『60歳すぎたらやめて幸せになれる100のこと』~人生のエンディングを軽やかに

『60歳すぎたらやめて幸せになれる100のこと』というムック仕様の本を読んだ。二0二一年十月に宝島社から刊行されている。

人生のエンディングを軽やかに生きていくために大切な「やめること」「捨てること」「離れること」「距離のとり方」「縁の切り方」などさまざまな叡智、作法、技術の提案とともにいろんな方の体験談が掲載されている。 

100の冒頭には、冠婚葬祭を失礼する、この年まで続いた腐れ縁を断ち切る、同窓会をためらうなら迷わず欠席のお知らせを、とある。いつまでも義理とふんどしは欠いてはならぬ説教を尊重していてはいけない。吉田兼好はいう、わが生ももはやよろめく力なさで、いっさいの世俗関係をうっちゃらかしてしまうべきときで、約束も守るまい、礼儀をも気にかけまい、と。詳しくは『徒然草』百十二段をご一読あれ。

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ほかにも、身体も頭髪もお湯、お水で洗っていれば、石鹸やシャンプーはたまに使うだけでよい(石鹸とシャンプーを隔日で使っていたわたしはこれを読んで一層お風呂が楽しくなった)、この年齢なら毒も味わい、無農薬や無添加へのこだわりは不要(これまでもこだわりは皆無)、いまから頑張ってダイエットしてもきれいに痩せない(ダイエットに努めたことなし) 鍼、マッサージで気持がいいのはそのときだけ(ともに未体験) など体験、未体験問わず、この種の本に馴染みのなかったわたしには散りばめられた 叡智、作法、技術はとても有益だった。贅沢いってはきりがないが七十歳すぎたわたしとしてはもっと早く読みたかった。 

高齢者に「縁の切り方」はいかがなものかと考える方もいらっしゃるかもしれない。しかし祖父か祖母が名門受験高校生の孫に殺された事件があった、孫の子守りで寝たきりになった祖父母もいる、九十越した母親が高血圧で倒れたというので、七十代の娘が病院に駆けつけたところ脳溢血になり、母親は生き延びたが娘は後遺症が残り母より先に逝ったなど血縁だろうが過度の気遣いは危険なのだ。

二0二二年二月二十四日に開始されたロシアによるウクライナ侵攻から一年、テレビのニュースでむやみにプーチンが映って不愉快極まりない。そう、本書が提案するように「見ないときはテレビを消す生活をしてみると、余計な情報に気分を害されることが減り、快適に暮らせます」でラジオとネットのニュースのほうがプーチンを見なくてすむだけでも不快度は低い。

60歳すぎて幸せになれる人たちの逆側には60歳すぎても幸せな気分になれないひとがいる。先日、たまたま読んだテオプラトス著『人さまざま』(森進一訳、岩波文庫)にその逆側の人たちがいた。

この本、オビには、古代ギリシアのちまたに暮らす民衆の世態人情をとらえた軽妙犀利な人物スケッチとあり、なかに「年寄の冷水」の章があった。直訳は「晩学」で、年甲斐もなく、教養ごとに憂き身をやつすことをいう。ご参考までに以下はその具体例。

齢六十に及んで佳言名句を学ぶがいざ酒席で口にする段になると忘れてどじをふむ。

英雄の祭りには松明競走で若者たちと競い合う。

他人の馬に乗って出かけ、ついでに馬術の練習をして落馬して怪我をする

子供たちの養育係相手に弓や槍の勝負をいどむと、相手がさながらその心得をもっていないかのように、きまってこの自分から学ぶことをすすめる。

風呂場でレスリングをやると、相当の心得があると見られたいばかりに、なんども腰をひねる技をやってみせる。

いずれも「やめること」「捨てること」「離れること」「距離のとり方」「縁の切り方」に難のある事例で、これについても『徒然草』(百五十一段)は年五十になるまで上手の域に達しない芸は捨てるべき、と教えている。

こうしてあれこれ見ていると『60歳すぎたらやめて幸せになれる100のこと』は多分に『徒然草 』を継承していて、まことにうれしい。