川の流れ

昨年、「カサブランカ」のシナリオを読み、感じたり気になったりしたこことを四回にわたり本ブログに書きとめた。その二回目「「カサブランカ」のシナリオから(二)~《A lot of water under the bridge.》」(2023/6/5)では、ナチスの侵攻をまえにパリで別れたリック(ハンフリー・ボガート)とイルザ(イングリッド・バーグマン)が一年後カサブランカでリックの経営する酒場で偶然再会するシーンを扱った。

イルザはリックとともにナチスを避けてパリを離れようとした寸前、ナチスに捕えられ、亡くなったと知らされていた夫で抵抗運動の闘士ヴィクター・ラズロがパリに帰還し、それをリックに告げることなく姿を消した。

失意のリックはパリを離れ、カサブランカで酒場を開く。その店ではリックの部下で、友人でもある黒人ピアニストのサムがピアノを弾いていて、イルザが男と二人連れで入店したのをいち早く目にした。イルザもサムに気がついていて、夫がレジスタンス運動の同志とカウンターで話をしているあいだに、ピアニストを呼んでもらえるかしら、とボーイに頼み、サムがやって来る。

「こんばんは、サム」

「こんばんは、ミス・イルザ。またお会いするとは思いもよりませんでした」

と挨拶を交わしたあとのやりとり。

《It’s been a long time.》「久しぶりね」

《Yes.ma’am.A lot of water under the bridge.》「ええ、いろいろなことがありました」

《A lot of water under the bridge.》は《A lot of water has flowed under the bridge.》の省略形で、このせりふにわたしはアポリネエル「ミラボオ橋」を思い出し、これを英文解釈の補助線とした。以下は堀口大學訳詩集『月下の一群』より。

ミラボオ橋の下をセエヌ川が流れ

われ等の恋が流れる

わたしは思ひだす

悩みのあとには楽しみが来ると

日が暮れて鐘が鳴る

月日は流れわたしは残る

わたしは「ええ、いろいろなことがありました」に「ミラボオ橋」を重ね、ロマンティックなセリフだなあ、と思った。 

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ところが最近になってマーク・ピーターセン『続 日本人の英語』(岩波新書1990年)を読んでいると、おなじところが取り上げられていて、そこにはこうあった。

サムは年月の経過や時代の推移、人生の変化などを川の流れにたとえており、”a lot of water “という表現で長いあいだ会っていないことを認めている。しかしそこにはもっと深い意味がある。

「橋の下の水が流れ去って二度とは戻らないのと同じように、『あれからいろいろ(”a lot of water “)あって、もう、あの時に戻れないぞ』という意味の方がむしろ強いのである」と。

サムのせりふに甘いロマンを感じたわたしの感じ方がここで大きく揺らいだ。

さらにマーク・ピーターセン氏は押してくる。

「サムが敬意を示す丁寧な“ Yes.ma’am,”につづいて“A lot of water under the bridge“をやわらかく、優しく発音するからこそ、その表現には独特の説得力があり、サム自身の人間的な勁さを魅力的に感じさせる」

サムは穏やかな表情、優しい口調で、イルザにたいへん厳しい内容を告げていたのである。この時点でサムはイルザとラズロの関係やそれぞれの事情は知らない。だからリックとの約束を反故にして去ったイルザが突然現れ、いま別室にいるリックにまたもや災厄をもたらすかもしれないとサムが不安に陥り、イルザに警戒心を抱いた可能性は十分考えられる。

マーク・ピーターセン氏の解釈はわたしの意表を衝くものであり、またしても英語の読解の難しさを痛感しなければならなかった。せめて「ミラボオ橋」とともに「方丈記」の冒頭「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」をも参考にすればもう少し「あれからいろいろ(”a lot of water “)あって、もう、あの時に戻れないぞ」に近づいていたかもしれない、といってもあとの祭りである。

外国語の学習に勘違いや誤解はつきものと開き直るつもりはないが、あまり嘆いて自分の学力に愛想がつきてしまうのもまずいので反省はここまでにしておく。