群盲と象

北斎漫画』を眺めていると第八篇に「群盲象を評す」の絵(漫画)があった。昔から知られていることわざだから、あって不思議はないけれど、こうして眼にするとことわざを絵にする発想が面白く「おやっ、ほほう」と感心した。

f:id:nmh470530:20210628140320j:image

六度集経」という仏教説話集に、王と、象に触れた盲人たちとのやりとりがある。

王が、象とはどういうものだったと問うた。

ご下問にたいし、象の足を触った盲人は立派な柱のようだった、尾を持った者は箒のよう、尾の根本を持った者は杖のよう、腹を触った者は太鼓のよう、脇腹を触った者は壁のよう、背を触った者は背の高い机のよう、耳を触った者は団扇のよう、頭を触った者は何か大きなかたまり、牙を触った者は何か角のようなもの、鼻を触った者は太い綱のようなものと答えた。これを聞いて王はかれらに、お前たちは、まだありがたい仏様の教えに接していない者のように、理解の幅が狭いのだね、と語った。

北斎の絵には、象の牙にぶら下がっている者、尻尾につかまっている者、頭や背中に乗っている者、鼻や足に触れている者などがいるから、あるいは作者は「六度集経」を参考にしたのかもしれない。

それはともかく「群盲像を評す」はインド発祥のこの説話がもとになっていて、物事や人物の一部、ないしは一面だけを理解して、すべて理解したと錯覚してしまうたとえとして用いられたり、凡人には大人物や大事業などの全体を見渡すことはできないとか、木を見て森を見ずとおなじ教訓とされたりする。

現代の感覚からすれば、盲人を認識の度合の低い者のたとえとした点で、視覚障碍者にたいする差別的言辞とされるのは避けられない。しかしここには現実を認識するのがどれほどむつかしいか、その困難を少しでも克服するにはどうすればよいのかのヒントが語られている。

象を知ろうとすれば、「象とはどういうものだった」にたいする答えがどうしてこれほど異なるものになったのかを考え、それぞれの答えを組み合わせたり、分析したりする作業が不可欠となる。説話に戻ると王に求められたのはこうしたいとなみだったはずだが、残念ながらかれは盲人たちを理解の幅が狭いと切って捨てる程度の人だった。

フランス文学者の渡辺一夫がこのことわざについて「思想とは、争うためにあるのではなく、現実という巨象を撫でさする群盲たる我々が各自の認知報告を提出して、複雑な人類の現実の処理を行う目的のためにあるものであろう」と述べている。象を世界の現実に置き換えると、象に触れた盲人は、世界の現実のなかにいるわたしたちの姿と重なる。そしてできるだけ現実を正確に認識するには限りある能力しか持たない個人が捉えた現実を提出しあうほかない。

ここで思い出すのが五所平之助監督「煙突の見える場所」(一九五三年)で、東京北千住の千住火力発電所に立つ煙突をランドマークとする界隈に暮らす庶民の姿を描いた名作である。発電所は一九二六年(大正十五年)から一九六三年(昭和三十八年)まで稼働し、翌年解体された。ここにあった四本の煙突はなつかしい昭和のシンボルのひとつとなっている。

四本の煙突はおばけ煙突として親しまれていた。その由来はいくつかの説があるが、いちばん知られているのは見る場所によって一本にも二本にも、また三本にも四本にも見えるというものだ。

「煙突は何本」とだれかが問えば、一本と答える人があれば四本の人もいる。群盲と象の煙突版である。

一本、二本、三本、四本いずれであれ、自分の立ち位置を絶対とする者になぜ異なる映り方があるのかの疑問は解けない。目に一本と映った者に、四本の答えはおどろきで、そしてここにどうして四本なのかという疑問と、原因を突きつめようとする探求心が生まれる。その前提となるのが、一本から四本までそれぞれが見た情報の交換にほかならない。

群盲と象をめぐる話は、お前たちはまだ理解の幅が狭いのだね、という王の言葉で済ましてしまうにはあまりにももったいない話である。

 

 

 

 

 

f:id:nmh470530:20071009160219j:plain