『茶話』のあとに

電子本『薄田泣菫茶話全集』を読み終えた。全八百十一篇のコラムの集成を廉価で提供していただき大いに感謝、また初出通り歴史的仮名遣いを用いているのもうれしい。四十代だったか、冨山房百科文庫版全三巻を読んで以来のめぐりあいで、かつてより今回は味わい深い読書ができたと自讃している。

茶話(ちゃばなし)すなわち茶飲み話のような気軽な世間話をいう。これを大阪毎日新聞の記者だった薄田泣菫が連載コラムの総題とした。有名、無名を問わず人々の逸話やゴシップを幅広く取り上げ、寸評を交えながら簡潔にして諧謔に富んだコラムは人気を博し、一九一五年(大正四年)から一九三0年(昭和五年)にかけて書き継がれた。

たとえば音楽批評家について「音楽は最高の芸術であるが、その音楽の批評家となるには、 二つの資格が要る。一つには音楽が解つてはならない事、 二つには解らない癖にお喋舌(しやべり)をしたい事、 この二つをさへ兼ねる事が出来たなら立派な音楽批評家になり得る 」。これを延長すれば政治評論家に行き着くのではないかな。

あるいは京大教授で歴史学者の内田銀蔵が、靴を小包にして東京へ送ろうとしていたところ、ひとりの学生が、先生なぜそんなことしてるんですと訊ねた。先生は、東京で買った靴の裏がずいぶん傷んだので、東京の靴屋へ送ると応えた。学生がわざわざ東京へ送らなくても靴の修繕なら京都でできますよというと先生ビックリ。

京大教授の歴史学者は、東京で買った靴の修理が京都でもできるんですかとあらためて学生に質問した。それへの学生の受け応えがいい。「京都の靴屋でも立派に手入れはできますよ。ちょうど学問の仕入れが京都大学でもできるようなものです」。そして先生は「そうでしたか、ちっとも知りませんでした」と驚いた。内田銀蔵の「ちょっといい話」である。

学校と世間の両方に通じているひとがいるいっぽうに学校、もしくは世間だけに通じているひとがいる。どうやら内田博士は世間のほうは苦手だったようだ。東京で買った靴でも修繕は京都でもできますと説いた学生はどうだっただろう。

薄田泣菫は一八七七年の生まれ、詩人としての集大成『白羊宮』を一九0六年に刊行したあと次第に活動の場を散文に移し、一九一二年に大阪毎日新聞に入社、三年後に「茶話」の連載をはじめたのだった。

『私の随想選』全七巻のなかの一巻を『私の茶話』としたフランス文学者の河盛好蔵は泣菫のコラムに寄せて「時の人についての面白い逸話やゴシップで話を始め、それをパン種にして卓抜な社会時評や人物論にふくらませてゆくというのがそのパターンで、エスプリのよく利いた名文と、大読書家としての深い教養によって、その各篇が小傑作といってよい面白い読物であった。当時中学生だった私はこの『茶話』に夢中になり、自分もいつかこんな読物を書けるようになりたいと念願していた」と思い出話を披露している。

なお泣菫は 一九一七年にパーキンソン病に罹ったが「茶話」は続き、ほかにも随筆集が刊行されている。歿したのは 一九四五年十月九日、六十八歳だった。