寺田寅彦『漱石先生』

寺田寅彦が熊本の第五高等学校に入学したのは一八九六年(明治二十九年)九月、おなじ年の四月に漱石は英語教師として着任していた。

昨年七月に中公文庫の一冊として刊行された寺田寅彦漱石先生』は、漱石とのつきあい、その素顔、作品、また正岡子規をはじめとする漱石の周囲にあった人びとについて寅彦が語ったエッセイ、座談などを編集した文庫オリジナル版で、漱石と寅彦のファンにとってまことに嬉しい企画だ。

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熊本第五高等学校二年生の学年末、寅彦は「運動委員」に選ばれてしまう。学年末試験をしくじった同県人の学生のために受持の先生方の私宅を訪ね、学資が続かないほどの窮状にあるから枉げて単位を与えてやってほしいと「運動」する委員である。これが二人の個人的な交際のはじまりとなった。

「運動」の結果はわからないが、寅彦はこのあと、かねてより俳人として知られていた漱石に「俳句とはどんなものですか」と質問をした。寅彦は「世にも愚劣なる質問」と書いているが、漱石はこれにしっかり答えた。

「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。」「扇のかなめのような集中点を指摘し、描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである。」「花が散って雪のようだといったような常套な描写を月並という。」「秋風や白木の弓につる張らんといったような句はよい句である。」「いくらやっても俳句のできない性質の人があるし、始めからうまい人もある。」云々。

この話を聞いて寅彦は急に俳句がやってみたくなり、夏休みで高知に帰郷したさい二、三十句を作り、新学期に熊本に戻ったとき漱石に見てもらった。そうして次に漱石宅を訪れると、句稿には短評や類句が書き入れられたり、二、三の句の頭に○や○○が附けられていた。

やがて高等学校を卒業して大学へはいるとき、寅彦は漱石の紹介状を持ち病床にある正岡子規を訪ねた。漱石と寅彦の関係の深まりが見てとれるだろう。

吾輩は猫である』は漱石と寅彦の出会いから八年のちの一九0五年(明治三十八年)一月「ホトトギス」に掲載された。もともと連載は予定されていなかったが、好評につき書き継がれた。

『猫』の寒月君、また『三四郎』の野々宮先生は寅彦をモデルにしているという説がある。寅彦を追悼した高嶺俊夫「寅の日の追憶」で、著者が寅彦に『三四郎』の野々宮先生は寺田先生のことだという噂ですがと訊ねると、漱石はいろいろの人の特徴を取り集めるので必ずしも誰が誰とはいえない場合が多いが、大学の運動会に呼んだり、実験室を見せたりして材料の供給はしましたよと答えている。

なかでよく知られているのが『猫』にある寒月君の首縊りの話で、これについては寅彦自身「夏目漱石先生の追憶」で、学校に『フィロソフィカル・マガジン』という雑誌があり、なかにレヴェレンド・ハウトンという人の「首釣りの力学」を論じた珍しい論文があり、そこで、漱石に報告したところそれは面白いから見せろというので学校から借りてきて用立てたと述べている。

こんなふうに物理学者寺田寅彦の研究や興味関心は漱石の作品にずいぶん寄与したし、もちろんその逆のばあいもあった。

漱石の熊本時代の一句「落ちざまに虻を伏せたる椿哉」を寅彦はのちに取りあげた。ある植物学者に、椿の花が仰向きに落ちるわけを誰か研究した人がいるかと聞いてみたが、多分いないだろう、花が樹にくっついているあいだは植物学の問題になるが、樹をはなれた瞬間からあとは問題にならぬという返事だった。しかし寅彦はここで済ませることなく、観察と実験を通して椿の花が落ちはじめるときは俯向きであっても空中で回転して仰向きになろうとする傾向があるのを見出している。

花冠の特有な形態による空気の抵抗のはたらき方、花の重心の位置、花の慣性能率などが作用していて、そのうえで「こんなことは右の句の鑑賞にはたいした関係はないことであろうが、自分はこういう瑣末な物理学的の考察をすることによってこの句の表現する自然現象が濃厚になり、従ってその詩の美しさが高まるような気がするのである」と述べている。(「思出草」)

ここにあるのはともすれば一方的になりがちな師弟関係ではなく、稀代の文学者と、自然科学者にして随筆家との切磋琢磨と実り豊かな交流で、本書はそこへの案内役となっている。ちなみに安倍能成は、漱石門下での寺田寅彦の扱いは「お客分格」で、夏目先生は若い者たちの美点と長所とを認められたけれども、寺田さんに対する尊敬は別であったと述べている。

漱石と寅彦との関係は俳句からはじまり、やがて漱石は『猫』で作家デビューをした。おのずと寅彦は作家以前を含めて漱石文学の立会人となった。漱石が亡くなったのは一九一六年(大正五年)十二月九日。そして昭和になって岩波書店が刊行した『漱石全集』第十三巻(昭和三年五月)の月報に寅彦は「夏目先生の俳句と漢詩」を寄せ、「夏目先生が未だ創作家としての先生を自覚しない前に、その先生の中の創作家は何処かの隙間を求めてその創作に対する情熱の発露を求めていたもののように思われる。その発露の格好な一つの創作形式として選ばれたのが漢詩と俳句であった」「俳句で鍛え上げた先生の文章が元来力強く美しい上に更に力強く美しかなったのも当然であろう。実際先生のような句を作り得る人でなければ先生のような作品は出来そうもないし、あれだけの作品を作り得る人でなければあのような句は作れそうもない」と見解を語った。

はじめての出会いで漱石が語ったように「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」だったのである。

  先生と話して居れば小春哉 寅彦