七十年目の敗戦の日に 10 終章〜和解と平和

歴史修正主義という言葉がある。歴史は新しい史料が発見され、あるいは新たな視角から従来の史料の解釈に変更がくわえられるなどすると書き換えられるのが常だから、その意味で絶えず修正を迫られている。だから何をいまさら歴史の修正をこと挙げするのだろうと、はじめその意味がよくわからなかった。たとえば自由や人権を謳ったアメリカの歴史を先住民にたいする迫害という視角からみれば従来の歴史像は修正されて当然である。
ただしいまマスコミで採りあげられている歴史修正主義をめぐる議論はそうした学問的な話ではなく、信奉するイデオロギーに即して歴史を恣意的に解釈し修正しようとする政治的な議論を指していて、これまでの歴史学の成果を無視し、都合のよい過去は誇張し、都合の悪い過去は過小評価したり抹殺したりして、みずからのイデオロギーに即して歴史記述を修正することを指している。
たとえば先の大戦をアジアの被抑圧民族解放のための正義の戦いだったとする歴史観がそれで、わたしには「白を黒と言いくるめる」か「詭弁」としかおもえない。ちなみにヨーロッパではホロコーストの歴史を否定する人たちが自分たちを歴史修正主義者と規定している。
佐伯啓思現代日本イデオロギー』に京都大学の同氏のゼミで戦没者への哀悼だとかアジア諸国への謝罪だとかをなぜ今頃くどくどしているのか、こうした議論に意味があるとはおもえないと語る女子学生の話があった。
はじめわたしは彼女について、歴史修正主義の立場からする現状への反撥だろうと推論した。つぎに戦争をめぐる議論が政治的取引の道具となったり、政治的思惑を潜ませながら倫理的プレッシャーをかけたりするための材料になったりしていることへの失望なのかもしれないと考えた。後者であれば政治の場での先の大戦をめぐる議論が和解と平和につながっていない状態への苛立ちとして理解できた。あの戦争を政治の駆け引きの材料とするのであればさほどの意味があるとはおもえず、彼女がやめたほうがよいと判断したのもわからないでもない。

八月十四日、安倍首相は戦後七十年談話を公表し、そのなかで「この日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」と述べた。
皮肉に読めばこれからの世代が戦没者への哀悼だとかアジア諸国への謝罪だとかをくどくどするのは困りもので、これは女子学生の感情と近いようでもある。在職時、同和問題についての交渉の場で「わたしたちの祖先はひどい差別を受けてきた。いまその代償としてわたしたちが恩恵を受けるのは当然」といった発言を聞いて、祖先が受けた身分差別を材料にいまの世代が特権を得ようとする態度に不信を覚えたものだった。
先祖の愚行を子孫がつぐなうというのは基本的には無理がある。だから首相が謝罪を続ける宿命を背負わせてはならないと踏み込んだ表現をしたのは理解できる。けれど、その主張は相手のある話であり、そのために内閣が何をしたのか、その主張を現実のものとするための条件をどれほど探ってきたのか、今後何をしようとしているのかといった具体の話はなかった。たとえば和解と平和の創造に向けた協議機関や国立の追悼施設の設置、基金の創設などいずれも一考されてよい問題だとおもうが、そうした具体策は談話にはなく、「本気度」がどれほどのものなのかよくわからなかった。
白井聡は『永続敗戦論』で、「戦後政治の総決算」とか「戦後レジームからの脱却」を標榜する人々は「事あるごとに『戦後民主主義』に対する不平を言い立て戦前的価値への共感を隠さない」のだが、じつは際限のない対米従属を続けながら「神州不敗」の神話を信じている人たちで、そこに安住するかれらが「戦後を終わらせる」はずはないと論じている。だとすれば、安倍首相の談話が「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」としながらそのための具体策がなかったのは理の当然だったのかもしれない。
「きのうあった事はきょうあり、きょうあった事はまたあすもありうるであろう」。
一九三四年三月二十一日の夕べから翌朝にかけて二万数千戸を焼き払い二千人近い死者を出した函館の大火に寄せて書かれた寺田寅彦「函館の大火」にある言葉だ。火事も地震も戦争もありうるあすのため忘れてよいものではなく、その記憶が有意義に活用されるよう願ってやまない。