内田百閒『東京焼尽』

内田百閒『東京焼尽』は昭和十九年十一月一日から翌年八月二十一日までの個性的な日記だ。個性的というのは主題を明確にして、そこに焦点を当てている。その主題とは敗戦末期の惨憺たる空襲とその克明な記録にほかならない。

「夜半二時三十分警戒警報。五時三十分漸く解除となる。五時過ぎて西の空にサーチライト二三絛走り、高射砲の轟音遥かに聞こえたり。それだけで済んだが夜明け前三時間の上も起こされて、しょつちゆう表へ出てみなければならぬのは誠につらい」。

これは昭和十九年十二月二十五日の記事。

こんなふうに空襲の記述には時刻が付いていて、読む者に空襲がリアルに迫る。この日は夜が明けてようやく作ってあったお弁当にありつき就寝に及んでいる。起きてからは祭日のお休みを一日ぐずぐず過ごし、しばらくぶりの配給のお酒を昼から飲んでいる。昼酒なんて「そんなお行儀の悪い事は今まで嘗てしなかつたのだが、この頃は何度にでも分けてお酒を飲むと云ふ了見なり」なのである。この空襲ではわたしだって昼酒をやる。健康によいとかわるいとかはいっちゃいられない。何はともあれ飲めるとき飲まなくてはならない。なお十二月二十五日に「祭日」とあるのは、大正天皇の御誕生日、先代の天皇の誕生日を「先帝祭」としていた。

昭和二十年になると空襲は苛烈の度合を増す。一例として二月十六日の状況を抄出して見ると、7:10空襲警報。9:40警報解除。10:30B29少数機来襲。10:50空襲警報。11:15別にB29一機来襲。12:10空襲警報解除。12:35空襲警報。13:25空襲警報解除。14:55空襲警報。16:00解除といった具合だ。そして三月十日、東京は大規模な空襲を受けた。

東京都は昭和十九年十一月二十四日から昭和二十年八月十五日まで百六回の空襲を受けていて、とりわけ昭和二十年三月十日、四月十三日、四月十五日、五月二十四日未明、五月二十五、二十六日は大規模なものだった。(Wikipedia

罹災した文学者の日記では三月十日の空襲で麻布の自宅、偏奇館が焼亡した様子を描写した永井荷風の『断腸亭日乗』がよく知られている。このとき内田百閒は被災しなかったが五月二十五、二十六日の空襲で自宅が全焼した。

「(四谷界隈にある)私の家が焼けたのは十二時前後に、多分十二時より少し前ではないかと思ふ」「新坂上朝日自動車と青木堂の四ツ角に焼夷弾のかたまりが落ちたらしく、こちらから見るその辺りの往来一面が火の海になつた」。

百閒と妻は逃げる。夫はなけなしの一合の酒の入った一升瓶を抱きながら。「これ丈はいくら手がふさがつてゐても捨てて行くわけにはいかない」。ポケツトにはコツプがあり、準備怠りない。苦しくなると奥様に注いでもらい、朝がたその小さなコツプに一ぱい半飲んでお仕舞いになった。空襲で家が焼けても酒飲みに手抜かりはない。

自宅が全焼してからは近所の家というより小屋を借りての生活がはじまる。六月二日には世話になっている友人、同僚と冷酒を酌み交わしていて、肴はまず最初に梅干をはさみ、つぎに味噌をつっつき、最後に生ぐさとして瓶詰の鮭を取っている。それにしてもどうやって酒を手に入れていたか、そこのところも本書の読みどころのひとつで、まこと蛇の道は蛇である。

時間は前後するが昭和二十年一月二十七日の記事を見てみよう。この日夕刻、省線電車(鉄道省運輸省の管理に属した電車とその路線の通称)は東京駅に入れないほど銀座界隈の空襲はひどかった。ところが轟音が聞こえている最中ではあったが、いきなり空襲警報解除のサイレンが鳴った。数寄屋橋の近くでは、そのサイレンを聞いて、防空壕に退避していた人々が表へ出たところへ爆弾が落下した。いっぽうラジオではただいまの解除のサイレンは機械の故障によるまちがいだと放送したが犠牲となった方々には間に合わなかった。似たようなことがウクライナガザ地区でも起こっているのではないか。昔の東京の話とは思われず心が騒いだ。

百閒は空襲のリアルを示すために、意図してだろう政治、軍事についてはほとんど言及していない。ただし例外はあって大政翼賛会の解散について「新聞記事を読みて胸のすく思ひなり」「文士が政治の残肴に鼻をすりつけて嗅ぎ回つてゐる様な団体が無くなつて見つともない目ざはりが取れてせいせいした」と記している。電光一閃の批評は優れた文士の証である。

そして八月十五日。「ポツダム宣言受諾の詔勅は下つたけれど陸軍に盲動の兆ありとの話をきく。こちらの戦闘機が出撃する事になれば向うも又大ひにやつて来るに違ひないから若し警報が鳴つたら間違ひと思はずに矢張り防空壕へ御這入りになる様に」。

「陸軍盲動」の話はあの「日本のいちばん長い日」を指すが、噂はずいぶん早く飛び交っていたと知れる。そうして八月十七日の記事には「午前十時四十分警戒警報、B29一機なり。頭上に聞き馴れた音がして遠ざかつた。もう危害は加へないだらうと云ふ気がする」とあり、すぐに解除となったが警報は出ていたのだった。

本書は八月二十一日の記事を最後に終わる。その結び。

「『出なほし遣りなほし新規まきなほし』非常な苦難に遭つて新しい日本の芽が新しく出てくるに違ひない。濡れて行く旅人の後から霽るる野路のむらさめで、もうお天気はよくなるだらう。」

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