『台北プライベートアイ』~夢中で読んだ華文ハードボイルド

紀蔚然『台北プライベートアイ』(松山むつみ訳、文藝春秋)。題名からおわかりのように中国語で記述されたプライベートアイ ( 原題『私家偵探 PRIVATE EYES』)の物語、すなわちハードボイルドである。

大陸、香港、台湾を問わずいくつか華文ミステリーは読んでいるが、わたしにははじめてのハードボイルド、しかも優れもので面白くて、ハードボイルドファンとしてはこれからの中国語圏での隆盛を期待したい。といっても大陸また国家安全維持法下の香港において私立探偵は裏ではともかく公認の職業とはなりえないから、目下のところ私立探偵の看板を掲げられるのは台湾しかなく、おのずとこの地の私立探偵たちに大いなるエールを贈ることになる。

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劇作家で大学教授の呉誠はある日、酒席で出席者全員を辛辣に罵倒してしまう。若い頃からパニック障害と鬱に悩まされてきたとはいえ、その日の言動は自分に嫌気がさすほどひどいもので、おまけに五十歳をまえに妻に見捨てられ鬱々は昂じるいっぽうだ。

これを止めるには芝居も教職もなげうって新たな道を行くほかないと思い定めた男は台北の裏路地、臥龍街に私立探偵の事務所を設け、にわか仕立ての素人探偵のスタートを切った。

やがて事務所にはじめての客がやってきた。その主婦は、中学生の娘がとつじょ挙動不審になり、 夫も人が変わったようになった、いったいどうなっているか探ってほしいと呉誠に依頼した。

初の案件をこなした呉誠だったが、そのあとに思わぬ事態が待ち受けていた。

殺人事件が発生し、監視カメラで生前の犠牲者をチエックするとかたわらに呉誠が映っている。台北では路地の隅々まで監視カメラが設置されているようで、まもなく起こった第二の殺人事件でも生前の犠牲者のそばに呉誠の姿が見えていた。しかも後頭部に危害を加えた手口はおなじ。こうして探偵は連続殺人事件の犯人と疑われる羽目に陥る。疑いをはらすには警察に頼ってばかりではいられない。

スリリングなストーリー展開、丁々発止の会話、台湾の社会風俗についての観察やアメリカ発のファーストフードの台湾における展開とか横溝正史の『蝶々殺人事件』論など饒舌気味の一人称文体で語られる文明批評や文化論などが一体となった華文ハードボイルドの世界に読者が魅了されるのは請け合いだ。

連続殺人事件の関係者と疑われた呉誠は、マスコミに漏れてしまったために外出できなくなってしまう。「それから三日間、一歩も外に出ないで、読書、事件の分析、音楽を聴く、テレビを見る、シャワーを浴びる、自慰など、心と体に有益な活動をおこなって、焦りから距離を置くようにした」。ここからも饒舌の片鱗は窺われるだろう。

せっかくだから日本人についての議論を紹介しておくと、日本人は他の人種より優秀だということはないはずだが、彼らは「桜花主義」の触媒のなかで、鉢巻をしめて「必勝!」と大声で叫ぶ儀式により、穢れのない美と排他精神を守りとおし、ついには自分たちに自己睡眠をかけてしまった、と述べている。

本書の刊行は二0一一年、 訳者によると、ことし二0二一年に続篇『DV8』が刊行されている。早い訳出を期待したい。いま探偵=作者は日本をどんなふうに観察しているのだろう。