「愛のコリーダ」におもう

週刊文春」の映画の紹介と短評からなるシネマチャートのコーナーを長年にわたり重宝してきた。ありがたいことに一昨年(二0一八年)五月には四十年におよぶ名物企画を再編集し、洋画二百七作品、邦画五十三作品の情報と評価を掲載した『週刊文春「シネマチャート」全記録』(文春新書)が刊行された。

これはずいぶん便利で眺めのよい映画本で、邦画ベスト50のトップに挙がっているのが昭和十一年に起きた阿部定事件を題材にした「愛のコリーダ2000」だ。わたしはお定さんのファンだから当然「愛のコリーダ」もノーカット版の「愛のコリーダ2000」もみていて、公開の経緯もある程度は知っており「心臓と心臓がこすれあうような性器の接触は、観客に示されるのが当然だ」(芝山幹郎)には全面賛意を贈る。

阿部定のファンになったのは彼女の予審調書を読んだのがきっかけで、これはわが国ノンフィクション文学の金字塔として過言ではない。ただ「愛のコリーダ」となると「大島映画の傑作中の傑作‼︎愛のやさしさを描いた日本映画の代表です‼」(おすぎ)に同意はしても、この映画にのめりこんだり、心震えたりはなかった。

「セックスだけを描いているアナーキーな徹底ぶりがすごい」(品田雄吉

「『粋』とか『デカダンス』とは対極にあるものの凄み」(中野翠)。

といった評言を前にして、わたしはセックスだけを描いたアナーキーな徹底ぶりだとか、デカダンスの対極にあるものの凄みを描いた作品には弱いと認めるほかない。あれはみるものではなく、実践するものだと強弁しても、その力はたかが知れている。セックスを描いた映画の鑑賞力も実践力も平均には届かないような気がする。実践力は長年人並みと思っていたのだが、「愛のコリーダ」をまえにすると、そうでもないかと弱気になってしまう。

アンドレ・ブルトンを中心とするシュルレアリストとその周辺の人々が一九二八年一月から三二年八月にかけて十二回にわたり行った座談会の記録『性生活についての探究』が清岡卓行マロニエの花が言った』に紹介されている。

アンドレ・ブルトンが問う。「何人の相手とセックスしましたか?大体のところ?」

ピエール・ブルム「四人」。

アンドレ・ブルトン「三十五人」。

シモーヌ・ヴィヨン(女性)「十五人と二十人のあいだ、二十人に近い」

当時三十代半ばだったポール・エリュアールは「五百人と千人のあいだです。私はほとんど正確にセックスできるでしょう」「私は一週間セックスしないでいると、体のぐあいがたいへん悪くなります。欲望を覚えない日なんてありません」と語っている。

五百人から千人のあいだというのは開きが大きすぎるのはともかく、この数字は赤裸々か、それとも超現実主義者としての粉飾だろうか。いずれにしてもアナーキーな徹底ぶりには恐れ入る。

そういえば彫刻家のロダンは友人に「君は女のことを考えすぎる」とたしなめられ「確かにそうだ。でも他に考えることってあるのか」と答えたそうだ。ここにもアナーキーな徹底ぶりがある。

けっこう多くの映画をみているわりにはピンク映画やロマンポルノの割合は低い。そのなかで新旧「愛のコリーダ」が大傑作であると認めるのはやぶさかではないのだが、振り返ってみるに映像よりもおなじジャンルの活字のほうをより楽しんだ。

三十歳前後だったか『マイ・シークレット・ライフ』という、たしか十四、五巻もあったセックスだけを描いた著者不詳の奇書を買ったこともあったのだ。若かったあのころ手広く本を買い込んだものだった。

『マイ・シークレット・ライフ』は半分ほど読んだところで挫折したけれど世の諸賢はこの大部の性書を読破しておられるのだろうか。とすればここでもわたしは人並み以下である。