ほんのはなし

蕎麦屋の二階〜 井上章一『愛の空間』

近代日本の男女、多くは婚姻外のかれらはどこでセックスをしていたか、そうしてその場所はいかなる意匠で彩られていたのか。井上章一『愛の空間』(角川選書)はこの問題についての実証的な研究で、いつもながら著者の問題意識の鋭さとユニークな議論には茫…

吉村昭『海も暮れきる』

丸谷才一『横しぐれ』は語り手が四国の松山市で種田山頭火(1882-1940)とおぼしい人物が本物それとも幻影だったのかを探ってゆく優れた中編小説で、一読のあとはおのずと山頭火が慕い、尊敬した尾崎放哉(1885-1926)のことが気になってくる。僧形に身をや…

平山周吉『小津安二郎』

はじめて平山周吉という活字を目にしたときは本名かペンネームか知らなかった。ペンネームだと映画「東京物語」で笠智衆の役名をそのまま用いたのだからおもしろいワザを使ったものだと感心したが、ちょいと胡散臭さも感じた。 いまはペンネームと知っている…

小澤征爾氏の死去と『嬉遊曲鳴りやまず』

この二月六日、小澤征爾氏が八十八歳で亡くなった。クラシック音楽とはあまりご縁がなく、同氏指揮の演奏も五指を超すかどうかのスピーカー鑑賞しかないけれど、この日は追悼の意を込めてブラームス「ハンガリー舞曲第一番、五番」とモーツァルト「アイネ・…

内田百閒『東京焼尽』

内田百閒『東京焼尽』は昭和十九年十一月一日から翌年八月二十一日までの個性的な日記だ。個性的というのは主題を明確にして、そこに焦点を当てている。その主題とは敗戦末期の惨憺たる空襲とその克明な記録にほかならない。 「夜半二時三十分警戒警報。五時…

寺田寅彦『漱石先生』

寺田寅彦が熊本の第五高等学校に入学したのは一八九六年(明治二十九年)九月、おなじ年の四月に漱石は英語教師として着任していた。 昨年七月に中公文庫の一冊として刊行された寺田寅彦『漱石先生』は、漱石とのつきあい、その素顔、作品、また正岡子規をは…

『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』

十月二日からNHK連続テレビ小説「ブギウギ」の放送がはじまった。それに先立って番宣の一環だろう八月にNHK出版新書で輪島裕介『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』が出版された。 いまの流行歌やJポップとかはほとんど知らない。その代わり…

献辞余聞

自身の著書を、友人知人や尊敬する方に贈る際、通例として献辞とともに相手の名前をしるす。ところがときにこの献呈本が古書店に出ていたりする。古本屋廻りの好きな方ならおわかりだろう。わたしも何度かそうした献呈本をみている。 著書を贈ったからとて相…

『古池に蛙は飛び込んだか』

長年にわたり気になっていた長谷川櫂『古池に蛙は飛び込んだか』(中公文庫)をようやく読んだ。元版の花神社刊単行本は二00五年の出版だからすくなく見積もっても気がかりは十年あまりにわたっている。そして遅まきながら読んでよかったと思ういっぽうで…

旅と料理と酒のたのしみ~ 吉田健一『汽車旅の酒』

中公文庫オリジナルの一冊に吉田健一『汽車旅の酒』がある。二0二二年三月刊。 旅をして、汽車に乗り、駅弁や酒を買う、そこに本書があって素敵なめぐり合せである。 これを企画した編集者を讃えよう。 著者の全体像を論じたりするのはわたしには無理だけれ…

『60歳すぎたらやめて幸せになれる100のこと』~人生のエンディングを軽やかに

『60歳すぎたらやめて幸せになれる100のこと』というムック仕様の本を読んだ。二0二一年十月に宝島社から刊行されている。 人生のエンディングを軽やかに生きていくために大切な「やめること」「捨てること」「離れること」「距離のとり方」「縁の切り方」…

『彼は彼女の顔が見えない』〜1日100頁の快調

ストーリーをたどるのが苦手だ。先日、佐々木譲原作の韓流映画「警官の血」を観て、それなりに面白かったけれど、登場人物の整理がつかないまま終わった。原作は読んでいて、しかしこれほど複雑だった印象はないのに困ったものだ。 それはともかく、いま読み…

『こんな日本に誰がした』〜新聞記事を検証すれば・・・

インターネット上のコミュニティサイトなど想像もできなかった頃の話。東大の政治学の先生は政界裏情報を官僚から、早稲田のほうは新聞記者から貰う、それぞれの業界に教え子が多くいて都合がよいが、確度は前者が高く、偏差値の差はこんなところにもついて…

『茶話』のあとに

電子本『薄田泣菫茶話全集』を読み終えた。全八百十一篇のコラムの集成を廉価で提供していただき大いに感謝、また初出通り歴史的仮名遣いを用いているのもうれしい。四十代だったか、冨山房百科文庫版全三巻を読んで以来のめぐりあいで、かつてより今回は味…

『キャッチ・アンド・キル』~ #Me Tooの起爆となったノンフィクション

ローナン・ファロー『キャッチ・アンド・キル』(関美和訳、文藝春秋)は映画プロダクション「ミラマックス」の設立者で、数多くの名作を手がけてきたハーヴェイ・ワインスタイン(わたしの大好きな「パルプ・フィクション」や「シカゴ」もこの男のプロデュ…

『S S将校のアームチェア』〜「普通のナチ」の実像

ダニエル・リー『S S将校のアームチェア』を読み、まだ一年の半分も経っていないのにもうことしの歴史・ノンフィクション系のわがベスト作品となるだろうと予感している。同書は二0二一年十一月にみすず書房から庭田よう子氏の訳で刊行されており、原書THE …

『ほいきた、トシヨリ生活』〜隠居のしあわせ 

中野翠『ほいきた、トシヨリ生活』(文春文庫)を読んだ。著者の映画や本や落語などの好みの感覚がわたしにはうれしく、これまで多分に刺激を受けてきたコラムニスト、エッセイストである。 単行本は『いくつになっても、トシヨリ生活の愉しみ』として二0一…

『ウディ・アレン追放』〜「事件」を知るためのまたとないノンフィクション

日本で公開されたウディ・アレンの映画(監督作品、出演作品ともに)はずっと見てきた。出来不出来はあっても長年にわたるおつきあいだからなんだか生活習慣のようになっていて、書店で猿渡由紀『ウディ・アレン追放』(文藝春秋)という本が並んでいて、ひ…

芥川龍之介を読もう!(二)

まずはネットにある青空文庫の芥川龍之介全作品を読んでみることをことしの読書の抱負とした。これを書いているいま、すでにとりかかっていて、王朝もの、切支丹もの、日本や支那の古典、説話に題材をとったものなど多彩な作品世界に魅せられている。これま…

芥川龍之介を読もう!(一)

昨年の暮れ、鬼に笑われたくないけれど、来年二0二二年の読書の第一目標を芥川龍之介全集の通読とした。テキストはネット上の青空文庫の芥川作品を集成し『筑摩全集類聚版芥川龍之介全集』に準拠して並べたものだから、げんみつには全集ではないが、とりあ…

『台北プライベートアイ』~夢中で読んだ華文ハードボイルド

紀蔚然『台北プライベートアイ』(松山むつみ訳、文藝春秋)。題名からおわかりのように中国語で記述されたプライベートアイ ( 原題『私家偵探 PRIVATE EYES』)の物語、すなわちハードボイルドである。 大陸、香港、台湾を問わずいくつか華文ミステリーは…

「師匠はつらいよ」讃

九月十三日第六期叡王戦五番勝負の第五局で藤井聡太二冠が豊島将之叡王を破り、対戦成績三勝二敗でタイトルを奪取した。これにより藤井新叡王は王位・棋聖と合わせ三冠となった。 将棋は駒の動かし方しか知らないわたしだが、弟子の活躍から師匠を知り、いま…

ジャズで彩る叙情精神~『スタン・ゲッツ 音楽に生きる』

ドナルド・L・マギン『スタン・ゲッツ 音楽に生きる』(村上春樹訳、新潮社)。B 5版五百七十頁余、しかも上下二段組で細かい活字がぴっしりと並んでいて、けっこうなボリュームにたじろぎながら読みはじめた。とことがどうだろう原書の魅力と村上春樹の翻訳…

狂気と無知と痴愚を問う~渡辺一夫『ヒューマニズム考』

碩学が生涯かけて学んだことのエッセンスを、素人、初学者に説いた本には素晴らしい著作が多い。わかりやすく、分量も少ないからよみやすい。昨年(二0一九年)十一月講談社文芸文庫で復刊された渡辺一夫『ヒューマニズム考 人間であること』もそれに該当す…

四十年にわたる大河スパイ小説〜『CIA ザ・カンパニー』

ロバート・リテルは気になるスパイ小説の書き手だが、読んだのは『ルウィンターの亡命』だけで、しかも長いあいだご無沙汰だったところ、自粛生活の余得で『CIAザ・カンパニー』(渋谷比佐子監・訳、2009年柏艪社)を読む機会を得た。上下二段組、六百頁にな…

『大江戸の飯と酒と女』~『政談』のあと

享保十一年(一七二六年)荻生徂徠は八代将軍徳川吉宗の諮問にこたえ時代に即応する政策体系を論じた『政談』を書き上げた。(成稿の年は平凡社東洋文庫版『政談』校註平石直昭による) 徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いて百二十年余り、貨…

永井良和『風俗営業取締り』再読

新型コロナ感染症の拡大をうけ五月一日から持続化給付金の申請受付がはじまった。感染症禍のもと営業自粛等で特に大きな影響を受けている中小企業、小規模事業者、フリーランスを含む個人事業者等にたいして事業の継続を支え、再起の糧とするための給付であ…

二重の奇跡~フランクル『夜と霧』

そのうち読もうと思ったのがいつだったか思い出せないほど遠い昔のことに属するヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(池田香代子訳、みすず書房)をようやく読んだ。 フランクル(1905-1997)はユダヤ人としてアウシュビッツ収容所に囚われ、奇蹟的に生還…

魅力の巻き込まれ型スリラー〜『魔女の組曲』

ベルナール・ミニエ『魔女の組曲』上下巻(坂田雪子訳、ハーパーBOOKS)を読み、久しぶりに巻き込まれ型スリラーを堪能した。 クリスマスイヴの夜、ラジオパーソナリティのクリスティーヌに差出人不明の、自殺を予告する手紙が届く。それを機に放送中の事故…

「愛のコリーダ」におもう

「週刊文春」の映画の紹介と短評からなるシネマチャートのコーナーを長年にわたり重宝してきた。ありがたいことに一昨年(二0一八年)五月には四十年におよぶ名物企画を再編集し、洋画二百七作品、邦画五十三作品の情報と評価を掲載した『週刊文春「シネマ…