英語のノートの余白に(13) 文末の前置詞をもう一度

一九五五年にリリースされたアルバム「ヘレン・メリルウイズクリフォード・ブラウン」に収めるYou'd Be So Nice to Come Home To (作詞作曲コール・ポーター)はジャズヴォーカルの名唱と評価され、長らく「帰ってくれたらうれしいわ」や「帰ってくれればうれしいわ」の邦題で親しまれてきた。ところが、いつのころからかその訳はおかしいと指摘されるようになった。

f:id:nmh470530:20240329155620j:image

和田誠『いつか聴いた歌』の単行本が文藝春秋社から刊行されたのは一九七0年代だったと思う。ここでは「帰ってくれれば嬉しいわ」とあったのが一九九六年に文春文庫に入った際には「帰った時のあなたは素敵」の曲名に改められていた。

このかんの事情について和田誠は《LPの解説で、この曲は「帰ってくれたら嬉しいわ」と訳されていた。ぼくは(そして多くの人が)その翻訳を何の疑いもなく受け入れていた。二十年近くたってから「あれは誤訳である」というエッセイを読んでぼくは愕然とした。「帰ってくれればうれしいわ」だと「私」が家にいて「あなた」が外にいることになる。本当は外にいるのは「私」で、私が帰ったら「あなた」がいることが嬉しい、というのが正しい訳だということである。》と述べている。

英文法的には文末にToがあると帰るのは「私」で、家には「あなた」がいることになるという。わたしはこれについて「英語のノートの余白に(10)」(2023/12/5)で話題にしたが文法的に明確な説明はできなかった。そこで《家をめざして(文末のto)、帰ったとき、そこにあなたがいたら、暖炉のそばにいてくれたらどんなにか嬉しいだろう、といったふうに解釈しているが、完璧に理解したのかと問われると自信はない。》と書かざるをえなかった。

ところが先日、里中哲彦『日本人のための英語学習法』(ちくま新書)を読んでいると、この曲名が扱われていてそこに解があったのである。まず里中氏の例題を見てみよう。

He is not easy to please.を文頭をItにして書き換えるとIt is not easy to please him.となる。彼を満足させるのは容易ではない。彼は気難しい人だ。もうひとつ

English is easy to learn for many Europeans.はIt is easy to learn English for many Europeans.となる。多くのヨーロッパ人にとって英語は学びやすい。

そこでYou'd Be So Nice to Come Home To.はIt would be so nice to come home to you.となる。こうして「あなたが待っている家に帰れたら、(私は)どんなに嬉しいことだろう」である。

『日本人のための英語学習法』が呼び水となったのか、Wikipediaにある曲の解説にはこうあった。

《原題は、コール・ポーターらしいとも言えるが、英語文法的にはかなりまわりくどい表現となっている。/日本語訳する際に問題となりやすいのは最後の「come home to」の「to」である。これはTough構文と呼ばれるもので、文頭の「You」が「come home」の目的語になっている表現であり、原題を言い換えるならば「It would be so nice to come home to you.」となる。家に帰るのは「私」ということになる。》

ネットではこの曲の歌詞を訳した小沢理江子さんが「Jazz&Popsボーカリスト 小沢理江子のブログ」に《実はこの曲の訳についてはさまざまな論争があります。/まず、最初のタイトル部分をどう訳すか?いったい帰るのはあなたなのか私なのか?本当は

『あなたがいるハズのところに、私が帰れたら素敵だわ』という訳が正しいとか。

 この曲が戦争で帰りたくても帰れない兵士の間で人気になったという事実を考えると、こちらの訳のほうが正しいのでは?と解釈して、今回はそう訳しました。》と書かれていた。

おなじくブログ「Interlude by 寺井珠重 ジャズクラブの片隅から…」には《You'd Be So Nice to Come Home To.の末尾の‘To ’ は目的語を導く前置詞、なのに目的語自体がないのは、それが主語と同じだから。こういう場合は、目的語を入れてはだめ。受験英語サイトを見ると、そういうのは「欠落構文」と呼ぶらしい。》《次によくわからないのが ’Come Home To You‘ということばの意味。‘come home’なら’家に帰る’だけど、そこに‘To you’が付くとどうなるの?私が調べた英和辞書には、イディオムとしての適切な説明はなかった。そこで、ネイティブ用の便利な無料辞書サイト、The Free Dictionary.comを調べてみる。すると、以下のような記述が!

come home to someone or something

to arrive home and find someone or something there.( 帰宅して、’to’以下の人、あるいはそれ以外の何かを見つけること) これだ!‘Come Home To You’とは、「自分の家に帰ると、あなたが居る。」という意味だったのだ。》

『いつか聴いた歌』にはこの曲について、本当は外にいるのは「私」で、私が帰ったら「あなた」がいることが嬉しい、というのが正しい訳だと、あるアメリカ人に話したところ「私は二人一緒に家に帰る歌だと思ってた」と言ったとあるから、Tough構文とか欠落構文はときにアメリカ人をも迷わせるのかもしれない。

文末の前置詞が悩ましいのに変わりはないけれど、それでもようやくYou'd Be So Nice to Come Home Toの英文解釈はこれですっきりした。なんだか愁眉を開いた気分である。