『ほいきた、トシヨリ生活』〜隠居のしあわせ 

 中野翠『ほいきた、トシヨリ生活』(文春文庫)を読んだ。著者の映画や本や落語などの好みの感覚がわたしにはうれしく、これまで多分に刺激を受けてきたコラムニスト、エッセイストである。

単行本は『いくつになっても、トシヨリ生活の愉しみ』として二0一九年に文藝春秋から刊行されている。不覚にもこの単行本は知らなかったが、知っていてもこの書名では食指は動かなかっただろう。文庫本の改題で読書意欲はグンと高まった。

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本書で中野さんは素敵なトシヨリ生活を送った人たちを讃えていて、そのひとりに「仮面ライダー」で死神博士を演じた天本英世(1926-2003)がいる。学徒出陣で兵役に召集され、戦後は東大法学部に入学して外交官をめざしたが当時の政府の政治姿勢に失望し、中退して役者に転じた。個性的な脇役として活躍し、また岡本喜八監督作品のシンボル的存在としてその大半に出演した。小津作品に笠智衆、喜八作品に天本英世である。また私生活ではスペインに傾倒し、著書のほかスペイン民俗音楽の日本での屈指のレコード・コレクションを持つことでも知られていた。遺骨は本人の生前の意志に基づいてスペインのグワダルキビール川源流に散骨されている。

中野翠天本英世によせて「生涯独身だった。こういう人は孤独というより孤高と呼ぶべきなんじゃないでしょうか。誰が何と言おうと、何と見ようと、好きに生きたほうが勝ちだと思わせてくれる」と述べている。金言ですね。

この金言の源をたどってゆくと中野さんが明治生まれの「最強の同志」と賛美する森茉莉(1903-1987)がいて、「ぐうたら」に居直って平然としている森鴎外の娘は「ぐうたらで素っ頓狂の変わり者には違いない。女の王道(良妻賢母)からはだいぶんはずれたものの、精一杯好きに生きた」のだった。

もうひとり先年ドキュメント映画「ビル・カニンガム&ニューヨーク」で話題を呼んだ写真家ビル・カニンガム(1929-2016) について中野さんは「好きなことだけ執拗に。興味の無いことはすべてパスー。これ、私の理想です」と書いている。

天本英世森茉莉ビル・カニンガムの三人からおのずと中野さんが理想とする人生が見えてくるだろう。

中野翠は四十代でエッセイ集『偽隠居どっきり日記』という本を出している。若いときから隠居にあこがれていて、わたしがこの人の著書を読むのはここにも一因がある。わたしの隠居志向は永井荷風に煽られたもので、そこからあちらこちらさまよううちに女流の偽隠居を知ったしだいだった。

中野翠は一九四六年生まれだから、すでに偽隠居たる必要はなく、本格的な隠居としてこれからその力を存分に発揮できるところにいる。そこは「トシヨリというのは世間の中心からハズレた存在だけにアナーキーであることが案外、許されるんじゃないの?子供同様、大目に見られるんじゃないの?」「分別に凝り固まって、自分を抑えて生きて来た人たちでも、トシヨリともなれば、『お役目ご苦労さん』というわけで、もはや恐いもの無しというふうになってもいいんじゃないの?」といったところだ。

おっしゃるとおりで、定年退職してから十二年目にある当方も隠居のしあわせを存分に味わっている。