七十年目の敗戦の日に 4 テロリズム

大久保利通大隈重信原敬浜口雄幸犬養毅……テロにより死去もしくは被害に遭った政治家である。政治目的を達するための殺人や暴力があってならないのは当然で、上の人たちはテロの犠牲者として位置づけられなければならない。現代の無差別テロといっしょにするなと言う方もいるかもしれないが、だからといってこれらを正当化できるものではない。
あえてテロと書いたのは暗殺と言ったとき語感に志士的な気風が付け加わるような気がするからだ。いま世界はテロの脅威に直面している。敗戦後七十年、あらためて近代日本におけるテロについてしっかり認識しておきたいとおもう。
一九三六年(昭和十一年)五月、二二六事件で射殺された斎藤実内大臣の後を承けて新たに内大臣に就任した湯浅倉平が挨拶に元老西園寺公望(写真)を訪れたとき、西園寺は「自分は明治、大正、今上三陛下に仕えて来た。申し上げにくいことだが、考えてみると、今の陛下は御不幸なお方だ」と涙ながらに語り、さらに「陛下は一番ご聡明な方と思うが、残念なことに最近は有力な政治家ー原、井上、浜口、犬養とみんな殺されてしまい、陛下の側近に人無しの格好になっている。本当にお気の毒だ」と続けた。

近代日本はテロリズムに寛容な政治風土だった。
たとえば犬養毅首相が殺害された五一五事件の海軍関係被告に対して海軍検察官は「動機が純であつても、結果において法に違つたならば、動機の如何に拘はらず、違法はどこまでも違法である」と見識を示したが荒木貞夫陸相は談話の形式で発表された声明で「これら純真なる青年がかくの如き挙措に出でたその心情について考えてみれば涙なきを得ない。名誉のためとか利欲のためとか、または売国的行為ではない。真にこれが皇国のためになると信じてやったのである。故に本件を処理する上に単に小乗的な観念をもって事務的に片づけるようなことをしてはならない」と述べ、議会でも動機の純を強調して事件擁護の論陣を張った。
こうして半藤一利が『昭和史探索2』に書いているように「結果として、青年将校たちの純潔性・志士的気概が世の人の同情を呼ぶという奇妙なこと」になった。ちなみに西園寺公望は「情において忍びないからこそ、国には一つの法規」があると述べている。
京極純一は、五戒や十戒のような倫理基準が定言命令として指示されることのない日本人が尊重したのは本人の心情の誠実さ、これが政治に持ち込まれて、誠実を主張するだけの主観主義と心情主義となり、多くの失敗と災禍がもたらされたと述べている。(『日本の政治』)
おなじく半藤一利も前掲書で昭和陸軍の精神構造の傾向として「動機を重んじ手段の正邪を問わない」「動機さえ純粋であれば(それも往々にして主観的に)、手段と行動がかりに統帥を乱し、暴力をともなうものであったとしても正当化される」と指摘している。
「情において忍びない」という感情は「誠実を主張するだけの主観主義と心情主義」そのものであり、これがテロや青年将校の叛乱を助長していたのだった。
「世論に惑はず、政治に拘らず」との軍人勅語の文言を陸軍の一部は、どんな政治にも拘泥せず、陸軍の信ずるところをやればよいと解している。むちゃくちゃな解釈と言うべきで、ここまで来ると理屈にもならぬ理屈でテロを容認支援していると言うほかない。
五一五事件の海軍検察官は「軍人は世論に惑はされたり、政治に関係してはならぬ」と明白に断じたがこうした正論もやがて顧みられなくなった。
勝田龍夫重臣たちの昭和史』によれば西園寺公望が亡くなったころ、近衛文麿は別荘の荻外荘に、血盟団事件井上日召すなわち「一人一殺」を標榜した団体の首領を居候させており、近衛に食い込んだ井上は木戸内大臣を訪ねてテロを匂わせ脅しをかけることさえあった。
里見とん「原田文書に関する記録」には西園寺の秘書の原田熊雄を、張作霖を爆殺した河本大作が配下の者が集まるごとに「誰よりも先にあいつを殺せ、なにを愚図愚図しとる、さっさと殺っちまわんか」と焚きつけていたとある。テロに寛容というよりテロ支援国家と言うべきだろう。
永井荷風西園寺公望と文士たちとの交流交歓の催しである雨声会に出席したことがある。父久一郎は西園寺が文部大臣のときの秘書官だったから父子ともにご縁があった。西園寺が死去した際、荷風は二二六事件で西園寺が襲撃対象とされていたと追想し、同事件で叛乱罪により投獄された兇徒たちはいま放免され、五一五事件も含めて叛乱は義戦とされ、兇徒は義士とされたと断じ、テロの正当化を批判した。荷風大日本帝国テロ支援国家としての一面をしっかりと見ていた。