一定不変

男は娼婦を買うのと買わないのに分類されるという説がある。ほんとかどうかは知らない。仮にこれを認めるとして、二つの割合はどうなっているのか、時代によってこの割合は変化するのか、しないのか、という問題にぶつかる。
永井荷風の作品の多くは芸者や娼婦について書かれていて、読んでいると戦前の東京の売淫は猖獗をきわめており、買う男の比率もずいぶん高かったのではないかと思ったりするのだが、残念ながら現代のフーゾク事情に通じているわけではないわたしとしては比較してどうこうは言いにくい。
鹿島茂さんの『空気げんこつ』によると売春が公認されているかどうかは関係なく、浮気する男はいつの時代でも浮気し、しない男はいつの時代でもしないそうで、たしかに遊郭、街娼、ソープランド、テレクラ、援助交際などなど形態が変わったから「どうれ」と腰を上げる男はいないと推察する。
高島俊男さんは「週刊文春」に連載していた「お言葉ですが・・・」で、兵頭二十八さんの唱える「一割現象」を紹介して、つぎのように解説してくれている。

ここに千人の集団があるとすると一割は名望家になり、別の一割は博徒、売春婦となる傾向を帯びる。そこで博徒、売春婦のみを抽出して隔離すると、そのなかで一割は聖人君子タイプに、一割はどうしようもない手合いに分かれる。いずれも残り八割はいつでも「余人をもって代え得る」人たちである。人間を松竹梅の番付に格付けするとその割合は変わらないらしい。
ここで急にお堅い話題になるが、文部科学省がいつもいつも挙げる課題に先生の資質向上がある。とくに深刻なのは子供との信頼関係が築けなかったり、すぐ暴力をふるったりする適格性を欠いた先生の問題だ。
人には個性と相性があるからAくんにはよい先生だがB子さんにはさほどでもないといったことではなくて、誰が見ても、教壇に立つことがふさわしくない先生はどうすればよいのか、教育の課題の一つだが、思い浮かぶのは浮気男の割合や「一割現象」で、いわゆるトラブルバスターズがとりあえず教壇に立たなくなったとしても、そのあとまたもや一定の割合で問題教師が析出されるのだとしたら、これは永遠不滅の課題で、文科省がしょっちゅう教員の資質向上を言っているのはここらあたりに根拠がありそうにも考えられる。