『大江戸の飯と酒と女』~『政談』のあと

享保十一年(一七二六年)荻生徂徠は八代将軍徳川吉宗の諮問にこたえ時代に即応する政策体系を論じた『政談』を書き上げた。(成稿の年は平凡社東洋文庫版『政談』校註平石直昭による)

徳川家康征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いて百二十年余り、貨幣経済が浸透また進展し、社会のありようが大きく変化しようとするなか徂徠は変化の具体を究明し、それに即した政策指針を吉宗に献じたのだった。

麦粟稗などの雑穀は米に代わり、味噌のない食事から味噌を食するようになり、濁り酒から清酒へと嗜好は高級化し、枯葦で火を起こしていたのが薪となり、むしろやこもを敷いて寝起きしていたのが畳の上の生活へと変わり、もともと田舎の家にはなかった障子や唐紙が普及し、高位の武家が用いていた品々を百姓町人も購入するようになった、というふうに徂徠は時代の生活の変化を具体的に指摘した。

そのうえで、都市の生活様式の広がりと生活レベルの向上が幕政の根幹を揺さぶり、貨幣経済の発展、社会的流動性の高まりが幕藩体制を大きく動揺させる可能性を持つと判断した。その芽を摘むため徂徠は吉宗に二点の最重要の献策をおこなった。

すなわち(一)江戸に住んで十年にならない者は在所に返す人返し(二)旗本を江戸ではなく知行所に住まわせる、の二つである。

江戸のにぎわいを抑え、経済における商品と貨幣の機能を低くすることを狙いとした献策であったが、その後の歴史は徂徠の狙いとは真逆に江戸はにぎわい、商品と貨幣の機能は重要性を増した。実現可能性という点で献策は失敗だった。しかしながら策を立案するに至った道筋、つまり世の中の観察と考察が上に述べたようにしっかりしているので『政談』を読むと「豊かな社会」に向かおうとする時代の実態とそのことが幕藩体制にもたらす問題点がじつによく理解できる。

安藤優一郎『大江戸の飯と酒と女』(朝日新書2019年)は江戸時代の後期を主に江戸の人々の暮らしがどのようなものだったのかを窺い知るのに便利で、読みやすい好著であり、そのことは『政談』が提起した問題の行方を探ることにほかならない。

本書の切り口は太平の世を謳歌する三つのシンボルとしての飯と酒と女、具体には野菜、果物、魚、獣肉や調味料など多彩となった食、米の生産量の上昇とともに酒造米の消費量も上がり、人々が口にするようになった清酒、そして飲食を楽しむ男女の姿である。

たとえば味噌。江戸時代以前は味噌は自家製がもっぱらだったのが蕎麦屋、天ぷら屋、鰻屋など外食産業が発展すると味噌の売買も行われるようになる。そして味噌は郷土色豊かなものだから、郷土色を付加価値とする製品が市場に出廻る。一例として仙台藩のばあい、参勤交代で江戸詰となった武士が江戸の味噌は口に合わないからと藩の下屋敷で仙台味噌の醸造をはじめ、その味噌を食べた藩外の人から評判が立ち、そこに目を付けた江戸の味噌問屋がいわば代理店として仙台味噌を扱うようになった。こうしておなじ味噌でもブランド化、差別化が図られてゆく。

もしも徂徠先生が知ったならば、商品経済にうつつを抜かしてはならぬ、と怒っただろう。いや、ひょっとすると藩の財政再建に感心されただろうか。

おなじく野菜では練馬大根、小松菜など、果物では紀州蜜柑、甲州葡萄などのようにブランド化、差別化は進んだ。これら商品作物の栽培収穫を可能にしたのは主食である米の収穫量の増加であった。また米が豊作になると酒造用の米も増える。

ターニングポイントとなったのが享保期で(一七一六年~一七三六年)吉宗は享保の改革を通じて倹約と増税による行財政改革を図ったが、皮肉なことに大規模な新田開発が進行し米価の低落傾向を招いたため、市中に出回る米の量を減らして米価を安定させ、余剰の米の用途として酒造を奨励した。もちろんここでもブランド化、差別化が図られる。

清酒については関東でも関西産(下り酒/くだりざけ)の人気が高く、享保の頃から樽回船という回船問屋が大量の下り酒を関東一円に運んでいて、その量は元禄十年(一六九七年)に年間六十四万樽、田沼時代には百万樽に及んでいた。(池波正太郎鬼平料理帳』)

下り酒に対抗して関東の豪農たちも酒造業に進出した。幕府としても江戸の富を上方に持って行かれるのは好ましくなく、幕府、豪農いっしょになった酒造りプロジェクトが発足する。酒の消費量は増え、清酒を飲めない階層は値段の安い濁酒や焼酎をたしなむようになり飲酒の多様化が進んだ。庶民は屋台、床店、居酒屋で酒や食事を手軽に楽しみ、富裕層のあいだでは高級化路線が進展した。

荻生徂徠の思惑とは反対に時代は贅沢の方角に向かって行った。

もうひとつ、料理、酒は脇役で、売り物は性というセックス産業も多様化した。江戸でいえば官許の吉原、非公認ながら実態は遊女商売が横行していた深川、上野、浅草、芝、音羽、根津(註)などの岡場所、品川、板橋、千住、内藤新宿など宿場町の旅籠屋には飯盛女が性サービスにあたっていて、女たちの悲惨な生活を犠牲にしてセックス産業は繁栄した。

ときに風紀取締りが強化され非公認の岡場所が標的にされたが寺社の門前や境内を管轄するのは寺社奉行であり、町奉行所の取締りは不十分になりがちで、それに当の寺社も遊女商売から利益を得ていたから取締りに手心を加えるよう圧力団体としての活動も行っていて、町奉行所による岡場所の摘発はなかなか進まなかった。

料理、酒、女が牽引した消費経済、これらは都市化、人間関係の多様化、いろいろな出会いの機会の増加をもたらした。そのひとつとして男女の逢引の場としての出会い茶屋があった。逢引は独身者どうしとは限らない。不倫のカップル、当時の言葉でいえば不義密通、わけありの男女の密会からは妻の操の管理面での不備、ほころびにとまどう夫の姿も見えてくる。

ここで喜田川守貞『近世風俗志』(岩波文庫、原題『守貞謾稿』)により補足をくわえておくと、密会の場所は江戸では出会茶屋、京阪では盆屋と呼ばれた。京阪では揚屋、茶屋、呼屋で盆屋を兼ねるところもあったが、そのばあいは大書した屋号の傍らに「かし座敷」と細書があった。蕎麦屋の二階もよく使われている。

男と男の逢引の場もあり「江戸出会茶屋は八丁堀代地の男色屋を第一」としていた。その構造はといえば、店の後ろに小道、左右に路地があり、人知れず入りやすいように、四面に出入口を設けてある。二階への階段も、三、四箇所ある。「密会故に尋ね来る人ある時、逃れ去るに便とす」というわけだ。京阪の盆屋では男女が店に入るとすぐに履物を隠した。これも尋ねて来る人にバレないための措置だった。江戸の出会茶屋の建て方、京阪の盆屋での履物の置き方、いずれも日本人の細やかな心遣いを表している。

荻生徂徠は本書『大江戸の飯と酒と女』にある貨幣経済の発展と社会的流動性の高まりが幕藩体制を揺るがせると見抜いていた。恐るべき洞察力であり、その慧眼は体制の動揺とともに人妻のよろめきやはびこる男色も視野に入っていたにちがいない。

 

(註)

永井荷風に「上野」と題した随筆がある。初出は一九二七年(昭和二年)七月一日「中央公論」第四十二年第七号。ここで荷風は明治から関東大震災まえにかけての上野界隈を、有名、無名の諸家が遺した史料を用いて回想している。いまいう「谷根千」、谷中、根津、千駄木をふくむ「上野」だから、わたしの住む根津のかつての姿もある。

根津遊廓については史料が少ないとして松子雁「餘歌余譚」という珍しい史料が紹介されており「昔日ハ即根津権現ノ社内ニシテ然モ久古ノ柳巷(イロザト)ナリ。卒ニ天保ノ改革ニ当ツテ永ク廃斥セラル。然レドモ猶」云々とあり、天保の改革で閉じられた根津遊郭であったが、吉原が火災に遭うたびにここを仮住まいとしていたといった事情が述べられている。表向きはともかく営業は続いていたようだ。

慶応年間に正式に復活した根津遊郭について荷風は「根津権現の社頭には慶応四年より明治二十一年まで凡二十一年間遊女屋の在つたことは今猶都人の話柄に上る所である」と述べたうえで箕作秋坪「小西湖佳話」から神社前の「八重垣町須賀町、是ヲ狭斜ノ叢トナス。此地ノ狭斜ハ天保以前嘗テ一タビ此ヲ開ク」を引いている。ちなみに、わたしの住む処は上の、いまはない町名、須賀町にあたる。

明治二十一年に閉じられた根津遊郭は洲崎への移転を命じられた。近くに東京帝国大学があり学生の風紀上問題があるというのが理由だったといわれている。なお、本郷の帝大の学生で、なじみとなった根津遊郭の女郎さんを妻にした人に坪内逍遥がいた。