。

ちなみに梅田晴夫『珈琲』によれば、今日のようなコーヒーの味わい方を一般の人間が知るようになったのは一五五一年にコンスタンチノープルで世界最初のコーヒー・ショップが開店して以来なのだそうだ。

ついでの話で、カレーライスが渡来した明治のはじめ、一部に西洋おじやと称されていた。薬用ではなく日本の料理からの類推で、受け入れやすくしたわけだ。

いまではスターバックスドトールで高校生が勉強したり、だべったりしている。ありふれた光景だが一九六九年に高校を卒業し大学へ入ったわたしはときに、うらやましいなという気になる。そのころ地方では(おそらく都会でも)高校生が喫茶店にはいるのは禁止で、見つかれば生徒指導の対象になった。

東京の出身で、昭和三十三年に京都大学に入学した詩人の清水哲男氏が、大学生になってからコーヒーに親しんだ、そのころは敗戦の「余寒」で、中学生や高校生がコーヒーを飲むなどという日常はなかった、腹のたしにもならないコーヒーよりも素うどん一杯のほうへと心が動いた、と体験を語っている。

昭和三十年代「三丁目の夕日」のころコーヒーは酒や煙草とおなじように大人の占有物であり、高校生の喫茶店禁止は、酒や煙草、コーヒーを嗜むなど、大人社会への参入はまだ早いという宣告だった。

わたしは大学生になりコーヒーを親しむようになった。振り返ると喫茶店は大人への入口だった。

 

 

 

新宿シティハーフマラソン

1月25日、日曜。新宿シティハーフマラソンを走った。8:30スタート。ことしはじめてのレースである。

早朝5時起床。軽いストレッチと筋トレ、歯磨きと髭剃りのあとシャワーを浴びる。朝食はマーガリンとあんのコッペパン、それにダイコン、ニンジン、小松菜、エノキ、厚揚げからなる味噌汁。

レースの朝の心配というかいちばん気を遣うのは大のほうのトイレだが、さいわい食後すぐに不安は消えた。

北陸、東北では雪害が憂慮されており、寒気は関東にも流れ込んできていて、厳しい寒さだ。ウェアーはランパン、スパッツ、Tシャツにしたいところだが、走る時間の長い老骨は身体を冷やしたくないのでそうもゆかない。やむなくタイツをはき、上半身は長袖のシャツにアスリートビブスをつけたTシャツを重ね着した。

そうしてYouTube中川家のお笑いでリラックスさせてもらい、7時前に家を出て地下鉄銀座線外苑前駅に向かい、7:30国立競技場着。

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きょうのコースマップは国立競技場~明治神宮外苑~新宿三丁目~神楽坂~市谷~四谷~神宮球場~国立競技場。やはりスタートとフィニッシュで国立競技場のトラックを走るのは嬉しい。おかげさまでぶじ完走できました。

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苦しさはある。走りの才能はない。それでも走るよろこびはある。いつかはレースを断念し、走りと別れなければならないときはやってくる。けれど、この感覚は残ると信じている。

沿道に太鼓、篠笛、鉦からなる祭囃子のグループがいて、その演奏が走りにアクセントを添えてくれ嬉しかった。また青山学院大学原晋駅伝監督のモノマネをする方がいて笑いと勇気をいただいた。「いい走りしているよ、あと5キロ、その調子をキープしよう。それそれそれそれそれ!」

本日のフィニッシュ記念品は、スポーツタオル、和風手ぬぐい、ドリンク。Tシャツ、スポーツタオルを主としてずいぶんマラソングッズが貯まっているけれど断捨離の勇気はない。

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このあとは2月東京マラソンに向けたコーチング付き練習会(於早稲田大学所沢キャンパス)、3月東京マラソン、4月豊洲ベイサイドマラソンと続く。

お昼前に帰宅してNHKEテレの囲碁対局、続いてJスポーツで静岡ブルーレブスvsトヨタヴェルブリッツラグビーを観た。トヨタは可もなく不可もないとしか言いようがなく、荒ぶる度合はだいぶん静岡が優っていた。

さあ、ここで大相撲千秋楽幕内の時間が近づいたが、そのままテレビのまえに居座るのはもったいない。本を読み、できれば落語を一席聴いたあと晩酌しながら大相撲を楽しみたい。お酒のあとに本は読めない。いま読んでいるのは山川菊江『覚書 幕末の水戸藩』(岩波文庫)。本書とイヤホーンとスマホを提げて喫茶店に向かった。安青錦の優勝を確信しながら。

NHKの中継が終わったあと帰宅し、晩酌をしながらパソコンで放送を後追いした。

祝 安青錦二場所連続優勝。晩酌の焼酎のお湯割り、ことのほかよし。