旅と料理と酒のたのしみ~ 吉田健一『汽車旅の酒』

中公文庫オリジナルの一冊に吉田健一『汽車旅の酒』がある。二0二二年三月刊。

旅をして、汽車に乗り、駅弁や酒を買う、そこに本書があって素敵なめぐり合せである。 これを企画した編集者を讃えよう。

著者の全体像を論じたりするのはわたしには無理だけれど、読んでいるうちときに、ここに人間のしあわせがあるんだなあと思ったりするから、わたしにはそうした作家である。

「人間は仕事が出来る間が花だ、と言うが、寧ろ、したい仕事を、皆してしまって、天気なら天気で日向ぼっこをし、雨が降っていれば小料理屋の隅で雨の音に耳を澄ますとか、家に閉じ篭って読書に耽るとかする境涯こそ、人生の花と呼んでいい時期なのではないだろうか」。

天気なら日向ぼっこ、雨だと小料理屋の隅で雨音に耳を澄ますような人が、処遇の不満や世相、政権の弾劾に終始するはずがない。そんなことは飲まなくてもできるし、そこに酒代を注ぎ込むのはもったいない。

雨に降られた夜の小料理屋で飲みすぎても大丈夫。

「二日酔いの頭を抱えた翌朝が雨だったりすると、ぼんやり雨だと思って外を眺めているのもなかなかいいもので、人間、そういう時でもなければ自分が確かに自分がいるのを感じるのは難しい」。

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このゆるやかな時間の流れのなかで吉田健一の随筆を読むのはしあわせのひとときだが、いっぽうでこういう老後が難しくなっている現状を憂慮する立場から言えばある意味で本書は現代の日本論である。

いやいや、そんな煩わしい話は止して、ひと昔かふた昔まえの汽車の旅にお誘いしよう。昔は駅売の弁当やお茶はプラットホームにいる業者から買っていて、風情のある光景だったが、いつしか車内での販売がもっぱらとなった。

「そう言えばこの頃は汽車が早くなったのは有難い代りに駅売りのものを買うのがどうかすると命掛けの早業に似て来たのは残念なことで、あれでは客の乗り降りにも不便ではないかと思う。これは新幹線は勿論のこと他所を走る急行でもそうであって、その為に食べものの方は車内でも売って歩いているというのならば駅で買うべきものを席から立ちもしないで手に入れるのは邪道で味も違うと返事したい」。

一九六四年(昭和三十九年)は新幹線の開業そして東京オリンピックの年だった。上の一文からはここのところで汽車旅の光景はずいぶんと変わったと知れる。 いまはプラットホームでの駅弁やお茶の売り買いはとんと見かけなくなった。

それにしても弁当をプラットホームでなく車内販売で買うのは邪道であり、味も異なるとの言説は快く、著者ならではだ。

旅は食べたり、飲んだりのたのしみにさらなる付加価値をもたらす。吉田健一が愛してやまなかった金沢、「しかし金沢の名物よりも大事なのは、旅行していれば、こうして朝から酒が飲んでいられるということである」「旅に出ると、旨いものは益々旨くなり、そう大してどうということはないものでも、やはり旨い」。反対に 腹が減っている上に碌に飲めもしない時の名画、大建築、風光明媚などが何だと言いたい。変に気持をいらいらさせるだけ……」。

ついでながらおなじく中公文庫オリジナルの『酒談義』で吉田健一は「どんな酒でも、それが出来た場所で飲むのが一番いい味がする」「スコットランドで飲むウイスキーは、我々が日本で高い金を払ってウイスキーだと思っているものと、灘で飲む生一本が北海道まで持って行ったのと同じではない位、違っている」と述べて旅とお酒のしあわせなリンクを示している。

読むうちにわたしの旅や料理や酒をめぐる夢は膨らみ、愉快な気分になる。