東京マラソン2024

三月三日。東京マラソン2024を走り、なんとかフィニッシュできた。

一月末に風邪をひいて腹具合が悪く、ようやくよくなったと思ったら次には喉にきて鼻水、咳が出るようになり、風邪が抜け切るのを待ってトレーニングを再開したものの肝心の距離を延ばす練習は不十分のままで、当日は無理せず楽しみながら行けるところまで走ろうと考えていたが、案に相違してのフィニッシュだった。

SNSに従妹から「体調が万全ではないのに、凄いです!!お疲れさまでした。まだまだ、頑張れますね」と書き込みがあり「ありがとうございます。今回は執念の完走と思っていただければありがたいです」と返事した。自己満足とは承知しているが、正直いまの率直な気持で、これからの走りに繋げたい。

帰宅して銭湯へ行き身体を癒した。毎度のことながらレースのあとの銭湯は泣きたくなるほどありがたい。

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ウエアは上下とも黒の暖かめのもの。一度でもトイレへ行くと時間のロスが大きく、これを着たのは正解でした。

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三月四日。起床してスマホを見ると大学で同級生だったD氏から「今年も出場されたのですね。お元気ですね!同年代としては驚異的です!十歳下の友人が先日、大阪マラソンのハーフに出て、歳を弁えず、などと言うので、あなたの例を挙げさせて貰いましたら、驚いてましたよ」とおたよりがあり、「ありがとうございます。ちょっと前まではフルでもハーフでもマラソンは完走できなくなれば終わりと思っていましたが、年齢を重ねるにつれて、こんなチャレンジと楽しみを完走できなくなったといって手放すのはもったいないと考えるようになりました。そう思って見ていると、とくにフルマラソンではfun running で行けるところまで走ってみようとしていらっしゃる方がけっこういるようです。加齢とともに頭脳を鍛えるのはますます困難になりますが身体を鍛えるのはいま少し余地がありそうです」と返信した。

写真は景品のメダルとウェア。ふだん着るにはちょいと恥ずかしいな。

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ところで昨日のレースでは何ヶ所かでウクライナ国旗が振られ、また台湾の旗と「加油!」(ファイト!)のボードが掲げられていて、せめてもの心配りでウクライナには手を振り、台湾には手を振るとともに中国語で「台湾、いいぞ!」とエールを送った。なおウクライナについては《ウクライナから義足ランナーのロマン・カシュプールさん(27)とユーリ・コズロフスキーさん(41)が東京マラソンに参加した。2人とも、2014年から始まったロシアによるウクライナ東部への軍事侵攻で、戦闘中、地雷や手投げ弾で片足のふくらはぎから下を失った。今回は、昨年2月に東部ルハンスク州で戦闘中に負傷し、脊髄(せきずい)損傷を負ったデニス・ドスージーさんの治療用装置の費用を集めるため、大会に参加した。ウクライナは原則18~60歳未満の男性の出国を禁止しているが、2人は障害者であることなどを理由に来日した》との記事があった。

午後は上野へ出てスタバで本を読み、音楽を聴き、TOHOシネマズで映画を観て半日を過ごした。音楽は鈴木章治とリズムエース+ピーナッツ・ハッコーの「鈴懸の径」から入り、鈴木章治の別バージョン、他のアーティストによる演奏と大好きな「鈴懸の径」のオンパレードそして映画は マ・ドンソクの 痛快編「犯罪都市 NO WAY OUT」だ。 マラソン明けの身体と心にゲージュツ作や問題作はなじまない。

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ネットに2022年11月場所で大相撲力士を引退した豊山東京マラソンを走った記事があった。

《大相撲の元幕内・豊山の小柳亮太氏(30)が3日、東京マラソンに出場し、初めてのフルマラソン挑戦で見事完走。「血ヘド吐きながら頑張りました!」と振り返った(中略)両足を引きずりながら、手元の時計で5時間31分53秒でゴール。「本当に血ヘド吐きながらって感じで、大変でしたけど完走できてよかった」と晴れやかな表情だった。今回の挑戦の経緯について、昨年10月に行われた東京レガシーハーフでマラソンデビューを果たした。2時間8分25秒で完走し、「イケるなと思って、東京マラソンに出場しました」と語った。小柳氏は現役時代の体重は180キロを超えていたが、引退後約80キロの減量に成功し、現在の体重は105キロ。》

ちなみにわたしは昨年の東京レガシーハーフが2時間7分36秒、今回の東京マラソンが6時間34分51秒。昨年のような筋肉痛こそなかったけれど、後半の後半は足が上がらなくなり、ここで元豊山関と1時間余の差がついた。

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寺田寅彦を追悼した文章や回想記を集成した『近代作家追悼文集成[25]寺田寅彦』(ゆまに書房平成四年)を読み終えたところで久しぶりに寅彦の随筆を読みたくなり、その前に寅彦がモデルとされる水島寒月をフィーチャーしながら『吾輩は猫である』を、そしてよい機会だからと奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』を再読、そうして内田百閒『贋作吾輩は猫である』に進み、全集のおなじ巻に『東京焼尽』が収められていたのでこれも読み、寅彦の随筆は保留となっている。ほんと渡辺真知子のヒット曲「迷い道」にあるように、ひとつ曲り角ひとつ間違えて迷い道くねくね、である。

水島寒月君には橋の欄干から飛んだら川ではなくて橋の上に落ちたエピソードがある。これは漱石、虚子、四方太、鼠骨、寅彦たちで飯を食っていた折り、鼠骨が語ったエピソードだと、寺田寅彦が「高濱さんと私」に書いている。ある新聞記者が吾妻橋から投身しようと欄干から飛んだら後向きに飛んで橋の上に落ちたそうで、これが『猫』では寒月君の話になった。『猫』には寺田寅彦が提供した首吊りの話をはじめ、漱石ならびに友人、弟子たちの談論風発のなかからいろんな話題が取り入れられていて、こうした『猫』の周囲を迷い道くねくねしてみるのも一興である。

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何回目かの『吾輩は猫である』では、長い顔にヤギのような髭を生やした哲学者然とした八木獨仙が苦沙味先生にレクチャーするところがいちばん印象に残った。

「寡人政治がいかんから、代議政体にする。代議政体がいかんから、又何かにしたくなる。川が生意気だつて橋をかける、山が気に喰はんと云つて隧道(トンネル)を掘る。交通が面倒だと云つて鉄道を敷く。夫で永久満足が出来るものぢやない」

「西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生を暮らす人の作った文明さ。(中略)山があつて隣国へ行かれなければ、山を崩すと云ふ考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云ふ工夫をする。山を越さなくとも満足だと云ふ心持ちを養成するのだ」。

「交通が面倒だと云つて鉄道を敷く」なんてくだりは在来線は不便だからと新幹線をつくり、新幹線網が出来たと思ったら、次は整備新幹線なるものが必要だという。作らなければ財政負担はなく金はかからないが、作るとなると金がいる。そのために政治家は推進アクセルを踏んで自分の功績にする。そうしているうちに少子高齢化が進み、乗客は減り、やがて経営危機に陥るかもしれない。やれやれ。

吾輩は猫である』には物語とともに、逸民たちの座談、人物論、文明論、随筆などいろんな要素が入っている。風呂敷のような重宝さで、しかしこのような便利さを漱石は手放してしまい、残念ながら以後の作品の基調はお堅い物語となった。

一九0七年(明治四十年)四月夏目漱石は一切の教職を辞して朝日新聞社に入社した。高浜虚子はこの入社を機に、これまでは「道楽半分」であった創作が「是非とも執筆せねばならぬ職務」となったため創作に感じていた気ままや楽しみの度合は減退したと述べている。漱石が熊本で少し習った謡をふたたび稽古するようになったのは朝日入社のころだったし、晩年には絵を描いたり詩作に励むようになった。「氏も道楽なしには日を暮す事の出来ない人であったようである 。大学の先生をしている間は創作が道楽であった 。創作が本職になってからは謡や絵や詩が道楽となった 」のである。

朝日新聞には『虞美人草』『坑夫』『文鳥』『夢十夜』『三四郎』などが続々と連載された。その文業を讃えながらも虚子のいう「大学の先生をしている間は創作が道楽」だったころに書いた『吾輩は猫である』のような作品をもっともっと読みたかったといささか残念な気持もある。

なお漱石の謡についてはこんな逸話がある。ある日、寺田寅彦漱石の謡を初めから終いまで黙って聞いていたが 、済んでから 、先生の謡はどうかしたところが大変拙いなどと冷評を加えた 。そうすると漱石氏は 、拙くない 、それは寅彦に耳がないのだ 、などと負けず応酬した。寅彦はまた漱石の謡を巻舌だと言ったこともある。流儀は熊本で加賀宝生を習っており、再度の稽古では宝生新を師として下宝生を謡った。

ついでながらわたしのふるさと高知とご縁のある方で、わがベストスリーは寺田寅彦(東京で生まれ高知で育った)、京極純一(おなじく生まれは京都)、父竹内綱が高知の人だった関係で高知を選挙区としていた吉田茂吉田茂総理大臣には高知からやって来た陳情団を、おれの職ではないと追い返したという、わたしの好きな挿話がある。息子の吉田健一は熱烈愛読する文士だ。坂本龍馬についてはよく知らずいずれ勉強します。

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三月十六日。帝国劇場の昼の舞台で「千と千尋の神隠し」を鑑賞、座席は一階中央の前方で、あらためてお誘いまたチケットを手配していただいた友人に感謝だった。千尋役は橋本環奈、上白石萌音川栄李奈福地桃子が交互出演していて、わたしたちが観たのは橋本環奈ヴァージョンだった。

ご存知のように、物語は千尋という少女が 両親と引っ越し先に向かう途中、トンネルから不思議の世界へ迷い込むところからはじまる。その世界は、台湾の九份を感じさせる街で、九份大好きな当方としては、舞台でどのようなセットが組まれるかたのしみだった。期待どおり雰囲気のある装置で、それにライトが効果的で雰囲気が出ていた。

全二幕、開演十三時、終演十六時五分、あいだに二十五分の休憩という長丁場ながら幕が開くとたちまち時間は意識から消え、舞台に見入った。劇中は姿を隠していたが、フィナーレで登場したオーケストラの生演奏も心地よいものだった。舞台がはねたあとは一同四人、銀座に出て蕎麦屋さんで一献また歓談とハッピーな一日でありました。

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翌朝目が覚めてボケーとしていると「千と千尋の神隠し」の舞台と「油屋」という湯屋が浮かんだ。千尋は湯婆婆という魔女のもとで千という名を与えられ、湯屋で働かされる、この湯屋の屋号が「油屋」で、湯婆婆の語るところによるとここは八百万の神々が疲れを癒しに来るお湯屋だった。

湯屋とは別に「油屋」という旅館があり、軽井沢で堀辰雄立原道造またかれらと親しい作家たちが定宿としていた。わたしの父が亡くなって、葬儀をお願いしたのは「油屋」という葬儀社だった。灯火用、髪油、醤油などの油類を売っていた店が何かのきっかけで暖簾はそのままに旅館や風呂屋や葬儀屋に商売替えしたのか。ちょっと気になる「油屋」さんなのだ。

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三月二十四日。大相撲三月場所は尊富士が靭帯のけがを押して土俵に上がり、新入幕での優勝という偉業を達成した。この日、NHKテレビの解説を務めた伊勢ヶ濱親方は「靭帯が伸びていますからね。本来は相撲はとれないですよ。でもこれを止めたら、止めたほうも後悔しますし、止められたほうも後悔しますよね」と語った。まさしく名言ではないか!

大相撲中継がはじまるまでの午後のひととき、 ちくま文庫の新刊、日影丈吉『ミステリー食事学』を読み終えた。「女と毒薬」「凶器としての食品」と禍々しい雰囲気からスタートしラストは「食べ物の行きつくところ」として「落とし紙の経済学」「便器の構造学」「便所怪談」を話題にして、遺漏なく一気通貫、首尾一貫の食事学だった。

オビは「ミステリファン最善の古今東西"グルメ随筆"」「異色の名著、堂々復刻!」、書名は「ミステリー」、オビは「ミステリ」としたのは初出が「ハヤカワ・ミステリ・マガジン」連載だったから気を遣ったのだろう。

「復刻!」とあるように本書は「現代教養文庫」の一冊だった。単行本『味覚幻想』(1974年)が現代教養文庫に入ったのが一九八一年で、そのころだっただろう、この文庫を買ったが、忙しさにとりまぎれ、すこし読みかけてそのままとなり売却もしくは散逸してしまった。食事学に向かうゆとりを欠くわたしであったがいまは余裕たっぷりの無職渡世である。余裕は時間のことでお金ではないので、念のため。

アテネ・フランスを卒業後、フランスに留学し、帰国後はフランス料理の研究指導にあたったこともある作家の食事本らしく書中には多彩な蘊蓄と凝った料理が詰まっている。そこでイタリアで買ったトリュフ塩も少くなっているので通販に注文し、わたしはテレビの相撲に向かった。