ああ松茸!

雨の日午後。緊急事態宣言前であれば晴雨にかかわらず午後は喫茶店へ行こうか、映画にしようか、ともかく外に出ようとしていたのに、いまは自室で音楽を聞き本を読むなどしてステイホームをたのしんでいる。それに宣言が解除になったといっても高齢者には不安が大きい。

きょうはルイ・アームストロングを聴きながら山頭火の日記その他を読んだ。ホットファイブやオールスターズの演奏、エラおばさんとのデュエットなどルイ・アームストロングを堪能した。

 山頭火の日記に「閑愁」という語があった。前後に文章はなくぽつりと置かれてあり、俳人の造語と見当をつけて調べてみるとれっきとした漢語で漱石漢詩に用いていた。閑居閑暇などのとき生じる物思いの意だから徒然に通じている。

閑愁漂うなかA X Nという海外ドラマ専門チャンネルを契約してアトランダムに視聴している。お気に入りは「CSI:科学捜査班」でシーズン3を終えた。四十五分で短篇小説をひとつ読むような感じかな。ラスベガス警察の鑑識課捜査員キャサリン役のマーグ・ヘルゲンバーガーという女優さんがかっこいい。気がつくと物語追うのを忘れて彼女の表情に見とれていたりする。

海外ミステリーが好きだからテレビドラマも海外作品に目が向きやすいのは相変わらずだが、ステイホームのおかげで日本のテレビドラマもぽつぽつみていて、なかでも時代劇がよくてこれぞ独壇場、他国の追随を許さない。当たり前か。森繁久彌西郷輝彦尾上菊五郎の半七捕物帖、松本清張原作の時代物、多岐川恭原作の人情物、そうしていま要潤の人形佐七捕物帖を録画している。

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吉村昭『街のはなし』(文春文庫)ははじめ雑誌「クレア」に「箸袋から」の総タイトルで連載されたエッセイ集で「小料理屋などで飲んでいる時、ふとエッセイの素材を思いつくことが多く、忘れぬように箸袋にボールペンなどで書きとめる」のに由来している。

著者は「鳥肌が立つ」を涙が出るほどに感動したという意味で使う方がいて、苦言を呈している。小料理屋の箸袋に書かれた話題かもしれない。本来は寒さや恐怖などによって、皮膚に鳥肌があらわれる意味だから感動に用いるのは誤用で、日本の選手がメダルを獲得し表彰台で日の丸を仰いだときの感想を「それは、日本人にとって鳥肌が立つ一瞬でした」などといったら、まさに鳥肌が立つであろう。

わたしにも「箸袋」に相当するメモがある。退職して十年、このブログを書き継いでいて、記事になりそうな素材をスマートフォンにメモしている。

ブログを書く意欲、気力は減退気味で、もう止そうかと思うときもあるが無職渡世の年金生活者には時間の活用とともに認知症予防の一助にでもなればありがたいとなんとか続けている。継続はわが「箸袋」の充実からだ。

ついでながら吉村昭は「図書館」というエッセイに(『私の引出し』所収)「故人となった或る著名な脳学者が、常に文字にふれている人間の頭脳が最も冴えるのは平均七十二歳で、それを峠に徐々に機能が低下してゆく、と語った。文字と無縁の人間が、五十四歳を峠に急速に低下するのと対照的だ、とも言った」と書いている。本を読み、ブログを書いている当方には希望があるような、そうでもないような話だな。

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東映チャンネルで「博奕打ち総長賭博」を鑑賞した。三島由紀夫ギリシア悲劇の風格をもつ任侠映画と激賞した作品は何度みても粛然たる気持になります。今回気づいた一点、ラストシーンで中井信次郎(鶴田浩二)にたいする判決文に「職業博徒」とあった。時代は昭和十年、博徒は職業として公認されていたのだろうか?

このあと山頭火の日記を読んでいると「食べる物、飲む物がいよいよますますうまくなる。松茸と酒、酒と松茸、ああ松茸、ああ酒!」(昭和十三年九月二十二日)とあり、「博打打ち総長賭博」のころ、貧しい行乞の僧の食卓にも松茸はあり「松茸、松茸の香は追憶をかぎりなくひきいだす」のだった。

おなじく同日記より。

「秋いよいよ深し。松茸を焼いて食べ煮て食べる、うまいな、うまいな」「ちよいと一杯が三杯となつた!ほろ酔のこころよさ!茶の花がうつくしい、熟柿もうまい」「午後、湯屋へ、ばらばら雨に濡れながら。今日は宮市の花御子祭ださうな、昔なつかしいおもひにうたれる。おだやかな夕暮、よき眠あれ」。

記憶では一九八0年前後に山林を所有する知人から松茸を頂戴して口にしたのがいまのところわたしの直近の松茸体験である。知人は数年後故人となったからもう恵贈はない。

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丸谷才一『横しぐれ』は語り手の「わたし」の父と友人の黒川先生とが、むかし道後の茶店で酒飲みの乞食坊主と行き会ったという話があり、もしかしてその乞食坊主は山頭火だったかもしれないと疑問を抱いた「わたし」は山頭火の日記をはじめとする資料を探索し、想像をめぐらすうちに父の、家族の、そして「わたし」の思いがけない過去の姿が立ち現れてくる、といった小説で、この名篇を読んで以来「うしろすがたのしぐれてゆくか」の種田山頭火(1882-1940)は気になる存在となった。

調べてみると『横しぐれ』は一九七五年に刊行されていて、わたしが読んだのは松茸を頂いたのとおなじ一九八0年前後とおぼしく、四十年近く山頭火の著作を手にしないままに気になる存在なのだった。ところが過日電子本の目録に『種田山頭火全集』があり、すぐに購入して気楽に覗いているうちにぐいぐい引き込まれた。百円か二百円だったからこのうえないコストパフォーマンスだ。

句集、随筆、日記の三部構成で、わけても大部の日記は、この俳人が日記を遺していたことすら忘れていたわたしを、魅惑の鉱脈を探り当てた気分にさせた。いちばんの魅力は折々に漏らした所感で、これを編めば警句、金言集になるだろう。いくつか載せておくが、そのまえに萩原朔太郎アフォリズムについての所論をみておこう。

アフォリズムとは、だれも知る如くエッセイの一層簡潔に、一層また含蓄深くエキスされた文学(小品エッセイ)である」「それは最も暗示に富んだ文学で、言葉と言葉、行と行との間に、多くの思ひ入れ深き省略を隠して居る」「アフォリズムはそれ自ら『詩』の形式の一種なのである」(萩原朔太郎「ニイチェに就いての雑感」より)

以下、山頭火アフォリズムを五つ。

「一杯の酒は甘露だった、百杯の酒は苦汁(にがり)となつた」

「貧乏はよい、しかし貧乏くさくなることはよくない」

「おだやかに、けちけちせずに、つつましく、くよくよせずに」

「私は与へることが乏しい、だから受けることの乏しさで足りてゐなければならない」「不幸はたしかに人を反省せしめる、それが不幸の幸福だ、幸福な人はとかく躓く、不幸はその人を立つて歩かせる!」

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老いをみつめる山頭火の日記はことし古稀を迎えるわたしにはいまが読みごろで、若いときだったら通読できなかったかもしれない。

「私にはもう、外へひろがる若さはないが、内にこもる老ひはある、それは何ともいへないものだ、独り味ふ心だ」(昭和九年十二月八日)。

内にこもる老いとして俳人がみつめるのは食欲と性欲だ。

「性慾がなくなると、むなしいしづけさがやつてくる。食慾がなくなると、はかないやすけさがやつてくる」「性慾はなくなつた、食慾がなくなりつつある、つぎには何がなくなるか!」(昭和七年六月十一日)

「一杯やりたい慾望、性慾のなくなつた安静。私の生活もいよいよ単純、簡素、枯淡になつた」(昭和八年六月十九日)

そしてわたしも自身の欲望を思う。

食欲はお酒とあいまって好調をキープしているけれどもうひとつは複雑だなあ。老いとともに身体の機能が衰えるのは致し方ないにしても、欲も衰えるとは限らない。性欲がなければないで安静になってよろしいけれど、なくなって「むなしいしづけさ」がやって来る保証はない。身体は思うにまかせないのに欲望の埋み火はちょろちょろ燃えている状態だってありうる。

谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』の日記の書き手である督助老人はバイアグラといった妙薬も助けにならない御仁であるが性欲は旺盛で、元ダンサーで脚の美しい息子の嫁に懸想する、枯淡などお呼びでない脚フェチの爺さんである。

わたしの行く先は、おだやかにつつましい安静枯淡、それとも『瘋癲老人日記』の世界か。

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七月八日。去年の参議院選挙をめぐる選挙違反事件で、東京地検特捜部は河井克行法務大臣と妻の案里参議院議員が、地元議員らに票の取りまとめを依頼し、現金を配ったとして公職選挙法違反の買収の罪で起訴した。特捜部が起訴した買収資金の総額は二千九百万円余りに上っている。これにたいし安倍首相は「かつて法相に任命した者として責任を痛感し、国民に改めてお詫び申し上げたい」と述べていた。これまで責任を痛感するといって責任を取ったためしはないからいまさら反応する余地はないが、「かつて」にはちょっとばかし反応した。法相任命を遠い過去の話にしたい心の底が透けてみえる「かつて」である。それともこの人の「かつて」は「つい先日」の意味なのだろうか。

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七月九日都内で新たに二百二十四人が新型コロナウイルスに感染し、四月十七日の二百六人を上回りこれまでの最多となった。高齢者は重篤になりやすいと聞くから余計に不気味だ。

緊急事態宣言が解除になったので一週間に一度くらいは喫茶店で本を読もうとしても東京都での新型コロナ感染者数のニュースに接すると心が萎えてしまう。毎日の上野公園でのジョギングのリスクは許容してもこの感染者数では喫茶店へ行く勇気はなかなか湧いてこない。 わたしが臆病すぎるのかしらん。

若い友人の勤務先が池袋で、気を付けて、とメールしたところ、こちら危険なのでお近づきにならないようにとご注意があった。老いては若者に従う。

こうしたなか大規模イベント参加人数の上限が千人から五千人となり、制限付きとはいえプロ野球にも観客が戻って来た。下流年金生活者には関係のない話なので貧乏もときには気楽でよいが、他方でなんらかのイベントに出かけたい方は、感染状況を睨みながら心配し、迷っておられるだろう。

都知事官房長官は感染者数が増えたのは夜の繁華街を主に検査数を増やしていることも一因といっている。経済の運行に重心を置こうとしていろいろと理屈を述べておられるのだろうが、説得力があるとは思われず、安心感が増すこともない。

二十二日からは国内旅行振興策のGoToキャンペーンが予定されているが、感染者数が増加するなかでの旅行は消費者の度胸に期待するほかなく、夜の街は賑わっているそうだから人々の勇気は大したものだとしても蛮勇頼みの経済運営は危険だし長続きしないだろう。

夜の街といえば萩原朔太郎に「居酒屋の暗き床をばみつめつつ何思ふらむかかる男は」という一首があった。居酒屋をホストクラブやキャバクラに置き換え、男女問わずにすれば、いまの状況になる。政治家は自身を安全地帯に置いて、特定の業界をあげつらうのではなく、「何思ふらむ」と向き合ってみてはいかがか。

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トランプ大統領の姪が暴露本を出版し、なかに替玉大学受験なんかの話があるそうだ。姪はテレビのインタビューで辞任を求めていた。

先日はボルトン前補佐官が、トランプ氏や政権を支える面々がどれほどクズかとこき下ろした本を出したばかりだ。この現象についてわたしは、商売には大統領在職中が 都合がよいと踏んでの駆込み出版と解釈した。それだけ再選に疑問符が付いているわけだ。

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全国一斉でGoToキャンペーンをやりますといっておいて後から東京都は外します、キャンセル料は負担しませんというのはジャンケンでいえば後出しにほかならず、卑怯極まる行為である。批判を受けてキャンセル料は国が負担するとなったがこれとても税金が用いられるから、稚拙な制度設計が国民に余計な負担を強いる結果となった。GoToキャンペーンを利用する気のない貧老(わたし)にとっても腹立たしい。

ズルをするな!はまっとうな保護者ならしっかり教え込むことがらなのに国土交通省の大臣や役人は教わらなかったのだろうか。それとも首相がズルの塊のような方だから、ジャンケンの後出しくらいは大したことないとタカを括っていたのか。

「信無くば立たず」。昔はよく政界で語られた言葉で、わたしはこの言葉を発する政治家には格好つけるな!と胡散臭さを感じたものだが、聞かれなくなるとこれはいかんなと思う。日本の政治でこれほど「信」をないがしろにする内閣はわたしの知る限りほかになく、いささか原理主義的かなと承知しながらも、政府推奨の新型コロナ接触確認アプリについても不信の目で見ている。

いまこれを書いている七月二十三日、東京で三百六十六人の新型コロナの感染者が確認された。昨日東京都の新型コロナウイルスのモニタリング会議では杏林大学の山口芳弘先生が専門家の立場から「国のリーダーが言っている『東京の医療はひっ迫していない』というのは誤りだ。医療体制がひっ迫していないから遊びましょう、旅をしましょうと言うことが、これだけ疲弊している現場の医療従事者にどういうふうに響くか、想像力を持っていただきたい」と指摘していて、ここでも政治における「信」のありかたが問われていた。

なお別の報道にあった山口先生の発言は以下のとおりで、わたしは胸が熱くなった。

「赤(モニタリングの指標で最も悪い段階)ではないが、医療関係者をはじめ都の職員、保健所、ホテル、様々な人の努力や苦労によってオレンジ(の段階)で踏ん張っている、こらえていると知事にはご理解いただきたい。こうした現場の労苦に対する想像力を持たない方に、赤ではないということで『大丈夫だからみなさん遊びましょう、旅しましょう』という根拠に使われないことを切に願います」

医療従事者にさらに負荷を掛けてはならないのは当然だが、現実はコロナ患者を受け入れた病院は赤字が拡大し、あろうことかボーナスカットが相次いでいる。医療従事者に感謝をというなら、コロナ患者を受け入れた病院ぐらい赤字にならないよう、勤務する方々には例年より多いボーナスを貰えるようにするのが政府の仕事ではないか。 GoToキャンペーンのキャンセル料やアベノマスクの経費がここに使われていればと思わざるをえない。

レジスタンスとコリンヌ〜コリンヌ・リュシェール断章(其ノ七)

コリンヌ・リュシェールは戦時中ナチス高官の愛人だったとされ、戦後市民権剥奪十年の判決を言い渡された。対独協力者の娘、「ナチの高級売春婦」の反対側にあったのはナチス占領下におけるフランスのレジスタンスだった。

そこでは、イギリスからド・ゴールが抵抗を呼びかけ、大多数のフランス国民がそれに応え、フランスを解放したとされ、以後国家のお墨付きをえた歴史となった。これを基準にジャンとコリンヌのリュシェール父娘は裁かれた。

しかしほんとうに大多数のフランス国民はレジスタンスに参加してフランスを解放したのかといえば政治的なフィクションといわざるをえない。

戦争中フランス国民は一枚岩でナチスに抵抗していたというのはレジスタンスの「神話」であって、けっこう多数のフランス国民はナチスに協力していて、それなしにフランスの占領はスムーズにはこばず、ナチスが敗北するとたちまちのうちにドゴール派に寝返った人も多くいた。

 またドイツとの関係においてもレジスタンスとコラボレーター(利敵協力者)の二者択一はあまりに無謀な分類であり、そのあいだにはさまざまの考え方があったはずで、ジャン・リュシェールの問題も単純に対独協力者としては片づけられない複雑な要素を含んでいた。

コリンヌを愛人にしたと噂されたオットー・アベッツドイツ大使に仕えた一等書記官のアッヘンバッハは、鈴木明に、パリにいる狂信的なナチス親衛隊(SS)は何をやらかすかわからなかった、できるだけの力で独仏の衝突をやわらげ血を流さず、パリを破壊から救うことをアベッツは志しており、コリンヌの父ジャンもそれに協力していたと語っている。

コリンヌ・リュシェールの薄倖の背後には大戦下のフランスとドイツをめぐるさまざまな政治的問題があり、コリンヌ自身はそれらの事情にまったくうとい非政治的な女性であったが、有名な女優という事情がジャーナリズムの好餌となりスキャンダラスを増幅させた。こうしてわたしの目に彼女はレジスタンスという「神話」に捧げられた生贄と映る。

ここで「リヨンの虐殺者」クラウス・バルビーの裁判を取り上げてみよう。

バルビーはリヨンでのゲシュタポの責任者としてユダヤ人への容赦ない追求をおこなったあげく、戦後は米国陸軍情報部に保護され、ヨーロッパにおける反共運動専門の工作員として暗躍し、その後、米国の庇護のもと南米ボリビア軍事独裁政権のために尽力した。

のちにフランスに引き渡され一九八七年に終身刑を受けたが、この裁判でバルビイの弁護にあたったヴェルジェルス弁護士は「フランスが今日もなお真実ではないお仕着せの公式の真実のなかに生きているのは、それ自体がうそ」であって、うその極致とはしばしばフランスが何かといえばもてあそぶ「抵抗の神話」なのだと述べた。

ヴェルジェルス弁護士の発言はバルビイ裁判を追ったすぐれたルポルタージュ藤村信『夜と霧の人間劇 バルビイ裁判のなかのフランス』(岩波書店)にあり、バルビイを擁護する立場にはない著者の藤村自身も、戦争と占領のあいだフランス国民は一枚岩でナチスに抵抗していたというのは歴史の事実に反するものであり、それどころか「バルビイの成功の陰にはつねにフランス人協力者の姿がみとめられたし、協力者のなかには利得と暴力をむさぼるためではなくて、確信をいだいてナチスイデオロギーに献身するものも数多くありました。協力者は占領時代にあっては、むしろ『正統』的な存在でさえありました」と述べている。

大多数のフランス国民はナチスに抵抗して第二次世界大戦を戦い抜いたが、一部にナチスにたいして節を枉げ膝を屈して協力した非国民がいた、という歴史像は事実に照らすと政治的思惑のためにする像とならざるをえない。現実にはナチスによるフランス占領はたくさんのフランス人の協力により支えられていたのだった。

ちなみにバルビーについてはケヴィン・マクドナルド監督「敵こそ、我が友 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~」という二00八年に公開されたドキュメンタリー映画があり、元ナチスの親衛隊員だった男が戦犯として裁かれることなく、いかにして生き延びたかを追っている。

戦後、政権を握ったド・ゴールを指導者とする対独レジスタンス派は大多数のフランス国民はナチスにたいしレジスタンス運動を展開して戦ったという歴史像を描き、対独協力者の一部を非国民とした。政治的神話が言い過ぎであるとしても少なくともここには勝利者が歴史をあとから描き直した一面がある。この観点から対独協力者への裁判をみると、非国民だから死刑を含む応報の刑を受けるのがあたりまえという論理には相当の無理がある。

とすればコリンヌ・リュシェールをふくむ戦時中の対独協力者への裁判が複雑な様相を帯びるのはあきらかだろう。象徴としていえばバルビーは重用され、コリンヌは生贄とされたのである。レジスタンスの底に押し込められたコリンヌに歴史学が光をあてるよう願うばかりである。

たとえナチスの高官や将校と関係する環境にあっても国のおかれた状況をわきまえた行動もありえたのではなかったかと考える人もいるだろう。ヴェルコール『海の沈黙』で自宅をドイツ軍の公館とされたヒロインは、おなじ一軒家で暮らすこととなり、やがて彼女に恋したドイツ軍の若き将校に沈黙で以て応じつづけた。複雑な感情を抱きながら彼女は、将校が軍法会議に召還されフランスを去る、その別れの瞬間にたったひとこと「アデュー」(さようなら)とつぶやいた。そこには占領下の国民の自負と節操がある。フランスレジスタンス文学の傑作と評価される所以であり、たいしてコリンヌは政治の力により自負と節操をもたない女性とされたのだった。(おわり)

 

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「最後の曲り角」についてのノート〜コリンヌ・リュシェール断章(其ノ六)

ジェームズ・M・ケイン郵便配達は二度ベルを鳴らす』は一九三四年に出版されて以降、一説によるとこれまで七回映画化されたそうだが、なかでわたしが知っているのは以下の四作品だ。

1 一九三九年ピェール・シュナール監督、フェルナン・グラベ、コリンヌ・リュシエール。以下の三作品は原作名で映画化されているが、本作だけが「最後の曲り角」とされている。

山田宏一の名著『美女と犯罪』によれば、フランスでは『郵便配達』が刊行された直後からジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィェ、マルセル・カルネの三巨匠が映画化を企図していたがピェール・シュナールが映画化権を獲得、そうしてゆきずりの男とともに夫を殺害するコーラ役に起用したのがコリンヌ・リュシエールだった。

2 一九四二年ルキノ・ヴィスコンティ監督、マッシモ・ジロッテイ、クララ・カラマイ

3 一九四六年ティ・ガーネット監督、ジョン・ガーフィールドラナ・ターナー

4 一九八一年ボブ・ラファエルソン監督、ジャック・ニコルソンジェシカ・ラング

このうち234はDVDになっているが、1は日本ではむかし民放の深夜番組で一度放送されただけと聞いている。

わたしも知らなければ済んだものを知ったがために長いあいだあこがれつづけていた。ところが二0一六年のクリスマスの日にある方からYouTubeにアップされているとのお知らせをいただきようやくみることができた。そのときのことを本ブログ二0一七年一月五日付「年末年始」から関係する箇所を引用しておこう。

《「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のさいしょの映画化は一九三九年ピエール・シュナール監督の「最後の曲り角」だった。このフランス版のあとにイタリアでルキノ・ヴィスコンティが一九四二年に、アメリカでティ・ガーネットが一九四六年に、おなじくボブ・ラフェルソンが一九八一年にリメイクをした。

本ブログ二0一三年五月七日の記事にわたしは、リメイク版はいずれもビデオ化されているのに「最後の曲り角」だけは片鱗すら現れず、二十年以上あこがれつづけていると書いた。小林信彦『小説探検』には「三九年のフランス映画版を観ている人を知らない」とある。ところが、クリスマスの日、この記事に「はじめてコメントします。最後の曲り角 Le Dernier Tournant のコリンヌ・リュシエールは、なんだか、恐怖のまわり道 Detour のアン・サヴェージを思わせて、私は魅力を感じませんが、あの物語には合っているかもしれません。原作に忠実で、殺されるミシェル・シモンは例によって素晴らしく、殺し場の緊張感や、ドライブイン前の風景、乱闘シーンの迫力など、見どころの多い作品です。今ではYouTube にアップされています」というコメントが寄せられた。思ってもみなかったクリスマスプレゼントをいただいた驚きと感激、そうしてこれまでの映画鑑賞歴のうえではまさしく「事件」である。

字幕はないけれどジェームズ・M・ケインの原作を読んでいればなんとかなります。作品については上のコメントにあるとおりでコリンヌ・リュシェールは清純派の女優が背伸びして悪女を演じている印象。あこがれの未見の必見作のお知らせに多謝!》

先日YouTubeで Le Dernier Tournantを検索してみたところ映画全篇のアップははなくなっていたが、一部をアップしたのが数本あった。関心のある方はあたってみてください。

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「格子なき牢獄」〜コリンヌ・リュシェール断章(其ノ五)        

わたしがはじめて「格子なき牢獄」をみたのはNHK教育テレビ「世界名画劇場」での放送だった。おそらく一九七七年一月に遠藤周作がゲスト出演したときの番組だったと思われるが、遠藤周作吉田喜重が対談していた記憶はまったくないからあるいは別の日の放送だったかもしれない。

そのときは戦前に一世を風靡した映画を鑑賞できた満足感は残ったがとくにコリンヌ・リュシェールに関心はもたなかった。ところがなにかの折に彼女がナチスに協力した女優だったという情報に接して心に留めるようになった。以前から日中戦争下で日本に協力した漢奸と呼ばれる人たち、とりわけ魯迅の弟の周作人への関心が微妙に影響していた。

それはともかくとして、ここで「格子なき牢獄」のあらすじを紹介しておこう。

作品の舞台は感化院。着任した院長イヴォンヌ(アニー・デュコー )は徳で以て不良少女を善導しようとの意志の持ち主だ。ある日、彼女が院でもとくに反抗的な少女ネリー(コリンヌ・リュシェール)に外出の用向きを頼んだのも信頼を示すためだった。

周囲はネリーの帰院を危ぶみ、疑ったが、彼女は逃げたりはせず、これを機にネリーは自分に信頼を寄せてくれた院長にだんだんと心を開いてゆく。

まもなく院にイヴォンヌの恋人ギー(ロジェ・デュシェーヌ)が医師として赴任する。ネリーはギーに恋心をいだくようになる。それを知ったイヴォンヌは気の毒な娘をいたわってやるようギーに頼む。やがてギーのほうもネリーに心を寄せる。イヴォンヌは自身の恋を断念してネリーとギーを祝福するのだった。

ギーが登場してからの筋の運びは古めかしいけれど、なによりもコリンヌ・リュシェールとアニー・デュコーのふたりの美人女優の共演が魅力で、とりわけ日本ではコリンヌが評判を呼んだ。

一九三八年と三九年に彼女は「格子なき牢獄」のほかにアニー・デュコーと共演した「美しき争ひ」、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を原作とした「最後の曲がり角」、「第三の接吻」に出演した。

一九八八年に週刊文春がおこなった「わが青春のベスト・アイドル150」のアンケートで、コリンヌは海外女優部門第三位となっていて、戦中派、昭和ひとけた世代にとって彼女がどのような存在であったかをよく示している。すべては「格子なき牢獄」の鮮烈な輝きだったとして過言ではない。そして彼女は第二次世界大戦前の日本で信じられないほどの眩しい光を放った最後の外国人女優で、一瞬の輝きのあとは戦争により消息は絶たれた。

第二次大戦後報じられた戦中、戦後のコリンヌの生活は惨憺たるものだったのは先にみたとおりだ。もっとも獄中死亡説からアルジェでの娼婦説までいろいろな情報があって、ほんとのところどうだったのかは不明だった。

明らかにしたのは鈴木明『コリンヌはなぜ死んだか』であり、管見するかぎり日本語の文献としてはもっとも充実した評伝であり、あるいは彼女への関心の薄れたフランスでもこれほどの著作はないかもしれない。

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戦時の若者たちとコリンヌ〜コリンヌ・リュシェール断章(其ノ四)

第二次世界大戦後、コリンヌ・リュシェールとナチスとのかかわりは日本にも伝えられた。ところがフランスやアメリカとはちがってこの国では忌まわしい女優とはならなかった、少なくとも忌まわしさの一色には染まらなかった。 『コリンヌはなぜ死んだか』にある書き手の思い入れをたっぷり注入した感傷的な新聞記事はそのことをよく語っている。

「戦前百万の日本の若者の”恋人”となって胸を焼いたあのせん細な美貌は、もうこの世にいない」「こうして”格子なき牢獄”を地で行った彼女は、裁判から五年目のいま、さびしく、幸うすき二十九年間の生涯を閉じたのである。あのせん細な魅惑的な容姿を再び開くことなしに……」。

もうひとつ中井英夫の所感をあげておこう。

一九二二年生まれの作家中井英夫はコリンヌが対独協力の廉で薄幸薄命の人生を送ったと聞かされたとき「妙に腹立たしく、特別弁護人か何かになって、いかに彼女の不良少女ぶりが魅惑的で美しかったか、それが戦争中の日本ではいかに得がたい貴重な喜びだったかを一席ぶちたい気持に駆られた」という。

もうひとり敗戦直後に「格子なき牢獄」をみた野坂昭如(一九三0年生まれ)は、昭和二十七八年ころある雑誌記事で「戦前、その清純な姿態で、わが国にもファンの多かったフランス女優コリンヌ・リュシェールさんは、ナチスドイツのパリ占領中、情報将校の情婦となって、一児をもうけた。パリ解放後、リュシェールさんは対ナチ協力のかどで、頭を丸坊主にされ、映画界から追放、流れ流れて、今はどうやらアルジェリアにいるらしい。しかも、下級船員、労働者を客とする最下等の娼婦にまでおちぶれ、さらに結核をわずらって、往年の容色はまったくなく、さながら幽鬼の如き姿」となっていると知り、結核なら薬を送ろう、アルジェで悲惨な生活を送っているならお金を貯めてアルジェへ行って救出しよう、ナチスドイツの非人道的行為は憎む、しかしどうして惚れた相手がレジスタンスの闘士ならよくてナチスの将校だったら非国民になるのか、と憤慨と同情を示した。

永井荷風の口吻を真似ていえば、糾弾されるべきは口に正義人道を唱え、裏で色と欲にまみれたエライさんであり、ナチス高官の愛人、妾、二号など何ほどのこともないのだった。

コリンヌが戦後にアルジェで娼婦となったという話は淀川長治吉行淳之介の対談「こわいでしたねサヨナラ篇」にもある。

 

吉行 ぼくは少年のころからコリンヌ・リュシェールが好きでしてね。

 淀川 いいですね。

吉行 それがいつもアニー・デュコーとセットでしてね。「格子なき牢獄」、その次の「美しき争い」。だんだんアニー・デュコーのほうがよくなってきて。コリンヌ・リュシェールは骨が固いみたいな気がしましてね。

淀川 でも、きれいでしたねえ。

吉行 ナチスに協力して、戦後売春婦になったらしいですね。買いに行きたかった(笑)ちょっと少年っぽいきれいさでしたね。

 

なお、野坂昭如「コリンヌ・リュシエール」は「朝日ジャーナル」昭和四十八年八月三十一日号、淀川、吉行対談は「小説新潮」昭和五十年四月号がそれぞれ初出で、ともに和田誠編『モンローもいる暗い部屋』(新潮社)に収められている。

戦前戦中の日本の男たち、とりわけ二十世紀の二十年代から三十年代はじめに生まれた男性にとってコリンヌはたんなる人気女優ではなく琴線に触れるなにかがあった。かれらの琴線には戦争が翳を落としていたのはたしかだろう。コリンヌは若い兵士や学徒出陣の学生たちの心情に訴えかけるなにかをもっていた。そして「格子なき牢獄」に兵営を思った若者にコリンヌはなぐさめであり貴重な喜びであった。

コリンヌ・リュシェールという存在は多くの若者たちをなぐさめ、「戦争中の日本ではいかに得がたい貴重な喜び」をもたらした。その記憶は彼女を忌まわしい女優ではなく悲運、薄幸の女優としたのだった。

一九七七年一月に「格子なき牢獄」がNHK教育テレビで放送された。番組には作家の遠藤周作がゲスト出演し、ホスト役だった映画監督の吉田喜重に「(コリンヌ・リュシェールは)われわれの青春時代の象徴である」といった趣旨の話をした。それにたいし吉田喜重が、彼女は戦争中ナチスドイツの高官の思い者になり、戦後、戦争裁判にかけられ獄中で病死をしていますと語ると遠藤は「そうですか」としばらく絶句し、目のやり場を失ったようだったという。

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「ナチの高級売春婦」の実像~コリンヌ・リュシェール断章(其ノ三)

「嘗て、その美しさと特権によって、ドイツ占領者たちに讃美され、喝采をあびてきたフランス女優ーナチの高級売春婦・カリン・ルチア(コリンヌ・リュシェールの英語読み)は(中略)いまや“国家侮辱犯”として、判決を受けることとなった」

「一九三九年、彼女はその美しい容姿で注目され“格子なき牢獄”は世界的な成功をおさめ、フランス映画界に新風を吹きこんだ。当時のインタビューで“恋愛するには、私は若すぎる”と彼女は答えていたが、それはとんでもない大嘘だった。この時彼女は、既にれっきとしたオットー・アベッツ(駐仏ドイツ大使)の愛人だったからである」

「彼女の父は、娘の高級売春婦としての地位を誇りにし、利用していた男であった。彼はパリの新聞界にのし上り、二人は嘗てフランス人が味わったこともないような華やかな生活を送った」

「いま法廷にいる彼女にかつての美しさはまったくなく彼女の顔は結核と遊蕩に疲れ果てていた。判決が下りたとき、彼女は力なくつぶやいた。“私は幼なかったのに……何も悪いことをしていたなんて、気がつかなかったのに……“」

いずれも『コリンヌはなぜ死んだか』に紹介されている「ライフ」一九四六年六月二十四日号に載った記事で、フランスとおなじくコリンヌはアメリカでも忌まわしい女優であった。

これにたいし鈴木明はコリンヌとオットー・アベッツが愛人関係にあったという確証はなく、二人のツーショットの写真にもとづく悪意ある類推という見解をとっていて傍証も信頼するに足るとわたしは考えている。となると父ジャン・リュシェールが娘をナチス幹部に捧げ、その見返りを受けたとする事実も否定されなければならない。

ジャン・リュシェールは新聞社を経営し、対独協力者でもあり、戦後に銃殺刑を受けた。しかし対独協力の性格についてオットー・アベッツの一等書記官だったアッヘンバッハは鈴木明に、ジャン・リュシェールはオットー・アベッツとともにドイツからの狂信的な連中からパリを守る役割を果たしたのであり「いわゆるコラボレーター(利敵協力者)と呼ばれた人が処刑されたことは、フランスが戦後犯した最も大きな過ちの一つである」と語っている。

ジャン・リュシェールが創刊した「新時代」は対独協力を標榜した夕刊紙で、そのことにより彼はドイツ占領下のフランス言論界において大きな影響力をもつ存在であった。ジャンにはヨーロッパは一体であるべきという信念があり、それがナチスにたいする判断を甘いものにしてはいたが、ナチズムを信奉する人物ではなくユダヤ人の救出にも努めていた。

これには後年の大女優シモーヌ・シニョレの証言がある。彼女はジャン・リュシェールの事務所で秘書を務めていて、その回想録のなかで、事務所にはドイツ軍の横暴や略奪などに苦慮している多くのフランス市民が嘆願にやって来て、リュシェールはそのたびに親身になって相談に乗り、ドイツ軍との折衝に奔走していた、にもかかわら戦後の苦境のなか死刑宣告を受けたジャン・リュシェールにかれらはどれほどのことをしてあげただろうかと憤りを込めて語っている。

戦後、コリンヌの愛人とされたオットー・アベッツは二十年の刑を受けたが一九五三年に恩赦で釈放された。当時のフランス大統領ヴァンサン・オリオールはアベッツの手は少しも血で汚れていないと述べ自動車をプレゼントしたという。とすればアベッツのフランス側パートナーだったジャン・リュシェールが銃殺刑を受けたのは釈然としない。

鈴木明『コリンヌはなぜ死んだか』はコリンヌ・リュシェールの人生について検証する過程とその結果を叙述したノンフィクションであり、調査にあたったのは一九七八年と七九年だった。

この時点でコリンヌの母親と弟、オットー・アベッツの一等書記官だったアッヘンバッハたちは存命で、著者は可能な限り訪ねて面談しインタビューを試みている。関係者の声が拾われたのはいまとなれば極めて貴重で、これらの証言から著者は「ナチの高級売春婦」「国家侮辱犯」とは異なるコリンヌ像を提出したのだった。

異なるコリンヌ像をどう考えるかは人それぞれであり、そのために歴史学の研究成果があればと願うがいまのところそうした研究は目にしていない。

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「忌まわしい女優」の生涯~コリンヌ・リュシェール断章(其ノ二)

コリンヌ・リュシェールの生涯について「別冊太陽・フランス女優」(平凡社、1986年)をもとにたどってみる。

一九二一年二月十一日パリで生まれる。中等教育を三年で止め、俳優、映画監督のレイモン・ルーローから演技を学び、十六歳で舞台にデビューした。一九三八年、十七歳でレオニード・モギー監督「格子なき牢獄」でスクリーンに登場して大きな人気を博した。同年おなじ監督で「美しき争ひ」、翌三九年には「第三の接吻」「最後の曲がり角」に出演したが戦争と占領のために女優業から遠ざかった。

父親はナチ占領下で対独協力者として名を知られ、解放後銃殺されたジャーナリスト、ジャン・リュシエール、その娘だったこともあり、彼女はナチ高官の情婦だったと噂され、戦後投獄され獄中で結核を患った。一九四八年に釈放されたが一九五0年一月二十二日にこの世を去った。なお後述する鈴木明『コリンヌはなぜ死んだか』は命日を一月二十三日としている。

「別冊太陽」の翌年「文藝春秋」別冊として「女優 わが青春の女優たち」が刊行されていて、本誌のコリンヌ・リュシェールの紹介では、十四歳のときマルク・アレグレ監督の目にとまってエキストラ出演するなど「格子なき牢獄」以前にも何本かの映画に出演していたことが述べられている。

「格子なき牢獄」で熱狂的な支持を受けてからの記述は「別冊太陽」と重なる。ただしここでは「ナチ高官の情婦だったとの噂」は噂でなく断定的で、「保身のためナチの高官の妾となった彼女は戦火をよそに贅沢な生活を送った。そのため解放後は対独協力者の烙印を押され投獄され」たとある。

コリンヌ・リュシェールについてわたしが知る唯一の単行本は鈴木明『コリンヌはなぜ死んだか』(文藝春秋1980年)だ。そこで本書により、彼女の結婚と最期についてしるしておこう。

コリンヌが結婚登録証にサインしたのは一九四一年十二月二十七日だった。相手はモロッコ出身の貴族ギイ・ド・ボワサンという男。父のジャン・リュシェールが創刊した夕刊紙「新時代」の出資者の一人で、おそらくその関係で知り合い結婚にいたったのだろう。

結婚後彼女は結核療養のためにムジェーブという街に赴き、そこでおよそ一年間を過ごした。夫のボワサンは結婚したのに妻が傍にも来てくれない不満を抱き、嘆いたが、コリンヌのほうはもともと冷めていたようで、シャンソン歌手のシャルル・トレネやスキー選手のエミール・アレなどと浮き名を流した。

このような夫婦ではあったが、コリンヌは一九四四年に娘ブリジットを出産していて、鈴木明がコリンヌについて調査にあたった一九七八年から翌年にかけての時点で彼女には会わせてもらえなかったが、その生存は確かめられている。

コリンヌが出産三カ月の娘ブリジットを抱いてドイツに向かいパリを逃げ出したのは一九四四年八月十三日、そして占領されていたパリが陥落、解放されたのは八月二十五日だった。

一九四五年五月、彼女と父ジャン・リュシェールはミラノでフランスのレジスタンス組織に拘留され、父はおよそひと月のちにパリに送られ、娘は結核患者として牢獄から病院に移され、九月になってパリに送られた。

翌年一月、父ジャンはドイツに協力した大物ジャーナリストとして死刑判決を受けた。コリンヌは一貫して対独協力を否定したが認められず六月に市民権剥奪十年の判決を受けた。

戦後のコリンヌに映画出演はなく、一九四九年に『私の奇妙な人生』と題した、おそらくゴーストライターの手になる「自伝」を刊行しているのが唯一女優らしい活動だった。

翌年一月下旬パリ十区か十二区もしくはその近辺で一人の女性が血を吐いて倒れているのを通行人が見つけ、警察に通報した。パトカーでブーローニュにあるアンブローズ・パレ病院に急患としてかつぎ込まれたが、そのときすでに彼女の身体は冷え切っており、呼吸は完全に停止していた。一九五0年一月二十三日深夜、コリンヌは二十八歳の生涯を閉じた。

こうして清純のエロチシズム、素朴で純粋な美しさを謳われた女優は戦後ナチスとの関係を問われ、忌まわしい女優となった。

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