固唾を呑んで観た「ゴールド・ボーイ」

「ゴールド・ボーイ」を観ているうちに「仁義なき戦い」は撮影中ヒット間違いなしとさっそく会社は第二作の準備をしていたという話を思い出しました。そしてこの作品も続作があって然るべきだと確信しました。何回か固唾を呑んだあとのラストシーン、ここでケリをつけるのはもったいないと思っていたらエンドロールのあとに「ゴールド・ボーイ2」の前宣伝が出ました。

原作は中国の紫金陳というベストセラー作家の代表作のひとつ(中国語の原題を書くとネタバレになりますので止めておきます)とのことですが、もしも続篇がなければそれ用に改編しちゃっていいぞとわたしは勝手にOKを出していました。

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沖縄でホテルやリゾート施設などを幅広く運営している富豪の経営者夫妻が崖から突き落とされ死亡します。犯人は夫妻の一人娘の夫(岡田将生)で、夫婦ともに二十代、結婚して日は浅いが関係は悪化している。

おいおい早くもネタバレかなんて言わないで。これは物語のはじめで犯人や犯行の様子を明かす、犯人探しとは異なるプロットが特徴の倒叙ミステリーの手法です。だから犯人はやがて追い詰められてゆく、そのサスペンスで観客を引っ張って行くのだろうと推測したけれどそうじゃなかった。

犯人は人知れず突き落とし、警察は事故として処理し、完全犯罪に成功したはずだったのですが、突き落とすところがたまたま少し遠めの海岸沿いで写真を撮っていた中学生たち(羽村仁成、星乃あんな、前出耀志)のデジカメに小さく映っていたのです。しかもそのときカメラを操作していた少年は誤って動画モードにしていました。

どうやら倒叙ミステリーの基本、枠組みからは大きく逸れてゆく気配です。もちろんよい意味で。そして犯人と三人の中学生とその保護者、警察が絡んで騙し騙されに転じ、裏切り裏切られが重なるうちに犯罪は拡大再生産されます。ここから先はミステリーを紹介するマナーに反しますのであしからず。なお黒木華江口洋介北村一輝松井玲奈たちがしっかり脇を固めています。

「香港パラダイス」(1990年)、「就職戦線異状なし」(1991年)、「卒業旅行 ニホンから来ました」(1993年)など毎度楽しんでいた金子修介監督作品でしたがその後は怪獣映画を撮ることが多くなり、しばらくご無沙汰でした。でもここで大満足、やってくれました!

「戦前の昭和史 雑感」補遺

星新一『明治の人物誌』は中村正直から杉山茂丸まで十人の生涯、事績に人物論を加味したコンパクトな評伝だが、いずれも作者の父で星製薬の創業者、星薬科大学の設立者である星一(1873-1951)がなんらかのかたちで関わりをもった人たちで、マクロな目で見た星一の評伝ともなっている。

十人のなかで、本ブログ前回の「戦前の昭和史 雑感」との関連で目を惹いたのが弁護士、政治家、また第三代検事総長だった花井卓蔵(1868-1931)で、戦前の昭和史のみならず大日本帝国憲法下の政治、軍事のあり方について根本的な問題を指摘していると思った。『明治の人物誌』から花井の言論を見てみよう。かれはいう。

明治憲法の最大の問題点は天皇を輔弼する内閣の責任で、「現在は、軍機軍令に関しては、陸海軍大臣のみ輔弼の責任を持っている。軍関係の制度、予算に関しては、内閣は口を出せない。これでは立憲政治とはいえない」

統帥権に関する輔弼責任という問題は、憲政実施以来ずっと不明確でいずれは重大な暗礁となりかねない」。

「政府の鬼門的存在」と呼ばれた花井のような人がいて、こうした議論が行われたのは政治、社会の健全さを示すものだったが、やがて「いずれは重大な暗礁となりかねない」が現実となってゆく。

昭和五年ロンドン海軍軍縮条約に関して統帥権問題で国論は分裂した。つまり海軍が希望する軍備を達成できずに条約調印したのは、統帥権事項である兵力量を天皇の承諾なしに決めた憲法違反であり、「統帥権の干犯」にあたることをめぐる国論分裂だった。こうして軍部は政治にいくらでも介入でき、口を出せるが、政治は軍部に介入できず、口を出せない事態は常態化し、政治は軍部に飲み込まれてゆく、つまり花井の予言は的中した。

これに関連した問題としては明治憲法下での天皇のあり方の問題があった。ひとつは立憲国家における君主であり、もうひとつは現人神(アラヒトガミ)としての天皇だった。前者の拠り所としては「天皇機関説」という憲法学説があったが、天皇という現人神による親政とは真っ向から対立するものであり、やがて天皇機関説は排撃されていった。

昭和十年(一九三五年)八月三日岡田啓介内閣は「国体明徴に関する声明」を発表、ここで天皇機関説は公式に非難されるものとなった。このとき花井卓蔵はすでに亡い。生きてあればどのような議論をしたかは想像するほかない。

花井のいう「 軍関係の制度、予算に関しては、内閣は口を出せない。これでは立憲政治とはいえない」が、現人神としての天皇親政論により補強され、戦前の昭和のバックボーンとなった、これもわたしの戦前の昭和史像である。

 

戦前の昭和史 雑感

昨年(二0二三年)八月に草思社から上梓された平山周吉『昭和史百冊』(草思社)を読んだ。百は多数の意で、書評や言及、紹介されている本は有名無名、古典的なものから最新の研究成果を問わず四百冊を超えている。大まかに年代別、テーマ別に編集されていて概説書の趣もある。

むかしならあれも読もう、これも読みたいと意欲が湧いたが、七十代ともなるとあきらめが先に立つ。年齢を実感するのはこういうときだ。とはいっても「東京物語」で笠智衆が演じた役名をペンネームとした著者はわたしより二歳下の一九五二年生まれだから年齢だけの問題ではない。

百冊、実質は四百冊超のブックガイドをまえに書くのは気が引けるけれど、わたしが戦前の昭和史について大きな影響を受けた、換言するとわたしの戦前昭和史像の基となったふたつの書がある。西園寺公望の政治秘書だった原田熊雄が残した口述記録『西園寺公と政局』と永井荷風断腸亭日乗』(ともに岩波書店)である。ここが起点となってわたしは、欧米流のリベラリズムを基調とする立憲君主制の定着と民主主義の発展の芽を、丸山眞男のいう超国家主義の連中すなわちファナティックな政治家、軍人たちが寄ってたかって捻じ曲げ、踏みにじったという歴史像を抱くに至った。

ありきたりで単純に過ぎるのはわかっている。だからこそ『昭和史百冊』のような本には関心があるといえるし反省材料にもなる。これまで広島、長崎、沖縄の悲劇は気の毒で見ていられず、結果として目を背けてきた。それに軍部や軍人には関心が薄く、それよりもエロ・グロ・ナンセンスのモダニズムである。

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それはともかく『昭和史百冊』のような書評の集成本の利点に研究の最新成果や新たな観点が覗き見できることがある。たとえば、ジョージ・アキタ、ブランドン・パーマー『「日本の朝鮮統治」を検証する1910ー1945』(草思社)では、「深甚な苦痛、屈辱感、そして怒り」をもつ人々にのみ焦点があてられた結果、日本の朝鮮統治は欧米諸国の植民地統治に比べて、公平で、穏健なものであったことが見逃されてきた、あまり辛いことは起こらなかった、日本人警官に不愉快な目に遭わされた記憶は一切ないとの証言も多い、と従来の日本の朝鮮統治への否定的見解、日本帝国主義の暴虐に対し検証と反論が加えられている。

また前掲書の著者のひとりブランド・パーマーの単著『検証 日本統治下朝鮮の戦時動員1937ー1945」』(草思社)は未編集の史料の精査を通じて、極めておぞましい記述のみが活字化されているとの指摘がある。

国内で超国家主義の政治家、軍人たちが跋扈しているのだから朝鮮では横暴の度合は割増されていたはずと思っていたが、こうした書評を読むと、うーん、ようわからん。

日本の朝鮮統治についての二冊の本を挙げて「うーん、ようわからん」とX(旧Twitter)に投稿したところ、「騙されないための日本近現代史Wiki」というブログを運営されている方から「1941年3月19日枢密院会議   石塚英蔵枢密顧問官(※台湾総督など歴任)『児童入学に際し内地流の氏名に改称せざれば入学を許可せずとし実際上之を強制すると同様の趣なるやに聞く』」との返信があった。

もうひとつ、長年にわたり気がかりな問題に竹内好の戦争観がある。それは大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義の戦争でもり、この二つの側面は、事実上は一体化されていたが、論理上は区別されなければならないというものだ。

これについて『昭和史百冊』には平川祐弘『昭和の大戦とあの東京裁判』(河出書房新社)が紹介されており、戦争と裁判の検討を通じて「日本は西洋の帝国主義的進出に張り合おうとするうちに自身が帝国主義国家になってしまった。日本側のいわゆる大東亜戦争は、反帝国主義帝国主義の戦争だったのではなかろうか」という考え方が述べられていた。

『昭和史百冊』の冒頭、著者は《本書を手に取る方ならば、まずはほとんどの方が既に読んでいると思われるのが「昭和の語り部半藤一利の『昭和史1926-1945』『昭和史戦後篇1945-1989』(ともに平凡社ライブラリー)であろう。「昭和史入門」とするなら、やはりこの二書となる》と述べていて、未読のわたしは、入門も済ませていない者が『西園寺公と政局』だったとはといささかみょうな気持になった。そしてあとがきには、『西園寺公と政局』が昭和史の最重要史料であることは間違いない、「ただ、この本を読みこなすにはかなりの固有名詞と彼らの人物像が頭に刻み込まれていないと難しいので、やはり割愛した」とあり不安に陥った。いっぽう荷風のほうは磯田光一による『摘録 断腸亭日乗』(岩波文庫)が必読書とされてあった。

いずれにせよ倒錯気味ではあれ近く半藤一利の入門書は手にしなければなるまい。わたしの戦前の昭和史像を検証するためにも。

*以下ご参考までに本ブログ「七十年目の敗戦の日に」 

https://nmh470530.hatenablog.com/entry/20150815/1439586110

はじめての菊池寛

一月一日。

内田百閒に小学生のころのお正月の思い出を語った「初日の光」という随筆がある。

百閒は一八八九年(明治二十二年)の生まれで、当時尋常小学校の生徒たちはお正月に登校して「一月一日」(作詞:千家尊福、作曲上 真行)という唱歌を歌った。

「歳の始めのためしとて、終はりなき代の目出度さを、松竹たてて門毎に、祝ふけふこそ楽しけれ」。

新年のおめでたい気分が相まってだろう、ずいぶん変え歌が作られていて、そのひとつに「歳の始めのためしとて、尾張名古屋の大地震、松茸ひつくりかえして大さわぎ、芋を食ふこそ楽しけれ」というのがあった。

これを笑い話で済ませられるとよかったが、きょう起きた能登半島地震を思うとなにやら不気味ですらある。

ついでながら「お正月」(作詞:東くめ、作曲:滝廉太郎)は「もういくつ寝るとお正月」と新年を待っている唱歌で、こちらもずいぶん多くの替え歌が作られていて、Wikipediaには、お正月に餅を食べて腹を壊したり、のどに詰まらせて死んでしまい救急車や霊柩車が来るという内容の歌詞の替え歌が流布しているとあった。

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伊藤彰彦『仁義なきヤクザ映画史』(文藝春秋)に連続ドラマ「Pachinko パチンコ」(原作はミン・ジン・リー)が紹介されていた。ほかにも日本統治下の朝鮮を舞台とする「ミスター・サンシャイン」「シカゴ・タイプライター 時を越えてきみを想う」「マルモイ ことばあつめ」に言及があった。

困ったことにいずれの小説、ドラマも知らず、日本のドラマではNHKが製作した伊藤野枝の生涯を描いた「風よあらしよ」が紹介されていた。とりあえずオバマ元大統領が絶賛するミン・ジン・リー『Pachinko パチンコ』(文春文庫)を買ったがいまのところ積ん読状態で予定が立たない。

なお「風よあらしよ」について伊藤彰彦氏は、保守的なNHKではじめて関東大震災の日本人による朝鮮人虐殺を取り上げたドラマとしたうえで、一九二三年九月一日の関東大震災から五日後、千葉県福田村で香川県被差別部落からやって来た行商団九人を朝鮮人と断じて虐殺した事件「福田村事件」(森達也監督)と関連づけて論じていた。

なお年末にテアトル新宿でみた「福田村事件」はじっさいに起きた事件の綿密な考証を踏まえた再現で、不覚にもわたしはこの作品ではじめて事件を知った。

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一月十日。 ことしになってはじめての映画館、ヒューマントラストシネマ有楽町でツチヤタカユキ原作「笑いのカイブツ」をみて大いに刺激を受けた。

わたしの映画館通いは喫茶店での読書と音楽、晩酌と一体なので、あだやおろそかにはできない。きょうは映画のまえに菊池寛藤十郎の恋 恩讐の彼方に』(新潮文庫)を読み、一段落したところでイヤホンをつけてテディ・ウィルソンのアルバム「For Quiet Lovers 」を聴いた。 テディ・ウィルソンは大好きなピアニストだが、ベニー・グッドマンレスター・ヤングとの共演と比較するとトリオやソロでの演奏を聴く機会は少ない。なかで例外のひとつが「For Quiet Lovers 」でジャケットもとても素敵だ。

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菊池寛藤十郎の恋 恩讐の彼方に』 に収める「忠直卿行状記」に「殿のお噂か!聞こえたら切腹物じゃのう」「蔭では公方のお噂もする。どうじゃ、殿の(槍術の)お腕前は?」というくだりがある。この会話がたまたま通りかかった殿の忠直卿の耳に入った。家来たちは知らないままに本当のところを口にし、忠直卿は周囲から誉めそやされていた自身の武道の腕前が虚構のものだったと知り、苦悩の淵に落ちたのだった。

ことわざ「陰では殿の事も言う」は知っていたが、殿のところに公方(将軍)を代入した言い回しがあるのははじめて知った。

京極純一先生の名著『文明の作法』(中公新書)は「面白うてやがて悲しき井戸端会議」と「陰では殿の事も言う」を一対にしていう。真理と正義という崇高な理念は別にして噂話や陰口には、古来、人類を惹きつけてきた絶大な魅力があり、いかに美味であるか、人はひそかに知っている、そして噂話や陰口は他人の観察と見えてじつは他人というスクリーンに自分の内心を映写している場合も少くない。

「噂話、陰口、井戸端会議などは、真理と正義をめざして点火し、スリルと快感のうちに火勢が強まる。そして、本来語るべからざる内心を、不覚にも、他人の前で映写した悔恨のうちに、陰湿な幕を閉じる」

ところが「忠直卿行状記」では内密だったはずの殿の噂話、陰口が当の殿の耳に聞こえたために幕は閉じず、 忠直卿、家臣ともに行く末は大きく狂ってしまう。

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映画のあと帰宅して八代亜紀さんの訃報に接した。

二0一九年に亡くなった萩原健一のときもそうだったが同年の方の死亡はいささか心の振動を大きくする。彼女については昨年十一月十日付、本ブログの日記に《先日、八代亜紀さん(73)が膠原病を患い療養のため年内の活動をすべて休止するというニュースがあり、彼女の快癒を願い、締めに「八代亜紀 服部メロディを唄う」というアルバムを聴いた。/そのとき、早いもんだなあ、彼女もそんな年齢になったんだと感慨にふけったが、なんだかみょうにおかしい。しばしして、そうか、自分もおなじ歳なんだと気づいた。一時的に年齢も時の流れも蒸発したのか、それとも認知症が関係しているのだろうか。》と書いたばかりだったのに。

晩酌をしながら彼女のオリジナルのヒット曲とジャズを聴いた。ジャズでは「夜のアルバム」にある「枯葉」がお気に入りで、日本語による「枯葉」では出色のものと評価している。

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昨年、終活の一環として運転免許証を返納した。その折り、スマホの電話はこちらからかけるときのほかは使わないと決め、機内モードをもっぱらとした。もともと交際の広いほうではなく、家族や親しい人たちとの連絡はLINEとメールで足りる。

電話は便利だが、あくまで当方に用事があって連絡したいときであり、用もないのに新聞の勧誘や新築マンションのコマーシャルの電話がかかってきたりするのはいただけない。といったわけでもう電話は要らないと結論した。十余年の無職渡世でようやく懸案のひとつを片付けたしだいである。

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一月十八日。木曜日。朝いちばんで病院へ。昨日の午後から電気カーペットに座っていても下半身が震えるほどの悪寒と吐気に襲われ、さすがのわたしも食事をする気にならず早々に床についた。自宅の非接触型の体温計では熱はなく、病院でも同様だったので薬は飲まなくてもよいような話だったが、不安なので葛根湯をいただいてきた。 

じつは朝起きたとき吐気はまったく治っていて、医師には悪寒についてだけを話し、吐気は忘れていた。ところが夕食後断続的に吐気に襲われ、食欲が著しく減退した。

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一月二十日。土曜日。再度病院へ行き、風邪が腹部にきている(流行っているとの由)との診断を受け、薬が変わった。三種類もある。十八日に吐気の話をしなかったのは一大不覚であった。 

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一月二十一日。ここ数年、恒例となった大相撲初場所中日の観戦で国技館へ。二時過ぎに入り、打出しまでゆったり、のたりの時間を過ごした。久しぶりに照ノ富士の土俵入りを見て、やはり相撲は横綱がいなくちゃとの感を強くした。 

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とりあえず吐気は小康を保っているものの消化力が衰えているのでわずかずつしか食べられない。国技館では一行四人でビールを飲みながらの観戦だったが、わたしは緊張しながらちびりちびり飲み、おつまみも少しずつという状態だった。そのため打ち出し後の飲み会は欠席した。残念。

相撲余話。

ある会合で、イギリス人が関取に「アナタ、タクサン、ビッグ。ワタシ、スモール」とたどたどしく話しかけると、関取「ワタシも、スモー」と相手になるぞと着物を脱ぎかけ、英語のわかる人がなかにはいった。星新一『夜明けあと』にある話で、明治七年の新聞記事より。

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一月二十二日。歌舞伎座昼の部へ。プログラムは「當辰歳歌舞伎賑」「荒川十太夫」「狐狸狐狸ばなし」、華やかな舞踊と、赤穂義士外伝と、狐と狸の化かし合いのお笑いというナイスな演目に満足。

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夕方から神保町のお蕎麦屋さんで友人とビール、焼酎を飲んだが消化力はまだ復調途上で用心しながらの一献だった。

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一月二十八日。日曜日。ようやく腹の具合が元通りになったのに、今度は喉の具合がよくなく、鼻水、咳が出るようになり、昨日はまたまた病院へ行き、桔梗湯という薬をいただいてきた。さいわい発熱はなく、生活に変わりはないものの、風邪が抜け切るのを待っている状態にある。

きょう大阪国際女子マラソンで前田穂南選手が2:18:59の日本新記録でフィニッシュした。昨年のMGCでお見かけしたこともあってよけいにうれしい。三月の名古屋ウィメンズマラソンで新たな日本新記録が出ない限りパリ五輪三人目の代表選手の座は彼女のものとなる。

そして大相撲は照ノ富士が復活優勝を果たした。場所前、照ノ富士の復活を疑問視していたわたしの予想は覆った。横綱は健在ぶりを示し、また優勝決定戦で敗れた琴ノ若大関昇進を確実にした。いずれもめでたいことである。そして千秋楽の取組の圧巻は宇良が伝え反りで竜電を破った一番で、宇良は今場所を六勝九敗で終えたがこの伝え反りは三勝に価する。

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菊池寛藤十郎の恋 恩讐の彼方に』(新潮文庫)に続いて『父帰る藤十郎の恋 菊池寛戯曲集』(石割透編、岩波文庫)を読了。これまで菊池寛で読んだのはせいぜい何かのアンソロジーにあったエッセイくらいで小説は皆無だった。それが戯曲集まで手にしたのだからおどろきである。べつに避けていたのではないが、永井荷風菊池寛を蛇蝎のごとく嫌っていて食指は動かなかった。それが山本嘉次郎監督「藤十郎の恋」で原作を読んでみようかという気になった。

はじめての菊池寛。『藤十郎の恋 恩讐の彼方に』には歴史に題材をとった十篇が収められている。このうち「藤十郎の恋」は映画とおなじく素晴らしい出来ばえだ。ほかにも「恩を返す話」「忠直卿行上記」「恩讐の彼方に」でグイグイと頁を繰った。ただ「蘭学事始」は若いときから関心のある領域だっただけに物足りなかった。

文庫のカヴァーに「著者は創作によって封建制の打破に努めたが、博覧多読の収穫である題材の広さと異色あるテーマもまた、その作風の大きな特色をなしている」とある。博覧多読から題材を取り出してくる手法は芥川龍之介と共通している。それと仇討へのこだわりが強烈で、これには封建制の打破のほかに何か理由があったのだろうか。

ついでながら菊池寛の全集はその生地である高松市が平成五年から同七年にかけて刊行していて、わたしはこの全集についてメモを書いた記憶があり、今回むかしの原稿を収めたUSBメモリから取り出してみた。 

 


菊池寛全集(高松市刊行)をめぐって

永井荷風が「伝通院」という随筆に子どものころ小石川界隈で見かけた雪駄直しの思い出を書いたところ、知人から「水平社の禍」がふりかかるかもしれないから避けておいたほうがよい、じっさい菊池寛が小説中に「えたといふ語」を用いて一千円ゆすりとられたと忠告を受けた。荷風はさっそく関係箇所を削除するよう出版社に通告した。

断腸亭日乗』昭和二年十二月三日の記事で、昭和六年当時の内閣総理大臣の給料が八百円で、事実とすれば、けっこうな金額にのぼる「えせ同和行為」である。

この年の十一月十九日には濃尾平野を舞台に実施された陸軍特別大演習後の観兵式で北原泰作陸軍歩兵二等卒が軍隊内での部落差別について天皇に直訴するという事件が起こっており、荷風は水平社について多少なりとも意識していたのかもしれない。

数年前、菊池寛の生地高松市が全集出版を企画しているが、不穏当な用語の使用がけっこうあって困っているというはなしがあった。『断腸亭日乗』にある「えたといふ語」の使用もその一例で、その後、全集刊行がはじまったと聞いたが、差別語問題について編集方針がどうなったかについては調べていない。

くわえて過日、菊池寛が戦争賛美の文章を書いており、高松市の事業としてこうした作品の含まれる全集を出版するのは公金の違法使用であるとして訴訟が起こされたのを知った。

世には、鋭く研ぎ澄まされた人権感覚を身につけた方がいて、その打つ警鐘は貴重である。ただし、ときにその鐘は他人の欠点を衝き、粗相を嗤い、過失を責めたてる響きを持つ。過去の人びとの著作を、差別語使用と戦争賛美というリトマス試験紙に浸し、結果によっては精算し、葬り去ろうとするのはその一例である。高松市という公の機関による『菊池寛全集』の出版がいけないとの主張はやがて私企業の出版社による『菊池寛全集』だって企業の社会的責任という観点からして不可ということになりかねない。

必要なのは不穏当な言葉を削り、戦争賛美の文章を抹消するのじゃなくて、それらを含む菊池寛の作品についていろんな立場や角度から討議討論しようとする社会の気風をつくることだ。平等観や人権意識もそうしたなかで鍛えられてゆくはずだ。

(一九九六年二月)

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一月三十一日。二度にわたる風邪の来襲で、身体の調子はもとより、精神的にずいぶん落ち込んだ。いまランニングは中止してウオーキングに切り替えている。三月三日の東京マラソンめざしてこれから距離を延ばそうとした矢先の風邪で、どうやら当日はリタイア含みの参加になりそうである。「fun running」で行けるところまで行こう。

           

           

 

 

 

小澤征爾氏の死去と『嬉遊曲鳴りやまず』

この二月六日、小澤征爾氏が八十八歳で亡くなった。クラシック音楽とはあまりご縁がなく、同氏指揮の演奏も五指を超すかどうかのスピーカー鑑賞しかないけれど、この日は追悼の意を込めてブラームスハンガリー舞曲第一番、五番」とモーツァルトアイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴いた。いずれもサイトウ・キネン・オーケストラの演奏で、同オーケストラは一九八四年九月、齋藤秀雄歿後十年に、その教え子だった小澤征爾の発案により、秋山和慶ら門下生百余名がメモリアルコンサートを開催し、これが基礎となって生まれたオーケストラである。

そのあとYouTubeをみると「教える事は学ぶ事」と題した齋藤秀雄の長時間インタビュー番組がありさっそく視聴した。小澤征爾氏の死去を機に、その師も注目されているのだろう。一九七三年十一月にNHK女性手帳」で数回にわたり放映されていて、森本毅郎高橋美紀子のおふたりが聞き手だった。わたしには齋藤秀雄の映像ははじめてで貴重な機会となった。このとき齋藤は七十歳、小澤はボストン交響楽団の指揮者だった。

以前から齋藤秀雄には関心があり、前世紀の終わりころ、その生涯を描いた中丸美繪『嬉遊曲鳴りやまず』を読んだ。もとは日本の英語教育の基礎をつくった父親、齋藤秀三郎(一八六六~一九二九)への関心から息子についても知りたいと思ったのだった。こうして小澤征爾氏の死去にともない『嬉遊曲鳴りやまず』と再会した。

齋藤秀三郎。明治の世に日本人が学ぶ英文法をほとんど独力で体系化し、日本の英語教育の基礎をつくった人である。

十八歳で東京帝国大学工学部の前身、工部大学校を卒業まぎわに学校当局と衝突して放校とされ、その後、岐阜中学に赴任するが、校長から中等学校英語教師の資格試験を受けるよう求められると「誰が私を試験するというのか」と言い放って辞職した。

生涯で電話口に出たのは政府から叙勲の受諾の返事を求められたときただ一度だけと伝えられる。正則英語学校での授業と著作と辞典の執筆に明け暮れる日々で、電話はそれらの妨げになるから拒んだのである。この個性あふれる人の長男で音楽家齋藤秀雄の伝記となればそれだけで読書意欲はいやが上にも増すばかりだった。

秀三郎の長男秀雄の生涯を描いた中丸美繪『嬉遊曲鳴りやまず』(新潮社)は父親似の一徹な個性が生むさまざまなエピソードや教え子、同僚らの回想またインタビューが巧みな筆さばきで綴られ、クラシック音楽に不案内なわたしのような者でも巻を措くあたわざる状態となった。

齋藤秀雄(一九0二~一九七四)はチェリスト、指揮者そしてなによりも音楽教育家であった。秋山和慶小澤征爾堤剛、徳永兼一郎、藤原真理前橋汀子たち戦後日本の音楽家山脈の相当部分はこの人の創設した「子供のための音楽教室」及びその発展した桐朋大学音楽学部から輩出している。

戦前はNHK交響楽団の前身新交響楽団チェリスト、指揮者として活躍したものの、個性の強さと容赦ないトレーニングが災いして追放同様に退任させられ、戦後は音楽教育に尽くした。周囲からは大人に相手にされなくなったから子供を相手にしていると陰口されるなかで、世界の音楽愛好家の驚異となった桐朋オーケストラをつくったのだった。

NHK「教える事は学ぶ事」には藤原真理さんも演奏またインタビューで出演していた。『嬉遊曲鳴りやまず』には齋藤と藤原のこんなエピソードがある。

齋藤秀雄には自分は音楽の使徒であり、演奏も指揮も教育も音楽という神への献身であるとの思いがあった。だから、大阪にいた藤原真理という十歳の女の子を東京に出したらと母親に勧め、母親が娘をほいほいと預かってくれる親類もないからと答えたところ、そんなら親が一緒に出てきたらいいとこともなげに言えたのである。そして藤原一家は生活のめども十分ではなかったがこれを機に東京へ転居した。音楽への献身が親にも子供にも伝わったのだと解釈しなければ、このやりとりは世間知らずの芸術家の妄言に過ぎない。

ちなみに「教える事は学ぶ事」では齋藤の「私には、音楽の中に言葉が聞こえる。それを若い人達にも聞こえるようにして、その意味が解って貰えるようにしたい」という発言が紹介されていた。秀雄は音楽には独自の言葉の体系があると捉え、それを分析して示し、教えたという。父秀三郎の英文法は音楽にも影響していた。

写真はわたしのサイトウ・キネン・ディクショナリーです。

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「瞳をとじて」

劇場が明るくなるとともに三時間近く続いた心地よい緊張と鑑賞後の余韻に身を浸していました。ビクトル・エリセ監督三十一年目の新作にして集大成と喧伝されている「瞳をとじて」ですが新作や集大成といった売りの形容がなんだか余計に感じてしまうほど魅せられました。

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映画監督ミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)が「別れのまなざし」の撮影を進めているさなか、主演俳優フリオ・アレナス(ホセ・コロナド)が突然の失踪を遂げます。映画は頓挫し、それから二十二年が過ぎて、ミゲルのもとに人気俳優失踪事件の謎を追うテレビ番組を企画したからと出演依頼が舞い込みます。

取材への協力を決めたミゲルは、親友でもあったフリオと過ごした若き日々の記憶を手繰り寄せ、自身の半生を振り返ります。そうしてフリオを知る人々にインタビューを試みます。そのなかのひとりにフリオの娘アナ(「ミツバチのささやき」で当時五歳で主演したアナ・トレント!)もいました。

人気俳優失踪の未解決事件をめぐる番組は完成し、放映されました。そして番組終了後、フリオに似た男が海辺の高齢者施設にいるとの情報が寄せられます。
いろいろな解読や解析が可能でしょう。ただわたしには何よりもビクトル・エリセ版 The Long Goodbye でした。蟹は甲羅に似せて穴を掘る。これがハードボイルド大好きなわたしの甲羅なんです。映像も語り口も素晴らしい、それ以上にハードボイルドタッチのストーリーが惹きつけてやまないのです。

レイモンド・チャンドラーの元版は物語が終わったとき長い別れがはじまったのですがビクトル・エリセ・バージョンでは二十二年の別れのあとテレビ番組の企画を機にもう一度事件が浮上します。海辺の高齢者施設にいる男は何者なのか、どのような人生の軌跡をたどってきたのか。男は自分を有名なタンゴ歌手ガルデルと思いこんでいるふしがあり「カミニート」や「ジージーラ」を口ずさんでいる。どうしてアルゼンチンタンゴなのか。

そうそう音楽といえばミゲルが親しい仲間たちとギターを伴奏に「ライフルと愛馬」を歌うシーンがありました。ハワード・ホークス監督の「リオ・ブラボー」で、また「赤い河」でも歌われていたと記憶しています。ホークス監督へのオマージュだったでしょう。嬉しかった。

(二月十三日ヒューマントラスト渋谷)

「ダム・マネー ウォール街を狙え!」

ほんと、面白くて、ためになる映画でした。いつの頃からか政財界のエライさんたちが「貯蓄から投資へ」と唱導しておられますが、下流年金生活者の目には、高速道路での煽り運転としか映らず、巻き込まれてはたいへん、だから「ためになる」のはわが家計にマネーがもたらされるのではなく、株式市場という社会の仕組みがよく理解できた謂ですので、念のため。

理解の核心というか肝は空売りで、ここをしっかり押さえておかないとなんのことやらわからなくなる。詳述は避けますが、なにしろ株価が下がれば下がるほど儲けは大きくなるという株式売買の手法で、クレイグ・ギレスピー監督はまずまずこの課題をクリアしていました。

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いまはあまり聞かなくなりましたが、仕手集団というのがあり、巨額の資金とさまざまな取引手法を駆使して、株価を意のままに動かし、大きな利益を得ようとするグループを指します。この映画の空売りグループ、わたしにはヘッジファンドというおしゃれっぽい呼称より、仕手集団のほうがイメージぴったりでした。 

さてその仕手集団が実店舗によるゲームソフトの小売企業、ゲームストップ社に空売りを仕掛けます。手元に株式はなく、信用取引などを利用して、借りて売る。株価が高く、これから下がると予想される局面で売りに出し、その後予想通り株価が下落したところで買い戻して利益を得るわけです。ところがかれらが予想したように株価は下がらない、それどころゲームストップ社の株価は高騰しまくっている。空売りを仕掛けた側は大損害です。

なぜゲームストップ社の株価は上がり続けているのか。キース・ギル(ポール・ダノ)という個人株主が動画配信で、ゲームストップ社の株は著しく過小評価されていると訴え続けていたのです。そしてこの配信はキースのゲームストップ社の持ち株と時価総額が明示され、毎日更新される、つまり完全情報公開で運営されていて、やがてささやかな資金で投資をしてみようという個人株主の信用と共感を得るに至ります。金融市場で小型投資を蔑んでいうDnmb Money(愚かなおかね)の叛乱です。

こうして、ゲームストップという企業の株価を下げて利益を得ようとする空売り側と、同社の健全な成長を求める買い方との闘いが一瀉千里を走ります。もちろん山あり、谷あり。仕手集団はウオール街のエリートたちであり、株式市場を操る権力を保持しているのですから個人株主には厳しい。そして問題はメディアの注目するところとなり、全米を揺るがす社会事象となります。

コロナ禍での実話をベースにした本作。一見したところ血湧き肉躍るとはまいりそうもない素材をこうしたエンターテイメントに仕上げるのですから大した作劇術といわなければなりません。

余談ですが、この映画を素材に、どれほど深く掘り下げ、わかりやすい解説ができるか、試みてはいかがでしょうと高校で政治経済を担当する先生方や大学で経済学の入門を講じておられる先生方に申し上げたい。きっと指導力の向上に資すると思います。その意味で、この映画、 面白くて、ためになる経済学の教科書(そんな形容矛盾的教科書があるのが不思議ですけど)としての一面を有しています。 

(二月六日 TOHOシネマズ日比谷)