二重の奇跡~フランクル『夜と霧』

そのうち読もうと思ったのがいつだったか思い出せないほど遠い昔のことに属するヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(池田香代子訳、みすず書房)をようやく読んだ。

フランクル(1905-1997)はユダヤ人としてアウシュビッツ収容所に囚われ、奇蹟的に生還した。その体験にもとづいた本書(原題「強制収容所における一心理学者の体験」は初版が1946年、改訂版が1977年に刊行されていて、今回わたしが手にした池田訳は改訂版)は限界状況における人間と強制収容所についての貴重な記録また考察である。

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*写真は筆者がポーランドを旅行した際に撮ったものです。

強制収容所の被収容者は絶滅政策の対象であり、命を奪われるまえに肉体労働力として搾取し尽くされた。かれらはヒツジの群れのようにあっちへやられ、こっちへやられ、集められたり、散らされたりする状態に置かれ、群れのなかでは「わたし」という存在を支えるのに困難をきたした。

精神的兆候として感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心があらわれ、ほどなく毎日毎時殴られることにたいしてもなにも感じなくなった。こうして人間の生命や人格の尊厳などいかほどの価値もないという空気は当たり前のこととなる。

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生き延びる見込みのほとんどないとき人々を支えたのはなんだったか。

強制収容所の人間は、みずから抵抗して自尊心をふるいたたせないかぎり、自分はまだ主体性をもった存在なのだということを忘れてしまう」とフランクルはいう。つまり抵抗心、自尊心、主体性は生きのびるための必須事項である。しかし、これくらいのことは少しばかり目端のきく者なら言葉としてはいえるだろうが、じっさい極限状況のなかで抵抗心、自尊心、主体性をどれほど自分のものとできるかは別の次元の話であり、多くの人たちが自殺を思い、願った。

このなかにあって著者は精神的ケアに従事し、命を救うための活動、とくに自殺を思いとどまらせる役割を果たそうと努めた。精神医学者、医師としての責務、使命感に敬服するとともに、その強靭な精神に頭が下がった。

「わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、『生きること』の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた」。

強制収容所という極限の状況のなかで人々は「苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味」を求めていた。そしてこのことは強制収容所という特異な環境のなかだけのものではなく、環境、条件の違いはあっても、人は生きる意味、人生の確証を求めようと願うから、おのずと『夜と霧』は強制収容所の外へと広がる。

フランクルは「生きていることにもうなんにも期待がもてない」人たちに「生きていれば、未来に彼らを待っているなにかがある」というメッセージを伝えることに成功した、すなわち自殺を思いとどまった二人の話をあげている。ひとりは愛する子供が外国で父親の帰りを待っていて、子供が生きる支えとなった。

もうひとりにはなんとしても完成させたい研究があった。プラトンと同時代の数学者、天文学者であるエウドスコスは、あっという間に焼け死んでもかまわないから、一度なりとも、太陽を近くで見て、その形、大きさ、美しさをわからせてくださいと神に祈りを捧げたという。研究心、探求心はときにこうした強さをもたらす。そして二十世紀の囚人は命を賭けるなら自死ではなく研究の完成を願ったのだった。

「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が『なぜ』存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる『どのように』にも耐えられるのだ」。

子供、研究といったかけがえのないなにかが強制収容所で生き抜くことを可能にする大きな要因だった。

自然の美しさも人々を支えた。

「わたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた」。「わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、誰かが言った。「世界はどうしてこんなに美しいんだ」。

空にはこの世のものと思われない黄昏時の幻想的な雲、その下にあるのはナチの苛政と収容所。このなかにあって被収容者が自然の美に心を寄せたのは宗教的体験、回心といいうるのではないか。

ユーモアも大切だ。

「ユーモアもじぶんを見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間にそなわっている何かなのだ」。

そしてなによりも被収容者自身の現実と向きあう精神がみずからを支えた。

「人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだ。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はある。わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考え方だった」。

苦しみを引き受けることが生存の可能性を高める。たとえガス室で殺されようとも「人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし、同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」。そこに希望はある。

驚くべきことに被収容者を監視する側にもみずからの役割から逸脱して被収容者を力づけた人がいた。

親衛隊員だったある収容所の所長はポケットマネーからかなりの額を出して、被収容者のために近くの薬局から薬品を買ってこさせていた。収容所の医師だけはこれを知っていたが無言を通した。戦後、ユダヤ人被収容者たちはこの所長を米軍からかばい、その指揮官に、この男の安全が保障されない限り引き渡さないと申し入れ、指揮官もそれに従った。オスカー・シンドラーを想起させるエピソードはどんな状況にあっても人間の血は涸れずにあることを示して感動的だ。

たしかに所属、属性はその人のすべてを語るものではない。だが、所属、属性を超えて支え合う人間関係がナチの収容所にあったのは貴重であり、胸に響く。

しかしその逆もあった。収容所の親衛隊員からなる監視者のだれよりもきびしかったのは被収容者のなかから指名された、管理職として被収容者を監督する班長だった。先の所長はフランクルが知る限り被収容者に手を上げることはなかったが、こちらは見境なく殴った。魯迅は暴君治下の人民は暴君以上に暴だといった。このユダヤ人の班長の事例はその証である。

被収容者の班長と収容所長を指してフランクルは「品位を欠くこうした人間が被収容者を苦しめたことは、他方、監視者が示したほんの小さな人間らしさを、被収容者が深い感動をもって受けとめたことと同じように明らかだ」という。

「収容所監視者だということ、あるいは逆に被収容者だということだけでは、ひとりの人間についてなにも語ったことにはならない」「人間らしい善意はだれにもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。境界線は集団を超えて引かれる」

この認識はフランクルが戦後社会を見る視線にも活かされた。

収容所から生還したあるユダヤ人が麦の植わっている畑を踏みつけながら歩いているのをフランクル咎めたところ、相手は謝罪の意を示さないどころか、反対に収容所体験に較べて麦畑を踏むくらいなんだっていうのか、と開き直った。

「なんだって?おれたちがこうむった損害はどうってことないのか?おれは女房と子どもをガス室で殺されたんだぞ。そのほかのことに目をつぶってもだ。なのに、ほんのちょっと麦を踏むのをいけないだなんて……」。

まさしく「収容所監視者だということ、あるいは逆に被収容者だということだけでは、ひとりの人間についてなにも語ったことにはならない」のであった。

ここでフランクルは被差別の立場にある者が陥りやすい陥穽と精神の弛緩を見た。苛酷な体験の絶対化はときに自身への甘やかしや免責、被差別者割引を生み、他者の批判を、さらには他者との対話を拒否するにいたる。

わたしは、部落解放運動の活動家が「障碍者はその人一代限りのこと、自分たちは先祖代々厳しい差別を受けてきた、その苦難は比較にならない」「何代にもわたり差別を受けてきた自分たちが職や住まいで多少の便宜を図ってもらうのがいけないのか」と口にしたのを思い出す。

過剰な自己正当化や差別較べは共感と連帯を基にした差別克服に向けての社会的努力を損なう。このフランクルの視点は現代の差別問題に通じている。

訳者の池田さんによると初版には「ユダヤ」という言葉は一度も使われておらず、新版で上記した収容所長のエピソードをしるした箇所に二度「ユダヤ人」が用いられた。初版に「ユダヤ」を用いなかったことについて池田さんは、フランクルはこの記録に普遍性をもたせたかった、一民族の悲劇であり、人類そのものの悲劇として、自己の体験を提示したかった、また収容所にはユダヤ人のほかにジプシー(ロマ)、同性愛者、社会主義者といったさまざまな人々がいたことを踏まえていたから、と述べている。

フランクルが、ユダヤ人にとって利益か不利益かといった発想をする人であれば、あるいは見据える対象と思考の範囲がユダヤ人にとどまっていれば見境なく被収容者を殴ったユダヤ人の班長や麦を踏んで咎められ、開き直った男のエピソードは記述されなかっただろう。しかしフランクルは訳者のいうようにこの記録に普遍性をもたせたかった。その結果として、差別の問題に限っていえば、はからずも「収容所体験に較べて麦畑を踏むくらいなんだっていうのか」は部落解放運動をも照らしていたのだった。

強制収容所から奇跡的に生還したフランクルはその体験を通して人間のあり方に迫る奇跡的な価値をもつ本書を著したのだった。

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*写真はいずれも筆者が2017年にアウシュビッツを訪れたときのものです。