四十年にわたる大河スパイ小説〜『CIA ザ・カンパニー』

ロバート・リテルは気になるスパイ小説の書き手だが、読んだのは『ルウィンターの亡命』だけで、しかも長いあいだご無沙汰だったところ、自粛生活の余得で『CIAザ・カンパニー』(渋谷比佐子監・訳、2009年柏艪社)を読む機会を得た。上下二段組、六百頁になんなんとする上巻、そして下巻もおなじくらいの大部の小説を読了できるか不安はあったが、エスピオナージュのファンとして気合を入れて読みはじめた。

一九五0年代にCIAにスカウトされた若者たちのその後のあゆみをとおして描いた大河スパイ小説で、時代は、冷戦、ベルリンの壁崩壊、湾岸戦争そして九0年代半ばプーチンの台頭あたりまでおよぶ。

入局した新人たちに上司は「諸君の中にも、スパイ小説の愛読者は少なくないと思う。CIAに対する諸君の印象がそういう小説から来ているとすれば、誤解も甚だしいと言わねばならない。現実の諜報界は、諸君が小説から感じとるほど冒険に満ちた華やかなものではなく、危険度はさらに高いのだ」。

こんなふうにスタートは地味目でぼちぼち読んでいたところハンガリー動乱のころからグイグイと進んだ。

一九五六年にハンガリーで起きたソビエト連邦の権威と支配にたいする民衆による全国規模の蜂起、本書ではこのハンガリー動乱にCIAのエージェント、エビーが反乱に起ち上がった人々とともに闘う。かれは重大時には米国が介入すると信じ、そのことを反体制派に説き、勇気づける。実際には介入はなかったけれど蜂起側にそうした期待を抱かせるような雰囲気をアメリカは匂わせていたのだろう。

史実はともかく、この小説に即していえば、ハンガリー動乱ソ連に圧殺されたあとエビーが「共産主義を撲滅する、なんて調子のいい言葉に引っかかったお人好しのハンガリー人」に乾杯といえば上司のアングルトンが「敵意のある物言いだなー」と応じていて、CIA内部にハンガリーへの介入派と反対派があったとされる。

ハンガリーで多くの犠牲者をみたエビーはベトナムの状況をまえに「CIAは相も変わらず友好的な国民を戦場に送り込み、何人生き残るかと、アメリカという要塞から高みの見物を決め込んでいる」と思っていたところアメリカはベトナムに介入した。

もしかしてベトナム戦争への介入はハンガリー動乱をやり過ごしたことのつぐないという一面があったのだろうか。だとしてもアメリカの国際情勢の分析はお粗末で、総じてこの国が介入して首脳に担ぎ上げた連中にはろくなのがいない。あるエージェントはいう「問題は構造的だー上に伝えられる情報は、彼らの誤った認識を修正するものではなく、むしろそれを補強するものでしかない」と。

南ベトナムの大統領に担いだゴ・ディン・ジエムについてベトナムを視察したジョンソン副大統領は「国民から乖離しており、しかもジエム大統領本人以上に好ましくない人物に取り巻かれている」とケネディ大統領に報告したが遅きに失したのは否めず、逆側からいえばアメリカという虎の威を借りてのし上がろうとする連中はそれだけで問題を抱えているということになる。

やがてベルリンの壁は崩れ、ソ連は崩壊する。そのときCIAのエージェントだった男は、ソ連は「構想の隠喩(メタファー)さ。ボードに描いているうちは良さそうに見えても、実際は欠陥だらけだった。その欠陥だらけの隠喩は、欠陥だらけの国家以上に消滅させるのが難しかった。でもわれわれがついにそれを打ちのめしたんだ」と語っていたが、そういえるほどアメリカがボードに描いた自由、平等、民主主義は立派だったのだろうか。

ついでながら本書に詩人ジョン・ミルトンの「ただ立って待つだけの人間も奉仕しているのだ」という言葉が引用されていた。いまは「ただ家にいるだけの人間も感染拡大防止に奉仕している」。そのおかげもあって『CIA ザ・カンパニー』を読み終えた。