役者を見抜く力と表現力~芝山幹郎『スターは楽し 映画で会いたい80人』  

「繊細よりも精気を誇り、屈託よりも痩せ我慢を選んだゲイブルには、やはりキングの名がふさわしかった」

「クーパーには荒野と摩天楼の両方が似合った」。

芝山幹郎『スターは楽し 映画で会いたい80人』(文春新書)にあるクラーク・ゲイブルとゲーリー・クーパーについての一筆書きのポートレイトだ。

芝山幹郎氏は現代日本の有数のコラムニストである。わたしは氏の野球にかんする著書とは無縁だから忠実な読者ではないけれど『スターは楽し』を読みながらその評価をいっそう強く確信した。

スターの核を見抜く眼力、優れた表現力、適切な情報の配置が「化学反応」を起こして読者を映画の世界にいざない、また想像の世界に赴かせてくれるからスターは楽しく、読者も楽しい。

たとえば。一九一三年、大阪府枚方市に生まれた森繁久彌の大叔父に成島柳北がいた。本書で知ったわたしには思いもよらない関係で、永井荷風は江戸時代末期の幕臣で明治政府への出仕を潔しとせずジャーナリストに転じた柳北を高く評価し、尊敬していた。荷風はこのことを知っていただろうか。森繁は荷風原作の「渡り鳥いつ帰る」に出演していたから、可能性は低いけれど、ひょっとしてこのご縁で撮影中、荷風と森繁が柳北を話題にしている光景をわたしは想像した。

あるいは『ゴッドファーザー』(一九七二)のヴィト・コルレオーネの役は最終的にはマーロン・ブランドが演じたが、じつはオーソン・ウェルズに演じてほしかったと著者は言う。そこでしばらくオーソン・ウェルズのドン・コルレオーネについてあれこれイメージしてひとときを過ごす。

著者の個々の映画についての批評はこれまで何冊かに集成されているが、『スターは楽し』は役者を対象とする人物論だから一本の映画の批評を書くときよりも個々のスターの人物像、その周辺など話題は広がり、俯瞰的な景色が提示されることとなる。

ちょうどいまクエンティン・タランティーノ監督の新作「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」が上映されている。本書にはあの事件にまつわるエピソード(わたしには、オッ!だった)があるので紹介して結びとしよう。

女優シャロン・テートら四人が惨殺されたのは一九六九年八月九日の夜、この日スティーブ・マックィーンロマン・ポランスキー邸でのパーティーに招かれていた。ところが、マックィーンはポランスキー邸に行かなかった。その日の午後、会ったばかりの女とベッドにもつれこんでしまい欠席したのだ。女性の身許はいまもって不明とのこと。三十代のマックィーンは「肉欲の虜」だったから手の早さが命を救ったことになる。

シャロン・テートらの無差別殺害はカルト指導者、シリアルキラーチャールズ・マンソンによるものだったがスティーヴ・マックィーンの名は「マンソンの標的リスト」のトップにあった。マックィーンは一九八0年五十歳の若さで亡くなったが、女性への手の早さが十年余りを生き延びさせてくれたのだった。