平山周吉『小津安二郎』

はじめて平山周吉という活字を目にしたときは本名かペンネームか知らなかった。ペンネームだと映画「東京物語」で笠智衆の役名をそのまま用いたのだからおもしろいワザを使ったものだと感心したが、ちょいと胡散臭さも感じた。

いまはペンネームと知っている。著者の単著一覧をみるとさいしょは『昭和天皇─「よもの海」の謎』(新潮選書)で、二0一四年の刊行だから、平山周吉はこのすこしまえから用いたと推測される。

その後、どういう人なのか気になりながらその文業に接することもなかったところ、過日草思社から刊行された『昭和史百冊』を読んで胡散臭さは吹き飛んだ。文献の博捜はただならず、それらの的確な要約と引用をもとに自身の見解を示してぐいぐいと引っ張ってくれる昭和史本で、このほど読んだ『小津安二郎』はさらなる渋い光を放っていた。これまでに知ったところでは平山周吉氏は一九五二年東京生まれ、ご自身語るところの雑文家、昭和史に関する資料、回想、雑本の類を収集して雑読、積ん読していて、江藤淳の電子本全集の編纂にたずさわっているとの由である。

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さて本書『小津安二郎』、自身の不勉強を棚上げしていえば博覧強記と新資料の続出に驚き茫然となった。

そのひとつ。寺田寅彦エイゼンシュテインのいわゆるモンタージュ理論連句を繋げた映画論を書いたのはよく知られている。これにつき小津安二郎は「故寺田寅彦博士もいわれていたが、連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがある」と「キネマ旬報」(昭和二十二年四月)で述べた。この「いわれていた」は小津が本を読んだのか、それとも寅彦が小津に直接語ったものか、どちらにもとれる。

これを著者は不明のままにしておかなかった。なんと俳句雑誌「玉藻」(昭和三十一年三月)所収の渡辺才子「映画と俳句、写生文ー小津安二郎監督を訪ねて」に小津が「私は一度連句をテーマにして何か作って見度いとかねがね思っているのですけどね。亡くなった吉村冬彦さん(寺田寅彦)が私にそれで是非作ってみないかと薦めた事がありましたがねえ。(中略)製作費や何かの点で会社がうんと云わないでしょう」と語っているのを見出したのだった。書簡の可能性も排除できないが小津と寅彦はじかに会ったことがあるとするのが妥当であろう。

小津、寅彦とも日記をつけていたが記載はなく、日付は定かでない。想像するに小津が「東京の合唱」(一九三一年)「大人の見る繪本 生れてはみたけれど」(一九三二年)で高い評価を受けたころ出会った機会があったような気がする。なお「玉藻」の主催者は高浜虚子の次女、星野立子。インタビューは一九五六年一月公開「早春」の撮影時だから前年の慌ただしい合間に行われたものであろう。

なお小津の日記一九三五年七月二十八日には寺田寅彦吉村冬彦)『蛍光板』、同年十月二十八日には『蒸発皿』の購書記録がある。後者は 一九三三年十二月に岩波書店から刊行されていて「映画の世界像」「教育映画について」「映画芸術」など映画論を多く収めている。寺田寅彦が亡くなったのは小津が本書を入手した年の十二月三十一日だった。

もうひとつ。小津の遺作となった「秋刀魚の味」では、題名の秋刀魚ではなく鱧が強い印象を残す。ささやかな旧制中学校の同窓会の席で、漢文の先生だった東野英治郎がお椀に魚をみて教え子たちに、この魚はなんという魚かな、と訊ねたところ鱧ですよと答が返ってくる、すると東野が「魚へんに豊か」と空中に文字を書く。なのになぜ秋刀魚か。

その解答は尾形敏朗小津安二郎 晩秋の味』(河出書房新社二0二一年)にあった。ここで尾形氏は森岩雄稲垣浩の回想を引用しながら、山中貞雄佐藤春夫「秋刀魚の歌」を暗唱していて、語りはじめるとその酒席にいた小津もいっしょに唱和したと述べている。「秋刀魚の味」には亡友山中貞雄の面影が秘められていたのだった。

ちなみに「落第はしたけれど」のサブタイトル「大学の四月なかばは/椎の木のくらき下かげ」は佐藤春夫の「ためいき」の「紀の国の五月なかばは/椎の木のくらき下かげ」をもじったもので、「ためいき」も小津の愛誦詩だった。

さて平山氏は『小津安二郎』について「小津と小津映画を昭和史の中に置いて見るという方法」をとったと述べている。昭和史のなかの小津はふたつの重大な経験をした。ひとつは戦争と従軍であり、もうひとつは盟友山中貞雄の戦病死だった。

日中戦争が勃発したのは一九三七年年七月七日。小津安二郎は九月十日に召集され近衛歩兵第二連隊に歩兵伍長として入隊し、上海から南京へ、さらに武漢三鎮へと赴いた。一九0三年(明治三十六年)の生まれだから平山氏が言うように「最長老の戦中派」だった。いっぽう山中貞雄は小津の召集に先立つ二週間前、「人情紙風船」が封切られた八月二十五日に召集令状が届いた。そのとき山中は手が震えて煙草に火がつけられなかったそうだ。内心はともかく「ちょいと戦争に行ってきます」と言い残して出征した小津とは対照的だった。山中貞雄の震えは予感めいた気持も作用していたのだろうか、一九三八年九月十七日河南省開封市で二十八歳の若さで戦病死した。

小津の戦争従軍体験また「小津と小津映画を昭和史の中に置いて見るという方法」を踏まえて戦後の小津作品を解析した平山氏にその作品群は「多くの無念の受け皿」と映った。

麦秋」では原節子演ずる紀子の結婚のプロセスが描かれ、「東京物語」では家族そして親と子のありようが取り上げられた。そこを貫通するいちばん大事なテーマは「憐れな敗戦国」の「精神風景」であり、そのことは小津の他の作品にも及んでいる。

「多くの無念の受け皿」に残されたのは戦争で埋没させられた死者、山中貞雄や戦友たちへの鎮魂の譜、戦争と死者の記憶の密封の拒否であった。

昨二0二三年は小津安二郎生誕百二十年、歿後六十年にあたっていた。すでに小津の文業と談話、小津を知る方の証言や回想はこれから先、出たとしてもわずかなものであろう。いっぽう田中眞澄氏のご尽力により『小津安二郎・全発言一九三三~一九四五』『小津安二郎戦後語録集成』『全日記 小津安二郎』といった基本資料も編纂整備された。田中氏の歿後となったが戦後の小津とコンビを組んだ脚本家野田高梧がその別荘、雲呼荘に備え、来訪者も自由に書き込んだ『蓼科日記』の小津関連箇所のすべても『蓼科日記抄』として刊行された。これらを基礎に今後はより精緻な、また新しい視点から小津作品は読み解かれてゆくだろう。

小津安二郎』は現時点で望みうる最大の情報量とそれを踏まえた小津作品の解読の試みである。

ただ本書にも難点がある。小津ファンを自認してきたわたしはページを繰りながら自身の至らなさを痛感し、小津のなにを見、なにを読んできたのかと無力感に苛まれたのである。