『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』

十月二日からNHK連続テレビ小説「ブギウギ」の放送がはじまった。それに先立って番宣の一環だろう八月にNHK出版新書で輪島裕介『昭和ブギウギ 笠置シヅ子服部良一のリズム音曲』が出版された。

いまの流行歌やJポップとかはほとんど知らない。その代わりといってはなんだが古賀政男服部良一の楽曲にはよく親しんでいるし、昭和初期から三十年代にかけての懐メロについてはたぶん現代の日本人の平均よりいくらか詳しいと自認している。そんなわたしだから連続テレビ小説は視聴しないが笠置シヅ子服部良一をめぐる本は見逃せない。

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まず笠置シヅ子服部良一の生い立ちの素描のあと二人の大阪時代が丹念に辿られる。笠置は宝塚音楽学校に不合格となったあと大阪松竹楽劇部に入団、日舞からスタートし、まもなく歌手に転じた。いっぽう服部はダンスホールでサックスを吹きながら、作曲を学んでいた。

それぞれ頭角を表していた二人がやがて上京し、帝国劇場を拠点に活動をはじめた男女混成のレビュー松竹楽劇団(SGD)で出会う。一九三八年(昭和十三年)四月、松竹は当時傘下に収めていた帝国劇場を拠点に、男女混成の「大人のレビュー」を標榜し旗揚げしたのが松竹楽劇団だった。

著者の輪島氏はこの出会いを「運命的な出来事」と評している。服部が志向した「日本のジャズ」を舞台で表現するうえで最もふさわしい表現者は戦前戦後を通じて笠置シヅ子にほかならなかった。服部の「日本のジャズ」は大阪のダンスホールで培われ、笠置の活動の場も大阪、ご近所の神戸の外国人のあいだではよくダンスパーティーが催されていて、関西でのジャズのブームは「道頓堀ジャズ」と呼ばれた。笠置、服部の上京は「道頓堀ジャズ」の東漸であり、二人を育てた関西の興行資本が東京で本格的に展開する前触れであった。

こうして笠置、服部のコンビは戦前のジャズ文化の最高峰となり、これが戦後のブギウギに引き継がれた。

竹楽劇団の公演については服部良一が「公演を重ねるごとにジャーナリスト仲間でも評判になった。南部圭之助双葉十三郎野口久光といったうるさ方が笠置シヅ子にぞっこん参ってしまいSKDの女王・水の江瀧子の外遊中は笠置シヅ子が帝都の人気を一人でさらった感があった」と書いている。(『ぼくの音楽人生』)

じじつ双葉十三郎は熱烈な賛辞「笠置シヅ子論」を執筆し、野口久光は「キネマ旬報」の劇評に「兎に角、笠置シヅ子位、ミュジカルのエンタテイナーとしてのスピリットを持ったひとは一寸ない。大阪育ちであることにも依ろうが、舞台人としての気構えが違うのであろう」と称賛した。

ところで著者は笠置シヅ子服部良一の楽曲と舞台について重要な指摘を行っている。すなわち、むかしのレコード歌手はレコード会社の方針や取締当局の興行規制などで基本的に録音に特化していて、映画と抱き合わせのかたちで歌ったり、せいぜいがリサイタル形式で、いまのように長いライブ・パフォーマンスを行うことはほとんどなく、対する笠置シヅ子服部良一は舞台での実演および映画でのパフォーマンスに重きを置いていた。このコンビは録音のために曲を作るというより、舞台や映画のために作られた曲を事後的にレコードに録音した。実演の場を前提とした音楽性がやや例外的にレコードに記録され、それが舞台や映画の人気に拍車をかけたのだった。そのなかから著者は代表作として戦前の「ラッパと娘」、戦後の「買物ブギー」を挙げており、一聴、和製スイングここにありの感を深くする。

記録媒体の乏しかったのを嘆いても詮ないけれど笠置シヅ子の真骨頂は舞台にあった。さいわい黒澤明監督「酔いどれ天使」での「ジャングル・ブギー」(作詞黒澤明)をはじめとして彼女のパフォーマンスはかろうじて何本かの映画に遺されており、いくつかはYouTubeで視聴できるので、ぜひ。

附記

『昭和ブギウギ』の読後YouTube笠置シヅ子の情報を仕入れていると、あるチャンネルで笠置シヅ子後援会の会長が南原繁東大総長だったことが紹介されていた。笠置は一九一四年香川県大川郡相生村に生まれ、生後間もなく父親が亡くなり、大阪で養女として育てられた。

南原繁は一八八九年香川県大川郡南野村に生まれた。笠置シヅ子とは生まれた村は異なるがおなじ香川県大川郡で、いきさつは知らないが、南原は笠置の実父と知り合いで、その娘が笠置シヅ子と知り、戦後のある日、彼女に東大へ訪ねてもらい、その父について語り、それがきっかけで後援会長となった。