小澤征爾氏の死去と『嬉遊曲鳴りやまず』

この二月六日、小澤征爾氏が八十八歳で亡くなった。クラシック音楽とはあまりご縁がなく、同氏指揮の演奏も五指を超すかどうかのスピーカー鑑賞しかないけれど、この日は追悼の意を込めてブラームスハンガリー舞曲第一番、五番」とモーツァルトアイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴いた。いずれもサイトウ・キネン・オーケストラの演奏で、同オーケストラは一九八四年九月、齋藤秀雄歿後十年に、その教え子だった小澤征爾の発案により、秋山和慶ら門下生百余名がメモリアルコンサートを開催し、これが基礎となって生まれたオーケストラである。

そのあとYouTubeをみると「教える事は学ぶ事」と題した齋藤秀雄の長時間インタビュー番組がありさっそく視聴した。小澤征爾氏の死去を機に、その師も注目されているのだろう。一九七三年十一月にNHK女性手帳」で数回にわたり放映されていて、森本毅郎高橋美紀子のおふたりが聞き手だった。わたしには齋藤秀雄の映像ははじめてで貴重な機会となった。このとき齋藤は七十歳、小澤はボストン交響楽団の指揮者だった。

以前から齋藤秀雄には関心があり、前世紀の終わりころ、その生涯を描いた中丸美繪『嬉遊曲鳴りやまず』を読んだ。もとは日本の英語教育の基礎をつくった父親、齋藤秀三郎(一八六六~一九二九)への関心から息子についても知りたいと思ったのだった。こうして小澤征爾氏の死去にともない『嬉遊曲鳴りやまず』と再会した。

齋藤秀三郎。明治の世に日本人が学ぶ英文法をほとんど独力で体系化し、日本の英語教育の基礎をつくった人である。

十八歳で東京帝国大学工学部の前身、工部大学校を卒業まぎわに学校当局と衝突して放校とされ、その後、岐阜中学に赴任するが、校長から中等学校英語教師の資格試験を受けるよう求められると「誰が私を試験するというのか」と言い放って辞職した。

生涯で電話口に出たのは政府から叙勲の受諾の返事を求められたときただ一度だけと伝えられる。正則英語学校での授業と著作と辞典の執筆に明け暮れる日々で、電話はそれらの妨げになるから拒んだのである。この個性あふれる人の長男で音楽家齋藤秀雄の伝記となればそれだけで読書意欲はいやが上にも増すばかりだった。

秀三郎の長男秀雄の生涯を描いた中丸美繪『嬉遊曲鳴りやまず』(新潮社)は父親似の一徹な個性が生むさまざまなエピソードや教え子、同僚らの回想またインタビューが巧みな筆さばきで綴られ、クラシック音楽に不案内なわたしのような者でも巻を措くあたわざる状態となった。

齋藤秀雄(一九0二~一九七四)はチェリスト、指揮者そしてなによりも音楽教育家であった。秋山和慶小澤征爾堤剛、徳永兼一郎、藤原真理前橋汀子たち戦後日本の音楽家山脈の相当部分はこの人の創設した「子供のための音楽教室」及びその発展した桐朋大学音楽学部から輩出している。

戦前はNHK交響楽団の前身新交響楽団チェリスト、指揮者として活躍したものの、個性の強さと容赦ないトレーニングが災いして追放同様に退任させられ、戦後は音楽教育に尽くした。周囲からは大人に相手にされなくなったから子供を相手にしていると陰口されるなかで、世界の音楽愛好家の驚異となった桐朋オーケストラをつくったのだった。

NHK「教える事は学ぶ事」には藤原真理さんも演奏またインタビューで出演していた。『嬉遊曲鳴りやまず』には齋藤と藤原のこんなエピソードがある。

齋藤秀雄には自分は音楽の使徒であり、演奏も指揮も教育も音楽という神への献身であるとの思いがあった。だから、大阪にいた藤原真理という十歳の女の子を東京に出したらと母親に勧め、母親が娘をほいほいと預かってくれる親類もないからと答えたところ、そんなら親が一緒に出てきたらいいとこともなげに言えたのである。そして藤原一家は生活のめども十分ではなかったがこれを機に東京へ転居した。音楽への献身が親にも子供にも伝わったのだと解釈しなければ、このやりとりは世間知らずの芸術家の妄言に過ぎない。

ちなみに「教える事は学ぶ事」では齋藤の「私には、音楽の中に言葉が聞こえる。それを若い人達にも聞こえるようにして、その意味が解って貰えるようにしたい」という発言が紹介されていた。秀雄は音楽には独自の言葉の体系があると捉え、それを分析して示し、教えたという。父秀三郎の英文法は音楽にも影響していた。

写真はわたしのサイトウ・キネン・ディクショナリーです。

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