『古書肆「したよし」の記』

永井荷風は『断腸亭日乗』昭和二年十一月二十五日の記事に「近年文士原稿の古きものを蒐集すること流行し、御徒町の古書肆吉田屋の店などにては屑屋より買取りし原稿を見事に綴直しなどす。されば反古紙もうかとは屑屋の手には渡されぬなり」と書いている。

ここにある古書肆は下谷御徒町にある吉田屋だから「したよし」との呼び名があった。荷風は大正六年に書いた「古本評判記」でも言及していて「俳書浄瑠璃黄表紙洒落本なぞに明きは下谷御徒町の吉田なるべし。主人咄ずきにて客をそらさず、鑑識なかなか高し」とある。

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松山宗二『古書肆「したよし」の記』(平凡社二00三年刊)は明治二十年から昭和二十五年まで下谷にあった一古書店の創業から終焉までをたどったノンフィクションで、著者は創業者吉田吉五郎の孫にあたる方である。

彰義隊の戦いで堂舎の大半を失った徳川家の墓所上野寛永寺はやがて再建されていまにいたっている。吉田吉五郎は再建にあたった宮大工のひとり平松重吉の息子だった。吉五郎は病弱だったため家業は継がず、父もそれを許した。そうして微禄の元御家人だった吉田家の跡取りとして養子となる。ただしこれは一人息子は兵役を免除される制度を利用するため金銭で養子の戸籍を買ったものらしい。

兵役を回避した大工の倅は俳諧に親しみ、そのあげくに古書店をはじめた。扱うのは主に江戸時代の和本、浮世絵、書画だったから、読書が好きだからといってみなが親しめる店ではなかった。多数の顧客が見込める店ではなく、いっぽうで文人趣味浅からぬ個性的な客が贔屓とした。幸田露伴森鴎外谷崎潤一郎北原白秋三田村鳶魚山中共古、林若樹、三村竹清河竹繁俊奥野信太郎松本亀松、前島春三そして永井荷風などなど。

なかで三田村鳶魚は客というより相談役的な地位を占めていて、吉田屋もその文筆生活を支援していた。関東大震災での店の焼亡、昭和五年六月十九日の吉五郎の死去、昭和八年十二月十七日吉五郎の息子で二代目店主粂次の病没、いずれも書肆の存続に関わる出来事で、これらに際し物心両面で心を遣い、支援したのが鳶魚だった。

市井にあった一軒の和本専門の古書店の記録はよき常連客の足跡でもある。著者の筆致はいまはない店と客の姿を甦らせてノスタルジーを喚起する。