魅力の巻き込まれ型スリラー〜『魔女の組曲』

ベルナール・ミニエ『魔女の組曲』上下巻(坂田雪子訳、ハーパーBOOKS)を読み、久しぶりに巻き込まれ型スリラーを堪能した。

クリスマスイヴの夜、ラジオパーソナリティのクリスティーヌに差出人不明の、自殺を予告する手紙が届く。それを機に放送中の事故、ペット犬の虐待、家宅侵入などさまざまな災難が降りかかる。

クリスティーヌに迫り来る危機の謎を解いている時間はなく、なによりも生命と安全のためひたすら逃れるしかない。逃げ切れないと見極めたときはどうするか。方向転換して追って来るものに立ち向かい、みずから謎を究明する。ここで彼女の逃亡譚はにわかに冒険小説の色彩を帯びる。

いっぽう本書には休職中の刑事が自殺として処理された女性の死に不審を抱き、密かに捜査するという別筋が織り込まれていて、はじめは不可解だが、やがて両者は合体する。その過程もスリリングだ。

巻き込まれ型スリラーが好きになったきっかけはエリック・アンブラー『あるスパイへの墓碑銘』だった。逃亡譚に惹かれたのは丸谷才一『笹まくら』で、この作品はわたしが日本の現代文学に少しは関心を持つきっかけともなった。

いつの頃からか身近なこと、大事なことから逃れたい自分の困った性格には気づいていた。ほんとうは仕事からも早く逃れたかったが叶わず、定年まで勤めた。そんな逃避志向の強いわたしが二十代の後半になって、ドイツのスパイにまちがえられた無国籍の青年が、もがき、逃げながら嫌疑を晴らすアンブラーの物語に、また陸軍の応召を拒み、徴兵忌避して日本中を逃れて回った人物を主人公(モデルは英文学者の永川玲二)とした丸谷才一の物語に心惹かれたのは必然の道筋であり、その延長線上に『魔女の組曲』がある。

「流れ星いまもどこかを脱走兵」(暮尾淳)。

ベトナム戦争当時はベ平連ベトナムに平和を!市民連合)が米軍の脱走兵をお世話していた。現在も世界各地での戦争が脱走兵を生んでいるだろう。また難民という逃れの人たちもいる。いま急を要するのは新型コロナウイルスから逃れることだ。わたしはクリスティーヌのように途中で方向転換してウイルスに立ち向かうのは無理だから、せいぜい医療関係者の仕事を増やさぬよう、迷惑や邪魔にならぬよう外出自粛という逃れに努めている。でもこの逃れは感染症を克服する一助になるそうだからありがたい。なにかとエスケープという課題の多い世の中である。