七十年目の敗戦の日に 5 愚行の象徴

西園寺公望はおなじ公家の出自という親近感もあり近衛文麿に期待していたが、その近衛は軍の政治介入や国家総動員体制が進むなか、元老西園寺は議会主義の牙城であり「国是の発展の上からいうとやっぱり邪魔になるように思う」と語っている。くわえて英米との協調政策の旗色は悪くなるいっぽうであり、形勢の利あらずの過程は勝田龍夫重臣たちの昭和史』に詳しい。ヒトラームッソリーニとの同盟なんていまにして馬鹿なことをしたものだと言えるが、歴史のライヴではない。
こうして晩年の西園寺の嘆きは深い。天皇機関説問題が一段落したのを機に牧野伸顕内大臣を辞任したが元老に引退や辞任の規定はなかった。
天皇機関説が政治問題化する前夜、司法大臣だった小原直が、原田熊雄に、正しい道を行く者は、正しいからというので、お互い連絡をとっていないが、正しからざる道を行く者は結束が固く、ややもすれば正しからざる者がかえって目的を達する場合があると語っている。
おなじころ原田熊雄は秩父宮殿下から政治の現況について下問を受け、軍部についてかれらは政党を罵りながら、しかも与すべからざる外部の所謂右傾団と連絡をとったり、その刺激によって世の中を騒がせている状況にあると答えている。
軍部を核とするネットワークに較べ英米協調派の弱みが顕れているようだ。

昭和初期から開戦に至るまでの政治史は、英米との協調を図ろうとする人々が、日独伊枢軸すなわち、米国との戦争を志向する陣営に敗北していった過程と見ることができる。連絡やネットワーク化に難があった英米協調派に対して相手方の代表としてわたしの眼に映るのが東条英機平沼騏一郎である。
一九四一年(昭和十六年)四月十三日、日ソ中立条約がモスクワで調印された。有効期限は五年すなわち一九四六年までだった。ところが一九四五年四月五日ソ連は条約の期限を延期しないことを日本に通告し、八月には条約を踏みにじり参戦して奇襲攻撃を行った。ソ連及びスターリンの信義に悖る非道ぶりはしっかり記憶に留めておくべきだ。いっぽうイギリス侵攻を断念したヒトラーは一転バルカン半島に進み独ソ不可侵条約に違反してソ連に進入した。ヒトラーの戦績は日米開戦に大きな影響を及ぼしたから日本はナチスの条約違反については評価していたわけだ。ソ連スターリンへの批判とともにこの日本の姿も忘れてはならない。
ヒトラースターリンそれと毛沢東を加えた現代史上の三大全体主義者と比較すると東条はずいぶんと小粒だがそのぶん愚かしくもある。
藤田尚徳『侍従長の回想』に東条首相が東大の卒業式で、人は卒業の席次で将来が決まるものではなく社会に出ての涵養が大切で、その好例が自分であると自画自賛して失笑を買った挿話があった。
人によっては微笑ましいエピソードになるのかもしれないけれど、わたしには愚かとしかおもえない。この愚かさが「日本がジリ貧になるより、思い切って戦争をやれば、勝利の公算は二分の一であるが、このままで滅亡するよりはよいと思う」「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と国民生活を賭けの対象としたのである。
また平沼騏一郎については『西園寺公と政局』一九三七年(昭和十二年)五月八日の記事に、陸軍が大島健一陸軍中将を枢密顧問官に推していたところ、枢密院議長の平沼騏一郎が「大島は新平民だからいかん」と別の人物を就けたとある。長年にわたり同和問題にたずさわってきたわたしにはこの人物は唾棄すべき政治家だ。
またこの原田熊雄の口述内容は、当時の最高支配層による部落差別が活字として記録されている貴重な事例で、大島中将の処遇を知った寺内寿一前陸相の「ああいう者を長く枢密院議長の地位にしておくのはよくない」との言葉は平沼との個人的な確執は別にして、四民平等の観点から当然とはいいいながら、やはり救いに感じる。寺内寿一は東京高師附属中学校で同級の永井荷風に文弱軟派の徒としていじめ鉄拳制裁をくわえていて、荷風ファンとしては嫌な人物だが、それとは違った一面がここにはある。
話題はすこしそれるが一九二七年(昭和二年)十一月十九日名古屋練兵場での特別大演習の観兵式で陸軍歩兵二等卒北原泰作が軍隊内での被差別部落民に対する賎視と差別に抗議して天皇の馬前に進み出て直訴をした。朝日新聞は事件の報道に当たり「前代未聞の事件であり、閣僚初め各方面ではことの重大なのに恐懼措くところを知らなかった」と伝えている。
内大臣牧野伸顕の十一月二十四日の日記には「尚直訴の事に及び、水平社問題に付此迄詳細に御聞遊ばされたる事の有無を伺いたるに、聞きたる事なしとの御仰なりしに付、問題の極めて重要なる事を概略的に申上げ、今後差支なき時機に於て有馬伯如き此迄此問題に通暁したる者より御聴講被遊度と言上せり」とあり、この時点で天皇は水平社=被差別部落の問題をご存知なかった。なお日記にある有馬伯は有馬頼寧で社会運動、奉仕活動の一環として部落差別の解消を図る活動にたずさわった経験を有していた。
話を戻すと、西園寺公望はファナティックな右翼の平沼騏一郎を「非常にずるい男だ」と嫌った。湯浅倉平内府は「国を誤まる第一線の政治家」として平沼を挙げた。公平を旨とする天皇でさえ「平沼は利己的だね」と言ったという。それでも枢密院議長になり、首相になる。歴史の勢い、政治の力学とはこういうものか。あるいは日独伊枢軸勢力のネットワークの勝利だったのか。