兼好と志ん朝

小野道風が書き写した『和漢朗詠集』を持っていると言う人がいたので、ある人が、藤原公任の編集した書物をそれより前の道風が書き写したというのは年代が違うでしょう、そんなことはありえないと指摘したところ、だからこそ世にも稀な、めずらしいものと応じて、ますます大切にしたとか。
徒然草』第八十八段にある。
道風は寛平六年生誕、康保三年に没している。西暦だと894年と967年にあたる。
和漢朗詠集』は藤原公任漢詩、漢文、和歌から選び、編んだ秀句、名句のアンソロジーで、寛仁二年(1018年)頃成立したとされる。
徒然草』を拾い読みするうちにこの第八十八段のところで、落語ファンはつとにご存じのことかも知れないけれど、これに似た話が古今亭志ん朝さんの「火焔太鼓」にあったのを思い出した。『徒然草』も「火焔太鼓」も何度か読み、聴きしているのになんとも迂闊ながらこれまで気づかなかった。

以下は『志ん朝の落語5』(京須偕充編、ちくま文庫)の「火焔太鼓」より。
「なんかねえかい」
「今はこれといってまァ、珍しいものはないんですが・・・・・・・ええ。えー、小野小町がね、あのォ、なんでござんす、浅野内匠頭へ出した手紙があるんですがね」
「ちょっと待ってくれよ、おい。ええ?いくらなんだって、それァ乱暴な話じゃないかい?小野小町浅野内匠頭じゃ時代がまるで違うじゃねェか。ンなもの、あるわけないだろう」
「ええ、あるわけないのがあるから、珍しいんで」。
志ん朝さんの「火焔太鼓」のこの段は『徒然草』を踏まえているとしてよいだろう。『志ん生長屋ばなし』(志ん生の噺4、ちくま文庫)にこのくだりはなく、志ん朝は父志ん生を継承しながら、随時新たな話題を加えながら噺を豊かなものにしていった、その一例である。
そこで道風と公任、小町と内匠頭の話題からわたしも「いくらなんだって、それァ乱暴な話」をしてみたくなりました。
「あれっ、吉田兼好って古今亭志ん朝のまねしているよ」。